第1話 パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない
「聞いた? カーヴァイン家のあの子」
「あの子、最近調子に乗りすぎよね。父上の気まぐれで生まれてきたくせに」
「サリヴァ家のあの子、以前話して思ったけどやっぱり知性に欠けるわよね」
「教養って、やっぱり母親の身分で決まるものね」
「彼女の香水、野草の香りが染みついているのかしら? ひどい匂いだわ」
「かわいそうに————」
陰口と噂話が宮殿の大理石の壁に反響し、華やかな衣装に身を包んだ貴族達の間を絶え間なく駆け巡っていた。
ベルベットのカーテンの陰から、耳をそばだてる者もいれば、扇を顔の前に広げ、唇の動きを隠しながら他人の評判を切り裂く者もいる。
この場所では誰かを蹴落とすことが日常であり、毒を含んだ言葉と巧妙な策謀が蠢く闇の海の中で、貴族達は泳ぎ続けていた。
ここは王宮。
王族あるいは王に近しい貴族の血筋を持つ者たちだけが足を踏み入れることを許された聖域。
まさに選ばれし者のみが招かれる特権の場所であり、その敷居を越えるだけで名誉とされる空間だった。
そんな場所に、私は今日も足を踏み入れる————
「————見て、マリナス様がいらっしゃったわ」
その瞬間、その場にいた全員の視線が一斉に私へと注がれる。
橙色と黒のツートーンに輝く豊かな髪は、宝石を散りばめた髪飾りによって更に引き立てられ、純白の輝くようなドレスは月光を纏ったかのように周囲を明るく照らしていた。
誰が見ても位の高いその令嬢。
アンドレアス王国第一王女————マリナス・アンドレアスであった。
「綺麗な服ねぇ、さすが王女様、どこで仕立てられているのかしら」
「黒と橙色が混ざった髪色、珍しいわよね〜」
社交場の会話は一瞬にして私を中心に回り始める。
王女という立場がこの華やかな空間の中で最も尊ばれる。
その事実を肌に感じながら、私————マリナスは背筋を伸ばし、周囲の視線を浴びながら胸を張って歩きだした。
「でも————マリナス様ってちょっと貧乏くさいところあるわよね」
「確かに……あの靴なんて1ヶ月も前から履いてるものよね」
聞き捨てならない言葉に、私はビクッと体を緊張させる。
え? 靴って1ヶ月で履き替えるの?
これ全然5年とかは履けるんだけど。
衝撃の事実に履いている靴を隠したくなるが、今隠したら余計に目立ってしまう。
ここは我慢して歩き続けよう。
あとで、テレシー————私のメイドにも言っておかなくちゃ。
一旦気持ちを切り替えて廊下を歩いていると、突如として甲高い声が私の名を呼んだ。
「これはこれはマリナス様でございますわ。ご機嫌麗しゅう」
振り返ると、そこには煌びやかな真紅のドレスに身を包んだ少女の姿があった。
「ご機嫌よう。リゼッタ」
彼女の名前はリゼッタ。
王宮随一の名家の令嬢だ。
長い睫毛を上品に瞬かせながら、彼女はいかにも高貴な生まれを意識したように顎を少し上げている。
典型的なお嬢様然とした立ち居振る舞いに、思わず内心で苦笑してしまう。
リゼッタの後方に視線を向けてみると、数人の華やかな衣装に身を包んだ令嬢たちが、一人の宮廷メイドを取り囲んでいる。
メイドは床に膝をつき、頭を深々と下げていた。
その周りには、茶色く香ばしいパンがいくつも散らばっている様子が見て取れた。
「聞いてくださいまし。こんなパサパサのパンをわたくし達の朝食に出そうとしていましたのよ?」
リゼッタは小さな手を精一杯伸ばし、落ちているパンを指差している。
床に散らばるパンは、見るからに焼きたてで、まだ温かい湯気が立ち上っていた。
もったいな。
全然おいしそうなのに。
「すぐにもっと上質なパンを持ってきてくんなまし」
「で、ですが、朝食として用意していたものはこれしかなく……」
「まあひどい!」
令嬢たちからぶーぶーと文句が飛び交い、その声は廊下に響き渡った。
メイドはふるふると全身を震わせ、顔色は見る見るうちに青ざめていく。
「マリナス様も何か言ってちょうだい!」
そこで私に振るんかい。
メイドの潤んだ瞳が私の胸に突き刺さる。
涙を堪えるその表情に、心がちくりと痛んだ。
うう……できることなら助けてあげたい。
彼女は単に仕事をしていただけなのだ。
だがしかし、ここでは私は高潔な王女の役割を演じなければならない。
身分の違いは明確にし、冷酷にならねばならない時もある。
ここは、心を鬼にし、この場の空気を読むしかないのだ。
意を決して、マリナスは精一杯視線を冷たいものにして、高慢な表情を作り上げた。
「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」
おお〜、と令嬢達から感嘆の歓声が上がる。
「素晴らしい! 全くその通りですわ!」
「あはは、そうかしら……」
まさか、このセリフを素で言うことになるとは……
マリナスは令嬢達の見えないように苦笑を浮かべた。
だが、こうするしかない。
私が王女であるためには、時には残酷な態度でいなければならない。
身分の低い、運も才能もない人間の努力を、簡単に切って捨てるような、そんな————
『————んなの、不公平だろ』
え?
どこからか、知らない声が聞こえた気がした。
まるで頭の中に直接響くような————
だが、辺りを見渡しても、声の主は見つからない。
廊下には私達だけで、他に誰もいないはずなのに。
「どうなさいましたの?」
リゼッタが首を傾げ、不思議そうな表情で私を見つめている。
「いえ、なんでも」
「そうですか。それでは、わたくし達は失礼しますわ」
令嬢達は高価な衣装をさらさらと音を立てながら、優雅に廊下を進んでいった。
私はじっと彼女達の後ろ姿を見つめ、曲がり角を曲がったところを確認する。
そして、周囲に人がいないことを確かめると、メイドの方に素早くしゃがみ込んだ。
床に落ちているパンを一つ丁寧に拾い上げる。
「さっきはごめんね。これもらっていくわ」
「え? は、はい……」
唖然とするメイドを置いて、それ以上の言葉は交わさず、その場を立ち去った。
廊下の角を曲がると、誰にも見られていないことを確認し、拾ったパンを口に運ぶ。
パンの表面はカリッとして、中はふわふわと柔らかい。
一口かじれば、小麦の香ばしさが口いっぱいに広がる。
「やっぱり美味しいじゃない」
この時だけ、私は王女という仮面を捨て去っていた。
読んでくださりありがとうございます。
主人公がこの先どうなっていくのか、ぜひこれからも見守ってあげてください。
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