ハンナとの思い出
仕事も終わり議員宿舎に帰ってきたときのことだった。
私の部屋から灯りがともっているのが分かり、察した。
鍵でドアを開け、中に入ると彼女が待っていた。
私のベットに座り、ツンと唇を伸ばして集中して読書に励む彼女の姿だった。
その横顔は力強く、肌は健康的に日焼けし唇は慎ましく薄い。
私はその少し動いた唇から目を離すことができなかった。
だが、そんな時間は永遠に続かない。
ドアの音に気付いた彼女は私のほうを見て、首を傾けてほほ笑んだ。
「おかえり、ウォール」
ハンナの声は昔のままだった。
声変わりしない女性だからだろうか、それにしても少女時代と声があまり変わっていないということは珍しい気がする。
昔から凛とした、透き通った声でかっこいいのにどこか少女らしく可愛げもあり好きだった。
私は変わってしまった。
声変わりが起きて、低く野太い声になってしまった。
可愛げのある高い声は、私にはもう出せない。
「ハンナ、また私の部屋に入ってきたのか」
私の問いに、ハンナは合鍵を見せてくれた。
私の部屋の合鍵を持っているのは幼馴染の彼女だけだ。
「何か用か?」
「用が無いなら、入っては駄目?」
「駄目じゃない」
私はそう答えると、書斎に座った。
バックから仕事の資料を取り出した。
今日の仕事は終わったが、明日の分まで目を通しておきたかったためだ。
後ろから音がした。
人影が私の後ろに近づいてきて、肩を優しくなでてくれる。
「ウォール頑張りすぎじゃない?少しは休んだら?」
「することがないしな。休日をもらっても時間を持て余すだけだ」
「…そっか」
すると彼女の細い手が私の肩を揉んでくれた。
「肩を揉むくらいいでしょう?」
もまれると痒いような気持のいい感覚を得られた。
揉まれるたびに、自分の内なるものから疲労が飛び出て排出しているような感覚に襲われる。
揉まれても揉まれても、疲労は出てく、むしろ増えているような…。
そこで私は気が付いた、"ああ…私は疲れていたんだな"。
思わずうつむいてうっとりとした目をして、思考が止まった。
それから数分…いいや数十分はそのままになってしまった。
疲れがだいぶ楽になったとき、私はもう仕事をする気分ではなくなってしまっていた。
「ハンナ」
「うん?」
「久しぶりどこか食べに行くか?」
振り向いていないため、ハンナの表情はわからない。
「うん!」
彼女の声色は明るくうれしそうで、喜んでいるのが分かった。
いいや…私が彼女が喜んでいてほしいと願っていた。
「どこに行くの?」
「そうだな。大衆食堂がいい。もう高級フレンチはウンザリだ」
ハンナは笑って答えてくれた。
「そうだね。私ももう高いものは食べたくないかなあ」
「…こんなこと国民に聞かれたらスキャンダルだ」
「本当に。庶民のころは高級料理に憧れあったけど、こんな形で食べるとね…そもそも味わからないし」
「ああ。交渉しながら食べるご飯なんて味が分かるわけがない」
「どこか当てはあるの?」
「いい場所がある。安いけど美味しい場所だ」
そういうと私は部屋を出ようとしてふと思った。
ハンナが部屋着だったのだ。
「ハンナは着替えるか?」
「え?うん、そうだね」
「分かった。部屋までついていく」
「え?どうして?」
「心配だし」
「心配ってよく部屋着で議員宿舎歩いてるよ、私」
「それが心配なんだよ。気をつけろ」
「ふーん」
部屋を出て、ハンナの部屋へ向かった。
ハンナの部屋…というか行政機関の部長たちと議長用の部屋は近いため一瞬だったが。
ハンナが部屋に入って私は外で待つことにした。
ドアの前で待つとまるで自分が不審者な気がして気が気じゃない。
すると足音がして、思わずビクッとしそちらを見た。
歩いてきたのはフィール外交部長兼庶務部長だった。
「あ、ウォール議長…」
フィール外交部長は小さい声で言うと、私に会釈をした。
「フィール外交部長か。ご帰宅ですか?」
「はい…」
「お疲れ様です」
「あの…ここハンナ…諜報長官のお部屋ですよね?」
「ええ」
「どうしてここに?」
「ハンナ…諜報長官と食事に行くことになってまして」
役職をつけるべきか迷ったが、フィール外交部長とプライベートでの接点があるわけではないのだから、ハンナを役職付けで呼んだほうがいいだろう。
なんか誤解ありそうだし。
「ハンナ諜報長官と…」
フィール外交部長は怯えたような不快感の漂う声色で呟いた。
「何か?」
脅かすつもりは無かったが、意味深長だったために思わず聞いてしまった。
「いえ…!!別に深い意味はないんですけど。あの、お二人はお付き合いしているわけではないんですよね…?」
"付き合い"という言葉に思わず私は動揺してしまった。
付き合うというのは男女交際のことだろうが、私はそんなことをやったことがない。
あんな未知数で抽象的な行為は、難しい。
法律と慣例に縛られた政治の方が私にはよっぽど簡単なことに見える。
「付き合っているわけじゃない」
「そ…そうですか」
フィール外交部長は弱々しく呟く。
するとちょうどドアが開いてハンナが出てきた。
「待たせちゃったね、ウォール。行こっか」
ハンナが出てくるなり、フィール外交部長は露骨に動揺した後、何も言わずにそっぽを向いた。
元々フィール外交部長はお淑やかというか、内気な人間だが、ここまで動揺しておびえるのは珍しい。
いつも一様におどおどしているから、動揺するときは案外ないんだよな…フィール外交部長。
そのせいか私はフィール外交部長のことを凝視して固まってしまった。
ただでさえ動揺していた彼女が、私の視線に気がついてまたそっぽを向いてしまう。
すると、腕に温かい感覚を感じた。
振り向くと目の前にハンナの顔が目の前にあり、私は思わずのけぞった。
「ハ…ハンナ…」
端的に言えば、私はハンナと腕を組んでいる状態になっているのだ。
「ずっと私のこと無視していたから」
「別に無視していたわけじゃない」
随分と拗ねている。
声色、態度、言動から良く伝わってくる。
ハンナがグイグイと引っ張ってきた。
結構な力で、流石軍上がりだけある、思わずよろけて引っ張られた。
「フィール外交部長、お仕事お疲れ様」
私の声は虚しく響き、私はハンナに連行されて行ってしまった。
私は少し連れていかれてようやく解放され、歩きながらハンナに尋ねた。
「ハンナってフィール外交部長と面識あったっけ?」
「調整会議で毎日顔合わせているじゃん」
ハンナが吐き捨てた。
「いや、それはそうなんだけど。プライベートとかあるいはそれ以前とか」
「さあ?」
ハンナは低いな声で答えた。
いつもそうだ彼女が真剣な答えをする時、そうやって考えがよくわからない微妙な声を出す。
真偽を悟られないためなんだろう。
しかしながら、今の問いで「さあ?」と答えれば答えを言っているも同然だ。
「それが答えか」
「私は『さあ?』としか言ってない」
それは単なる反復で、ハンナの言葉の意味を強調するためのものだろう。
「ああ、分かっている」
政治家や官僚というものは曖昧な表現を好む。
言質を取られれば、それは義務となって帰ってくるためだ。
『有言実行』ができればかっこいいかもしれないが、できなければ政治家としての根本的信頼に関わる。
『有言実行』のカードはここぞという時にのみ切るべきだ。
だけど、
「私達は別に幼馴染で友達だ。ハンナに間違いや誤認があっても、私は議会で追求するなんて真似はしない」
「友達…ね」
ハンナがつぶやいた。
そして俯いて沈黙が訪れてしまった。
「ごめん。ウォールには話したくない…絶対に」
ハンナはいつもの強く若干低い声で答えた。
私はハンナの色々なことを知ってきたが、そうやって明確に拒絶されたのは初めてかもしれない。
ちょっと驚いた。
「ハンナがそこまで言うなら分かった。話したくないのなら話さなければいい。私はハンナの意思を尊重したい」
「うん…」
ハンナが頷いてくれた。
「でも、仕事に影響が出るのは困るから、うまくやってくれ」
「今のところ出ていないので大丈夫。害はないのでスキャンダルをでっち上げる必要性を感じない」
「おいおい…」
大丈夫か、こいつら。
ハンナとフィール外交部長が面識あったなんて初めて知った。知っていたら、こんなことしていない。
今からでもどっちか罷免にするべきか…。
議員宿舎を出て、官僚・議員・財界人・高級将校しか入れない特別区を出ると、そこはユマイル民族戦線の首都"ユマイザル"の一般街になる。
出ようとした時、警備兵に止められた。
「お待ちください、護衛の者を付けますから」
「ああ、いいかハンナ?」
振り返るとハンナがしぶしぶ頷いた。
どうやら二人だけの時間というものはないらしい。
私たちが背負っている責任の重さを考えれば致し方無いことだが。
少し待つと警備の兵士がやってきた。
歩いてまた10分ほど、陸軍高等学校のすぐ近くにそれはあった。裏路地の食堂だ。
「ああ、ここね」
ハンナは頷く。陸軍高等学校前期課程にいた頃、ハンナと二人で食べに来たところだ。
何も変わらない扉、薄汚い壁。あの時と何も変わっていない。
ドアを開けるこの音でさえ…。
「いらっしゃい」
店主は私たちの顔すら見ず、言った。彼の癖だ。
「お久しぶりです」
私の声を聞くなり、彼の動作が凍り、固まり、数秒した後ゆっくりとこちらを見た。
「ウォール…ウォールじゃないか…」
店主が厨房からのしのしと出てきた。
「大きくなったな」
「…ええ。お陰様で」
「ハンナちゃんも別嬪さんになりよったな」
「どうも」
ハンナが恥ずかしそうにあいさつした。
まるで子供みたいだ。
ハンナはあんまり可愛いだの美人だの言われ慣れていない。
すると後ろから入ってきた警備兵を店長は一瞥した後、私のほうを見た。
「偉くもなったようじゃ」
「…おかげさまで」
定食屋行くのに警備が付くわけだからなあ。
「そのおかげでハンナちゃんは新聞には『鉄の女』だの『黒幕』だの『女帝』だの書かれているけれどな、やりたい放題だ」
店長は大きな声で笑った。
前議長・労働党政権がスキャンダルで辞任したが、その時調査を担当したのが諜報部のハンナだったからだろう。
大抵ゴシップ紙には黒幕として描かれている。
「ハンナは昔も今も根は優しいですよ。立場があるので仕方のないことですけど」
店長は私を見つめてきた。
「な…なんですか?」
「で、おぬしらどこまで進んだんだ?」
「進んだ…?ええと我が政権発足後、国民総所得は16%上がり、鉄道普及率は80%近くになり、火砲の数は3倍近くに増えましたよ」
「そういうことじゃないんだよ」
店長は呆れたようにつぶやいた。
「じゃあどういうことなんでしょうか」
「ほら痴情…」
「地上?ご安心ください、我が陸軍は完璧です」
「はぁ」
店主がため息をついた。
「あの、私たち付き合っていませんから」
ハンナが補足してくれた。
すると店長が目を丸くして
「お前らまだ付き合っとらんのか…」
とため息交じりに呟いた。
「店長。我々は食事に来たんですが」
「そうかい。まあ、立ち話もなんだ。案内しよう」
するとお座敷のある低いテーブルの席に案内された。
座敷も汚い、壁も汚い、だが机にゴミがないのは何とか飲食店として踏みとどまっている証だ。
「兵隊さんはどうするのかい?」
後ろから付いてきた二人の警備兵を見て言った。
「ああ、彼らは隣のテーブルにしていただけるとありがたいんですが」
「分かった」
むろんプライベートの食事なのでできれば二人で食べたいが、警備兵を遠くに置くわけにはいかないからな。
彼らにはもしもの時に我々のことを守るのが仕事だし、守れなかったら彼らの立場が危ういだろう。
私とハンナの二人で一つのテーブル、そして警備兵二人が左隣のテーブルにそれぞれ座った。
「君たちも何か頼むといい。夕食まだなんだろう?」
私は警備兵のほうに話しかけた。
「しかし…」
「何も気にするな私のポケットマネーから出す、奢りだ」
二人の警備兵が困ったように顔を見合わせた。
「何も頼まないのに居座られても店は困る。それに仕事とはいえ、私たちの私的な食事に付き合わされるなんてたまったものではないからな」
私が笑いながらそう言うと、ようやく彼らはうなづいてくれた。
「私たちも頼むか、ハンナ」
「そうね」
メニューを開くと、何も変わっていない。
心が陸軍高等学校時代に戻ってあの感覚が呼び起された。
それはハンナも同じだったらしく、彼女も珍しく優しく微笑んでいた。
「期間限定ジャンボカレーまだやってるのか…」
詐欺じゃねえか、これ。
「本当にね。いつか終わるのかしら」
「閉店までこの期間限定メニューやり続けるんじゃないの…」
陸軍高等学校時代にはハンナと二人で挑戦したものだ。
結局二人とも食べきったが、お腹がパンパンでもう当分カレーは食べたくないと二人で誓ったのを覚えている。
何も変わっていないなら、既存の記憶が使えるはずと思いながら、パラパラと見てみる。
揚げ物が美味しそうだ。
「ハンナは決まったか?」
「うん」
「じゃあ頼むか。すみません」
呼ぶと店主が出てきた。
「はいよ」
「私は揚げ物定食で」
「揚げ物定食ね」
「私は日替わり定食でお願いします」
「日替わりね」
店長が行こうとするとちょうど隣の警備兵も注文が決まったらしく呼び止められていた。
何を頼むのだろうかと思い、メニューを閉じながら聞き耳をたてていると
「高級魚介定食で」
吹き出しそうになった。
横を見ようとしたが踏みとどまった。
いくら金持ちになっても、私は"発想が庶民"のままなんだなと感じた。
政治家同士の会食で食べている高級料理などと比べれば圧倒的に格安だが、それでも高級魚介定食はこのお店で一番高い品だ。
それにたいてい経費で落ちるし、政治家同士の会食。
この警備兵、度胸があるな。
どうせ仕事が忙しくてお金はたまる一方だし、いいだろう。
使う機会が無さすぎる。
「汁物定食で」
もう一方の警備兵は節度をわきまえているのかあるいは怖気づいたのか、汁物定食にしていた。
店内は騒がしかった。
うるさくあるいは畳の上で無造作に胡坐をかいて新聞を読む客なんかもいた。
ふとそこには四人の家族が私の目に入った。
こんな店に来るのだから貴族や財界人ではないだろう、"首都の庶民"というのは、議長として贅沢な人間しかいない特別区にいる私にとって新鮮だった。
母親、父親、娘、息子。四人家族だった。暖かく優しく団欒としていて、モデルケースにしたいくらいだ。時より話したり、そそくさと動いたり、笑ったり。
息子は"食べ方がなっていない"らしく、しばし両親に注意されているのがうかがえた。
それは貴族階級のような病的なまでの徹底的英才教育でもなく、貧民のネグレクトのような放置でもなかった。
娘の話を父親がうんうんとうなづきながら聞いている。
この子供たちは親から愛されているのだと感じる。
私の視線が彼らに向いていることはハンナにバレバレだった。
「うらやましいの?」
ハンナは静かに聞いた。
「そりゃあそうだ。私たちの家族に愛なんてなかった。ハンナだって同じだろう」
「…そうだね」
「ウォールはほしくないの…その…家族とか」
ハンナの問いに私は少し黙って
「考えたことがない」
そう答えた。
「そっか。どうして?」
「どうしてって…。私にはやるべき事がある。それにそれが私のやりたいことでもある。なんとしてもそれを成し遂げたい。誰もが本当は豊かに人間らしく生きることができるはずなのに」
ここは大衆食堂なので"大陸の統一"などと言う言葉は出さないようにした。
「ウォールはすごいね。どうして社会の問題をこんなにも自分事として考えられるの?」
「私たちと同じ思いをする子供たちをこの先出してはいけないからだ。もう二度と。そのために強い国家と経済を作る。土地と民を増やして。そうすればみんな豊かに暮らせる。きっと、そうなんだ…」
「自分の幸せがほしいとは思わないの?"国民"とか、"国家"とかじゃなくて」
ハンナは心配する声を出した。
「思わない。これから国家に生まれてくる何万、何億もの子供の幸せを考えれば、私の幸せなどあまりにちっぽけだ。彼らの幸せを考えたほうがよっぽど有意義だと思う」
ハンナは微笑んだ。
「ウォールは、ウォールだね。優しいままだ」
あまりに柔らかい表情で、私は思わず目をそらした。
横から声がしてそちらを向く。
「はい。揚げ物定食と日替り定食、お待ち」
店長が直々に持ってきてくれたのだ。
私の前に揚げ物定食、ハンナの前に日替り定食を置いてくれた。今日の日替わり定食は焼き魚と漬物だ。
唐揚げ定食、油をたっぷりと使いパリッと揚げ、歯ごたえのあるお肉を使っている。
何よりも匂いでわかる。
すべてを思い出させてくれる。
陸軍高等学校からヘロヘロになって帰ってきたあの日のことも、帰りに雨が降ってずぶ濡れになったあの日のこともだ。
私は唐揚げを口に入れた、噛んだ瞬間驚くほどの肉汁が飛び出してきた。
慎まやさに囚われている高級貴族には一生分からない旨さだろう。
おいしい。
工場労働者の給料三か月分の会食よりも、よっど美味しいし、何より味がわかる。
会食相手がいない、相手の話も仕草も意図も背景も利害も求めているものも、何もなんにも考えなくていい。
だって、目の前にいるのはハンナなんだから。
私がこの食事でするべきことは食べることだけなのだ。
「おいしいね」
ハンナが言った。
「ああ、おいしい」
私が心の底からおいしいと言えたのは数年ぶりかもしれない。
特に議長になってから、よくわからん高級食材を上品に褒める苦痛な会食という作業をやらされてきたからな。
箸が自然に進む。
自分の好きな時、好きなものを口に放り込んだ。
箸が進めば自然と話も進む。
「覚えている?陸軍高等学校時代の成績」
ハンナが私に問いかけてきた。
「ああ、もちろん。ハンナは成績よかったよな」
「いや、そうかな…?」
「そうだろ?トップ10入りで卒業しているんだから」
「そうかもね。でもウォールだってそうじゃん」
「ああ。私たちは頑張ったからな」
"頑張ったからな"という言葉がどれだけ重いか、私たちにはその価値を共有できていた。
あの頃はやはり厳しい訓練と教育の下、ピリピリとしていた。
馬鹿みたいに走らされた身体訓練も意味不明な数学も、それらを超えられなければ"陸軍高等学校"を卒業できない。超えられなければ…
「あれ?私たちの陸軍高等学校前期課程の退学者っていたっけ?」
「うーん…40人くらいいたと思うよ」
ハンナが少し食い気味に答えた。
「まあそうだよな…。あれだけ厳しければ。百人強入って四十名だから相当だ」
「そうだね」
そう言っているはじから食べて飲んでいた。
明らかに食べるペースがいつもより早い。
出される量は多いのに、いつもより早く食べ終わりそうだった。
「ハンナは陸軍高等学校出た後、諜報部に出向か」
「ええ。ちょうどウォールがユマイル・フェーム国境の師団に送られたのと同じころね。その後、軍を辞め正式に諜報部所属になって、出世して今にいたるわ」
ここでハンナは言葉を止めて、
「あの頃はウォールに会えなくて寂しかった」
とつぶやいた。
「ああ、私もだ。文通だけだと気持ちは伝わらない」
ハンナはうなづいてくれた。
他愛のない時間はいつまでも続かない。
世の中は社会であり人間はやるべきことが付きまとう。
山にこもる仙人でさえ、焚き火をたいたり、山菜をとったりしなければ飢え死にするのだから、結局それらからは逃げられない。
ご飯を取り、話し続けた私たちに待っていたのは現実だった。
「そろそろ帰りましょうか。…大分お店に居座ってしまいましたし」
「ああ、そうだな」
横を見ると警備兵も待ちくたびれた感じだった。お仕事お疲れ様です。
店主に声をかけた。
「食べ終わりました。警備兵の分とハンナと私の分をお願いします」
「はいよ」
店主がやってきた。
「唐揚げ定食が600YC、日替わり定食が480YC、高級魚介定食が2100YC、汁物定食が450YC、計3630YCね」
うわ、高級魚介定食が相当な割合占めてるな。ちなみに、YCは我が国の通貨だ。
「分かりました」
そういって私が払おうとすると、ハンナに止められた。
「ちょっと、私の分は私が払うよ」
「気にしなくていいぞ」
「そういうんじゃなくてな。ハンナちゃん、ウォールも男の子なんだよ。ありがたく受け取ってやんな」
「店主は黙っていてください」
ハンナは言い放って、店主を排除していた。
店主が一瞬おびえて、「うちの嫁と同じ目をしおった…」とぶつぶつとつぶやく。
「ウォール、あなたと私は対等よ」
ハンナはまっすぐと私も見つめていった。
「…分かった。それが君の選択なら自分の分は自分で払うべきだ」
店主はなんかガッカリしていた。
気にしないことにしよう、男が女に払い甲斐性を見せるという世間的常識を私もハンナも知っているはずなのだから。
でも、それでも私はハンナの選択を尊重したかった。
たったそれだけだ。
私が警備兵と私の分を払った。ハンナは自分の分を払った。
まあ定食屋の食事なんて、ハンナや私の給与を考えれば誤差みたいなものだけど。
それでもハンナは自分のことは自分でやることを選んだ。
それはとても勇敢で正しい選択だと思う。
「長い間お邪魔しました。ごちそうさまでした」
「はいよ。またおいで」
店長が優しい声で見送ってくれた。
私たちは外へ出る。
もう夜で暗くてあるいはちょっと路地裏のここでは居酒屋が稼働しだしていた。
相当長居してしまったんだな。
謝罪して正解だったし、なんなら追加料金の一つでも支払うべきだったかもしれない。
路地を抜けようとするとき、すっと酔っ払いのおっさん…おじいちゃんくらいだろうか、作業着を着た人間が私にぶつかりそうになった。
慌てて警備兵が私たちの間に入る。
「お!」
すると酔っぱらいは私を指さして叫んだ。
「こいつは…ウォール議長ではございませんか」
こうして馬鹿みたいにでかい声で、指をさされると一般人という感じがして好きだ。
皮肉ではなく。
ほとんどの国民は本来こんな感じなんだろう。
特別区にいる高級将校だの貴族だの議員だの官僚だの…そいつらなんて本来一握りしかいないんだ。
「すみません。先を急いでいるので」
と言い私が行こうとしたとき。
「おいウォール。おめえ、税金減らせや。あと退職手当…もっと出せんと酒が買えねえだろうが」
「退職手当には、十分財源を投下しているつもりです。今までが巨額すぎただけですよ」
「知るかそんなもん。どうせ大陸の統一だのようわからん夢物語に税金と溶かしているんだろう?税金泥棒がよ。わしらの働いた金なんだと思っとるんや、酒にゃあ必要なんぞや」
ところどころ…というか、結構な頻度で呂律が回っていない。相当酔っているな。
するとハンナに後ろから肩を叩かれた。
「ウォール、相手は酔っ払いよ」
「わかっている」
けれど、この酔っ払いこそがこの国の"庶民"の本心なのかもしれない。
私たちだって貧困の連鎖から抜け出して、軍に入った時には周りや社会のことなんて全く見えなかった。
自分のことで手一杯で、他人を慮る余裕なんてなかった。
「予算には財源が必要なんです。あなたがお酒を買うための退職手当を支払うためには、経済を伸ばして税収を増やさないといけないんです」
「知るかと言うとるがい。今すぐだきんしゃい」
「それでは駄目です。ただでさえなけなしの予算を有効に使えなければ、ずっとこの予算不足は終わりません。現在の私たちが現在のために使っては未来の子供たちは何も変わらないんですよ」
「んなもの、わしらは今日の酒の話をしておる、百年後の子供なんか知るかいな」
「誰かが今日のお酒を我慢して百年後の子供を考えなければ、百年後の子供もあなたと同じ苦しみを味わって同じことを言うことになります」
私は財布からお金を彼に恵むべきか迷って、止めた。
「私たちは豊かな社会を作り出して見せますから。だから、もう少しだけ我慢してくれると嬉しいです。きっとあなたも高いお酒が飲める日が来ますよ」
酔っぱらいの目を見て行って、私たちは歩き出した。
「いいの?あんなこと言って」
「私の公約だぞ。いいも悪いもない」
「ウォールは…大陸の統一が国を豊かになると思う?」
「もちろんだ。だからやっている」
「巨額な軍事費も急進的な工業化も国民への税負担も、戦乱による若者たちの血を天秤にかけても?」
ハンナの問いに私は歩きながら答えた。
「それらを天秤にかけても、プラスのほうが大きい。一時的に損であったとしても、私は大陸統一の先に豊かな社会があると信じている」




