フィール・アンブレラ
ハンナ・オンバーンは死んだ。
諜報部と庶務部警察課の調査によりハンナを暗殺したのは、ユマイル軍の第十七師団所属エブレイ・ユートク准尉だと判明した。旧労働党政権時代の庶務部長ガジレイ・ユートクの娘だ。
当時の庶務部長ガジレイ・ユートクはネルシイから違法献金を受け取り、機密情報を外部に漏らしていた疑惑が発覚しており、捜査に当たった諜報部の責任者がハンナだった。
結局ガジレイ・ユートクは自殺し、その後疑惑が労働党関係者たちに飛び火したため、捜査の本丸はそちらに移った。
ガジレイ・ユートクは表舞台から消えたが、彼の死によってユートク家は離散、この時に娘のエブレイ・ユートクがハンナに恨みを持ったのではないかとレポートに書かれていた。
親友に「父親は諜報部に嵌められた」と言っていたそうだ。実際、ハンナを殺害するときに言っていた「パパの仇だ!!ハンナ・オンバーンは恨みを思い知れ!!」とも辻褄が合う。
彼女がこの行政区の警備に赴任したのは、フェーム帝国戦争に伴う師団大転用の人手不足で臨時に呼ばれた。
レポートによれば"たまたま"だったわけだが積年の恨みを晴らす絶好の機会だったはず、彼女はこの機会を逃さなかったことになる。
政界にとって衝撃的な出来事であり、労働者政権を追い込みミステリアスな諜報部の"女帝"が死んだことをマスメディアはセンシティブに報じた。異様な興奮と警戒感の中、葬儀についてどうするかの議論が始まる。
幼馴染である私にとって、ハンナ諜報長官の死ではなく、ハンナ・オンバーンの死だったからだ。親友の死である。家族の死である。そして、好きだった女の子の死でもある。だから、静かに行いたかった。
議会では、ユマイザルにある大規模な会場をハンナの葬儀に使う案も出ていたが、反対デモやトラブルが起きるのは明白だ。
私は反対派を押し切り、行政区内部の教会で葬儀を行うことにした。
実際今も行政区の周りでは、ハンナの死を陰謀だと唱える保守党支持者と、ハンナの背後関係を調べろと訴える労働党支持者が数万人規模のデモを行い衝突している。
だが、この教会はとても明るく暖かかった。
死体は冷たく固まったままだった。二度も戻らないたとえ大陸統一しようとも、どれだけ多くの人を粛清し、絶大な権力を手に入れたとしてもだ。死は生命である以上避けられない。
人間は神になれず、死人を生き返らせることも、時を巻き戻すことも許されない。
それは権力者も一般市民も平等だ。
私の順番の時、ハンナの頬をなでる。溢れ出そうな涙は抑えた。
大陸統一は必ず果たす。たとえどのような犠牲を払おうとも、いいや違う、もう私は世界で最も重い対価を支払ってしまった。
ハンナ・オンバーンが死んだ。私の一番大切な物は土に埋められ、大地へと還元される。
「ありがとう、ハンナ」
私は思い出さぬよう静かにつぶやいた。過去を振り返れてももう戻ることはできない。
思い出のハンナは私の妄想のハンナでしかない。
粛々と葬儀は行われ、浮世離れした教会からハンナ・オンバーンは去った。
棺を見送る私はどうしようもない無力感に苛まれた。
ここまで異様な自信に満ち溢れて、大陸統一という狂った理想を掲げていたのに、なんだか軍に入った直後の少年に戻ってしまった。
だが、遠く遠く遠くどこまでも離れていくハンナの屍が、私の使命を思い出させる。
ハンナが見送られ私が呆然と立っていると、誰かが近づいてくる。
いつもならすぐに気配に気が付けるのに、今は首を動かす気力すら湧かなかった。
「ハンナ・オンバーン諜報長官のことをお悔やみ申し上げる。プライベートでも親密だったと聞いた」
声で分かった。クロス党首だった。私はもういないハンナの棺の方向を黙って見ていた。
「いえ。人はいずれ死にます。こうやって今日より明日をより良くし、次の世代へバトンを託すんです」
私はハンナの棺の見送りの後のせいか、投げやりで八つ当たり的な言動であると自覚していた。
クロス党首は何も言わなかった。虚無に近い沈黙の後、クロス党首は口を開けた。
「こんな時に、本当に申し訳ないところだが。ハンナ・オンバーンの死によって、諜報長官のポストにするか保守党内で権力闘争が始まっている」
私はハンナの死を悲しんでいたが、それでもこうして明確な仕事の話をされると振り向かざる負えなかった。
私は酷い男だ。こんなくそったれな権力なんて放棄し、ハンナの方を見続けるべきだったのだ。
だが、それができなかったからハンナ・オンバーンを諜報長官に置き続けてしまったのだ。
「ハンナ・オンバーンは歴代の諜報長官の中でもトップクラスに優秀に見えました。彼女の後継に適した人材はいるのですか?」
私の問いにクロス党首は首を横に振る。
「思いつかないな。あんな気難しい諜報部を制御できる政治家がいるとは思えない。保守党議員は期待しているだろうが、ここは彼らの意向を無視し、諜報部出身の人間を置くべきだ」
「序列的に、諜報部対外課課長のリユー・デルタが適任でしょう。二十七歳で年齢的にも問題ありません。が、私は面識がないです。こんなことになるなら、面識を作っておくべきだった…」
ハンナに甘えてしまって、諜報部の内部のことは何も知らないのが実像だ。
諜報部は秘密主義だ。信頼できない人間を諜報長官に置きたくない。
だが、慣例的に諜報長官を空席にするわけにはいかないだろう。
慣例?私の主目的は大陸の統一だ。そのために色々なことを犠牲にし、最後はハンナまでも殺してしまったんだ。
それなのに慣例だって?これで大陸統一に失敗したら、ハンナになんてあの世で詫びればいい?
ずっと諜報部にメスを入れられて来なかった。
いいや、違う多くの官僚機構に私はメスを入れてこなかった。大陸統一をしたいと言いながら、脆弱な権力体制に頼ってきた。
「信頼できるか分からない人間を諜報長官に置きたくありません。諜報長官は当分の間空席にします」
予想通り、クロス党首は嫌な顔をした。
「気持ちはわかるが、諜報長官をずっと空席にするのもまずい。どうしても不安なら無難な政治家を置いて、傀儡にしたらどうだ?どうせ実際に仕事をするのは諜報部の官僚なわけであるので」
「決定です。いい機会でしょう。これからの大陸統一国家の準備をするわけです。諜報部に余計なことをして欲しくない」
クロス党首は私の断言に驚いたような視線を送る。
「保守党にも諜報長官の席は当分の間空席にすると伝えておく。いいんだな?」
「はい。お願いします」
「分かった。…議員になんて文句を言われても知らんからな」
クロス党首は捨て台詞のように険しい顔をして吐き捨てると、会釈をして私から去っていった。
フィール外交部長が私の前を通ろうとして、目が合う。目のあたりが真っ赤で泣いた跡があり、それが驚きで目を離せないとフィール外交部長も同じだったのか見つめあってしまった。ハンナが死んだ日も会議室で見つめあったなあ…。
「フィール外交部長」
私はたまらず呼びかけてしまった。挨拶だ。
だが、フィール外交部長はハンナ・オンバーンではない。見た目も仕草も性格も思想も全く違う。
「ウォール議長。このたびはお悔やみ申し上げます。なんて声をかけていいか分かりません…」
フィール外交部長はそうつぶやいた。
「…ああ。ハンナの葬儀に参加してくれてありがとう」
私はそう呟くに留めた。クロス党首と仕事の話をして気持ちを紛らわしたせいか、比較的マシな返答ができたと思う。
「ええ。良かったです、ハンナさんとお別れできて。何も言わずにさようならをするのはあんまりなので」
「そうだな…。でも、生前ハンナと喧嘩ばかりしていただろう?」
思えば、フィール外交部長とハンナ諜報長官はよく衝突していた。
「そうですね。腹立っていましたが、亡くなった今になってみれば…ちょっと寂しいかもしれません」
フィール外交部長が寂しそうにつぶやく。
「ハンナと私が何があったかお気になさりますか?」
私は踏み込めなかった部分を問われ、黙る。
結局ハンナを信じ踏み込まなかった。死人に口なしとばかりに聞くのもあんまりだろう。
「いや、ハンナが言いたくなかったことだ。ハンナが言わなかったならそれ以上は何もない」
私の投げやりな言葉に、フィール外交部長は黙ってしまった。静かに黙り何かを考えて懐かしむように遠くを見惚れ、視線で何かを追いかけている。
すると、フィール外交部長は私の腕を掴んで引き寄せた。
「お、おい…」
私の問いかけは無視される、強く跡が付くくらい腕を握られる。
視線はまっすぐと前を向いている。周りの参列者たちを無視して教会からどんどん離れていく。
ついには誰もいない建物裏に出た。そこには誰もいない。
息を整えるフィール外交部長に私は問いかけた。
「いきなり何するんだ…」
「どうしても伝えておきたいんです」
「さっきの話か。知らなくていい聞きたくない、ハンナが隠したいことなんだからそれでいい」
フィール外交部長は息を整えるまでもなく、強く私に迫る。
私の周りの女性たちはみな芯の強い人達ばかりだとつくづく実感する。
「違います。私があなたに知ってほしいだけです。ハンナ・オンバーンは関係ありません!!」
「フィール外交部長のやりたいこと…?」
「ええ。私願いごとです。話していいですよね?」
私は俯き地面を見つめた。静かに息を吐いて、心を落ち着かせた。
「分かった。話せばいい。どうせ私はハンナのことが好きで好きでたまらないんだから。ハンナのことを本当はもっと知りたくて、結局フィール外交部長と何があったのか気になる。大陸統一において邪念は潰すべきだ。教えてくれ」
私はベンチを指さし、二人でそこに座った。
行政区から聞こえる雑音が聞こえるのに、視界の周りには誰もいないというアンバランスな雰囲気が浮世離れに感じた。
フィール外交部長は空を見上げ話始めた。この空はハンナと初めて会った時から今この瞬間まで、青いままだった。
「ウォール議長はハンナさんと私の関係性について気になっていましたね?」
「ああ」
「陸軍高等学校の前期課程で、私とハンナさんは友達だったんです」
私は思わずフィール外交部長のほうを見た。やはりフィール外交部長とハンナと私は、昔に接点があったんだ。
「でも、私は陸軍高等学校の前期課程でフィールと会った記憶がない」
「だと思います。私はハンナさんと友達であっただけで、当時のウォール議長は友達の友達ですから。
ハンナさんとウォール議長は成績が上から十番に入っていて有名人でしたが、私は成績もよくないどこでもいる凡人でした。この非対称性が原因だと思います」
「なるほど…。既に面識があったから雰囲気が違ったのか」
フィール外交部長は頷く。
「でも、友達ならばあれ程険悪になるのは良く分からない。トラブルがあったのか?」
成績の差だろうか。あるいは誰か死んだことが原因か、陸軍高等学校では何人か死亡事故で死んでいるだろう。
フィール外交部長は言いづらそうに俯いて赤面した。息を整える。
「私はウォール・グリーンのことが…好きだったんです。話したことはなかったので、もはや恋というよりも、憧れに近かったですが」
予想外だった、あまりにも。
どうにかして飲み込もうとして、フィール外交部長のことを凝視してしまった。
フィール外交部長はもっともっと顔を赤くして、手で頭を抱え、地面を凝視してしまった。
「フィール…?」
「当時私たちは十五だったんです。誰にでもある初恋ですよ。ウォール議長もちょうどそのくらいでしょう?」
「私はハンナと同い年だからそうだ」
「だから、そういうこともあるんですよ」
フィール外交部長は声と言って言っていいのか、うめき声みたく唸った。
自分で自分のことを受け入れらないと、恥ずかしいことだと言っているように見える。
私も…いいや、私は結局ハンナに対する思いが恋なのかなんなのかすら、当時の愚かな私にはわからなかったのだから。とやかく言える権利はない。
あの頃は子供だったんだ。銃を持ち強大な力に対して、あまりにも精神が幼すぎた。
「で…それでどうなったんだ?」
私はフィール外交部長に話の続きをやるように諭した。
フィール外交部長は唇を震わせ言葉を紡ぐ。
「それで喧嘩してしまったんです。ハンナさん…昔も今もウォール議長のことが、ウォール・グリーンのことが大好きだったので。ハンナさんは私がウォール・グリーンのことが好きだと知った時に、激しく動揺していて、同時に激怒していました」
「なるほど……え?それが原因?十年以上も前だよな?」
私たちはもう二十六だ。
「ええ」
「十年もそれで喧嘩を…?」
「好きな男の子を争ったわけですよ、そのくらい当たり前です」
「はあ…」
恋沙汰に関する、思春期の女子の喧嘩は十年も引きずるのだろうか。
…まあいい、男の私がとやかく言うべきではない。これが珍しいケースかよくあることなのかは心理学者たちに任せよう。
この事実を考慮して振り返ってみると、外交部長と諜報長官に一人の男をめぐって確執があったということになる。恐ろしく不安な政権運営をやってきたわけだ。
「喧嘩の中身はどうだったんだ…?ハンナ強いだろ」
私の幼少期記憶ではそうだった。
「馬糞をかけられました」
「は…?」
フィール外交部長が無表情でこちらを見て平坦な声を出す。
「最後に馬糞をかけられました」
「状況が全く読めないが、一方的な展開だったんだな」
喧嘩で馬糞をかけるやつ初めて聞いた。
ということは…私が知らないうちにハンナは昔のフィールに馬糞をかけていたわけか。
そう思うと、途端に裏でとんでもないことが行われていたとわかるので、ゾッとする。
「ウォール政権発足時に、ハンナ諜報長官からウォール議長に『そのことを言うな』とくぎを刺されましたが。私はいつか暴露してやろうと思っていました。非常に腹立たしかったので。だけれども、中々機会がなくてですね」
「なるほど…」
私は苦笑をした。
「でも、暴露しようと決心したのは、今のウォール議長なら何を言ってもハンナ・オンバーンのことを嫌いになったりしないだろうと、愛し続けるだろうと確信したからですよ」
フィール外交部長の見透かしたような態度に、私は思わず顔をこわばらせた。
フィール外交部長は何かとりついたものが落ちたように見える。軽やかに立ち上がると、私に一歩近づく。
何事かと思えば一瞬の出来事だった。頬に暖かい吐息と柔らかいものが押し当てられたと思うと、すぐに離れてまたフィール外交部長が視界に戻ってくる。
私は誰もいない現実離れしたこの建物裏の光景をぼんやりと眺めていた。
フィール外交部長が私の頬にキスをした。
「ハンナさんもこのくらい許してくれるでしょう。いいや、許させます。馬糞をかけられた恨み、私は忘れていませんから」
フィール外交部長が子供らしい顔をして笑い、昔懐かしむ顔をした。
「さようなら、私の初恋。ずっとあこがれの人でした」
私はこの異様な光景を夢と区別できない。
さっきまで、いいや今も確実に起きているはずなのに、これが実はベッドの上で見る私の幻覚だと言われようとも、受け入れざるおえない。
脳に入ってくる情報が多すぎて整理が追い付かない。ハンナが死んだり、フィール外交部長から全く知らない真実を聞かされたり。
だから、あまりにも意味不明なことを言えてしまう。
「また、ハンナに会いたいな…」
すべての思考を放棄し、感情に身を委ねた結果だった。
そんな私をフィール外交部長は苦笑して
「そんなに想われて、ハンナさんは幸せだったでしょう…。どうして言えなかったのかと、無意味だとわかっていても考えてしまいます。あと一言、二人に踏み込む勇気があれば、それで何もかも良かったのに」
フィール・アンブレラは去っていた。