原点
身体がとてもフワフワとしていた。
私がどこにいるか分からなくて、ふと下を見ると、私の身体が変哲もなく存在したが、すぐに違和感を感じる。
地面のそれも石ころが大きすぎる。
すぐに手を見ると、幼く柔らかくすべすべとしたものであることから私が小さい幼子であることを確認できた。
これは昔の話だ。だけれど、夢の中では現実と区別がつかない。
私の両親は生まれてすぐに死んだ。
身寄りのない私は教会を経て、靴屋に引き取られた。
けれども、別に子供を引き取るやつが全員まともなやつだとは限らない。
私が引いた養親は貧乏くじだった。
他に実子や養子はおらず、30代くらいの店主の男、その妻、そして4歳になった私だ。
彼らは私を殴ったり、あるいは脅迫的に怒鳴りつけたり、放置したりした。
男もその妻も、私のことを明らかに疎んでいたし、あるいは軽蔑をしていた。
私の唯一の楽しみといえば、倉庫を掃除するときに十分、二十分サボり読書を読むことだった。
これが最も贅沢なことだと、私は考えていた。
私が六歳になったときに、新たにもう一人が引き取られることになった。
少女だった。
無口で凛としていて、睨みつけるような瞳の持ち主だった。
名前はハンナ・オンバーン。彼女も身寄りがなかった。
今にして思えば一目惚れだったのかもしれない。
だけれど、当時の私といえば思春期どころか初等学校にすら入っていない幼児。
恋だの男女だの、そういったものを知るのは随分と先の話だ。
ムズムズとしたその間は暗黙の違和感として私の中で暴れていたし、それを制御するすべも理由も私は理解できていなかった。
最初は近寄りがたく、話すらできなくて、彼女が私を嫌っていると思うことが多々あった。
というよりも、ほとんどそうだった。
初対面の人間とはそういうものだ。
相手が分からない状態でのファーストコミュニケーションは警戒心から敵対的に見えることが多々あるのは既知の事実だ。
けれども、私にとって"ハンナ・オンバーン"との接触は初めての同年代との触れ合いだったのだ。
今となっては当たり前のことさえ、すべてが新鮮で特別で恐ろしいものに、当時感じていた。
最初は挨拶の会釈。その次は事務連絡。
段々と表面的なことを話し出して、相手に関する知識が段々と増えてくる。
今日よりも明日のほうが仲良くなっている。
無論子供だから喧嘩はしたが、それでも長期的に見れば私たちの絆は右肩上がりだった。
同居して、寝室まで狭く不潔な所に入れられて、身寄りのない孤児で、養親は私たちを虐待する。
そういった環境も私たちの関係を皮肉にもはぐくんだのかもしれない。
何がともあれ、ハンナとの関係は人間関係のプロセスを教えてくれた。
社会性を知らなかった私にとって、これらの経験は人生で最も価値があったかもしれない。
時は経ち、私たちは初等学校に入った。
けれども、そこも暖かい場所ではなかった。重要なものは社会的信頼である。
養子という要素を除けば、私たちを横並びにしたときに違いはない、ただの子供だ。
それが表面的なラベルによって全く別の何かになる。
同じ人間であろうに、それを理解しようとしない。
"貧乏な養子"は、排除のターゲットとしてはこの上ない適任者だったわけだ。
私にとっての唯一の友達はハンナで、くだらない馬鹿話から、真剣な相談まで、彼女しか信頼することができなかった。
そして唯一の趣味は相変わらず倉庫の読書だった。
"フェーニング人権論"。
タイトルに横文字でそう書かれた本を私はたまたま広げた。
倉庫の高い位置にあって、私はまだこの本を見つけることができていなかったのだろう。
身長とそれに伴う新しい本の出会い。少年の私がワクワクするには十分すぎる状況だ。
それがこの本との出会いだった。高鳴る鼓動を抑え本を開き、読み進める。
「人権は人間が人間らしく生きる権利?」
"人間らしく"とは一体何だろう。本に書かれたその一文は私に違和感を与えた。
読み進めると違和感が加速した。その本は優しすぎた。
まず、私たち人間は殴られなくても済むらしい。それがたとえ親権者やあるいは店主であってもだ。
つまり店主が私たちを殴るのは間違っていたということになる。
それどころか、人間は毎日ご飯を食べたり、あったかいベッドで寝たり、治療を受けることは生まれながらにして皆が持っている普遍的権利らしい。
「人間らしく…」
私は感動した。世の中がこうなればいいなと思った。
もう、学校で石を投げられたくないし、そもそも論私たちは毎日教育を受けたい。
対価なき終わりの見えない奴隷生活も、それは本当は間違っていたんだ。
毎日殴られることもなく、ご飯を食べられて、それで愛される。ああ、なんてすばらしいんだろう。
どうして、人類はそんな素晴らしい世の中を築けないのだろうか。
どうして?決まっている。
それは店主とその妻が私たちの親としての義務を果たしていないからだ。
だったら排除してしまえばいい、この本が正しいなら、人間らしく生きられる"人権"は何人たりとも、神様でさえ侵害してはならないとされているのだから。
だけれど、それは私とハンナは救われるかもしれないが、数百万といる貧困で苦しむ子供たちは何も変わらない。
ふと、私たちの殴られたり、ご飯が出てこなかったり、それを別の誰かに当てはめた時、やるせない怒りが込み上げてきた。
何も変わっていない。誰かが私たちと同じ苦しみを抱え続けては、駄目だ。
誰しも、人間らしくあるべきなのだ。
だが、それらの人々を救うには膨大な金がかかることはわかっていた。
それらの子供たちを救うためには、それを実現できるだけの豊かな社会が必要だった。
"フェーニング人権論"の最後のページはフェーニング大陸の地図でしめられている。
私たちの住む大陸が巨大だった。なんで雄大で強大なんだろう、と私は思った。
そして何億もの人々が国境を挟んで住んでいる。
「そうだ、私たちが手を取り合ればもっともっと豊かになれる」
ハンナに私が何度救われ励まされたことか。人間は一人では無力なんだ。人間は社会的な生き物なんだ。
だからこそ、手を取り合って、そうすれば人権という空想的な思想にもいつか手が届くかもしれない。
みんなが人間らしく生きられる、そんなユートピアみたいな世界がこの現実に現れるかもしれない。
いつか、私たちが大人になった頃にも同じくらいの歳の子供がこの国にいるだろう。
私たちには無理だ、人権なんて言う理想的な権利を手に入れることなど。
だが、彼らが。数十年、数百年、あるいは数千年後の未来の子供が"人権"を享受できるように。
空想的理想を具現化できるだけの、強力で豊かな社会を作るんだ。
私は読書時間を費やして、ある計画を立てた。
この本の言う"人権"を実現するため、私がするべきことはこの地獄から抜け出すことだった。
計画を練った後、私はハンナに打ち明けた。彼女を置いていくなんて考えられなかった。私と唯一の友達で恩人だった。
あるいは、私自身もハンナと離れることが耐えられなかったのかもしれない。
ハンナは頷いて賛同してくれた。
「ハンナ、こんなこと間違っている。私たちはもっと人間らしく生きられる」
私の言葉はまるでペテン師のようだったが、それでもハンナは私の伸ばした手を握ってくれた。
私もハンナもこの地獄から抜け出したかったのだ。
ハンナが私の手を握り返してくれた瞬間、私はどれほどまでにうれしかったか。
初等学校の卒業式の日、私達は軍へと駆け込んだ。外の世界へと出て、逃げ出すために。
かつて出会った頃、私はハンナに一目惚れをしていたが、その淡い初恋は叶いそうになかった。
私にとってハンナは唯一無二の人間であって、恋をして関係を壊すなど考えられなかったのだ。
軍では今まで以上に厳しかった、そんな中でハンナもあるいは私もハイカラな恋など、泥水で濡れた手榴弾とともに散っていく。
軍で私は出世をした。
あの日読んだ"フェーニング人権論"とそれを実現するための"豊かな社会"という二つの夢物語が私の第二の初恋だった。
次第に私自身の幸せよりも、みんなが不幸な思いを二度とさせないという思いのほうが強くなって、結局ハンナに想いを伝えることはなかった。
あの時、もっと普通にハンナに思いを伝えて、付き合ったり、あるいは失恋していたら。
こんなにもハンナへ罪悪感を感じずに済んだのだろうか。
ハンナが危険な役職に居続けなくて済んだのだろうか。
「ウォール議長…ウォール議長…」
身体がゆすられる。
段々と意識が覚醒してきて、夢と現実の区別がつくようになる。
私の今まで見てきたのが、夢で今は現実だ。
夢の時は夢が夢だとは気が付けなかったのに、現実に戻ると、どうしてあれは夢だったとすぐに区別がつくようになるのだろうか。
「もう着きましたよ。随分とお休みになられていたようで」
周りを見渡すと馬車で、もう止まっているようだ。
馬車の入口からフィール外交部長が顔を出している。
「もうユマイルに到着したのか」
「ええ。ネルシイ万博の後すぐに馬車で帰路に入ったので、流石にお疲れだったのではないでしょうか」
「ああ。そうかもしれない」
三国の国際会議・ネルシイ万博視察も終わり、ようやく私たちは祖国ユマイル民族戦線に帰ってきた。
これでまたいつも通りの業務が始まる。
先に建物へ行くフィールを何気なく呼び止めた。
「これからもよろしく頼む。フィール外交部長」
フィールはそういわれると急に戸惑っておどおどしだした。
「え?!いきなりですか…。ええ、もちろんです」
フィールが予想外のことで混乱するのを見ていると、ふと建物からもう一つの人影がやってくるのが見えた。
誰なのか一発で分かった。
「そういうのは『こちらこそよろしく』って言うのよ。フィール外交部長」
ハンナがフィールにそういうと、フィールは嫌な顔をして彼女を見る。
「ハンナか。留守番はしてもらえたか」
「それはもう。私はウォールを信じているから、焦りは必要ないの」
ハンナがフィールを当てつけのような視線を送る。
「ウォール議長はお疲れですし。まあ、たまには羽を伸ばすのもよろしいかと」
フィールはハンナの視線を流して、私を見つめながら言った。
「ああ、いい気分転換になった。せっかく本国に帰ってきたわけだ。早速溜まっていた仕事を消化しよう。関税同盟条約の批准、ネルシイ万博から学んだこと、するべき仕事は沢山ある」
私の言葉に、ハンナはため息をつく。
「ウォールは変わらないね」
ハンナは寂しそうに遠くを眺めて、呟いた。
ハンナの見つめる遠く先、そこには何もなかった。