ハンナ・オンバーン
朝は降っていなかったが、夕方になったあたりから急に雨が降り始めどしゃ降りになった。
その日、民間企業のシンポジウムから帰ってきたハンナを私は待っていた。
少しすると、馬車がやってきて、職員によってドアを開けるとハンナ・オンバーンが降りてきた。少し疲れているようで、俯き気味の彼女もかわいかった。
ハンナは私を見ると、少し無理をして笑った。
「ウォール?出迎えに来てくれたの?」
「ああ」
「傘、自分でささなくてもいいのに。あなたは議長なのよ?」
私は自分が持っている傘を見た。要はお偉いさんなんだから傘くらい職員にささせればいい、ということらしい。
「傘も自分でささないと、肝心な時に自分でさせなくなる」
「そう?」
「それに、相合傘みたいになってしまう」
私の冗談にハンナは笑った。
職員がさそうとした傘をハンナは取ると、ハンナも自分で傘をさした。
職員は空気を察して、馬車に戻った。
「なら、私も自分でさしましょうか」
「自由にすればいい。私に気を使わなくていいぞ」
「うん…」
私たちも建物へ向かって歩き出す。この南口から建物までへの距離は結構ある。周りを見ると警備兵が何人か立っていた。
横幅も広く、もはや建物までの通路と言うよりも広場みたいだった。屋外にもかかわらず一帯が石畳でできている。
「シンポジウムはどうだった?」
「ええ。産業スパイについての公演」
「産業スパイ?」
「民間企業の技術を盗むスパイのことよ。近年軍事兵器を民間企業が受注していたりするし、鉄道部品と言ったユマイルの競争力がある産業が狙われている」
「なるほど…軍の研究所ならともかく民間企業にはまだ対策が進んでいないのか」
「そうね…。今の法律は高度化している産業スパイに対応できていないように感じる。法整備が必須よ」
雨は大きな音を立て、不気味に振り続けた。
建物に近づき、ふと何か気配を感じて私は横を向いた。
私の異様な雰囲気に気が付いたのか、私より少し先に進んでハンナも止まった。何か強力で人の悪意を感じられたためだ。
横を見た時、私は間違っていなかったと確信し、あるいはどうして早く気づけなかったのかと悔やんだ。
「パパの仇だ!!ハンナ・オンバーンは恨みを思い知れ!!」
若い女性の警備兵が私たちに歩兵銃を向けていた。
スローモーションにも見えるその行為と、彼女の憎しみと狂気の孕んだ目に確実にやるつもりだと私は確信した。
ハンナとは少し距離がある。私が覆いかぶさっても間に合わない。
一瞬ですべてを決める重要なことを決めなければならない、躊躇すれば二人とも死ぬ。私はポケットから護身用の拳銃を引き安全装置スライドさせた。
ここでこいつを殺さなければ、死ぬ。そしてこいつの視線的に間違いなく狙っているのはハンナだ。一撃で絶命させる。
私は警備兵の頭へと照準を合わせると引き金を引いた。拳銃の発砲音と小銃の不愉快な和音が響く。
幸いにも私は警備兵の頭を打ち抜いていた。警備兵は糸切れたオートマトンのように力を抜け、生きている人間ではありえない力が抜け方をし、倒れた。
安心はできなかった、不安と恐怖で叫びそうになるのを抑えハンナの方を見る。
「ハンナ!!」
不安は的中した。最悪の形で。ハンナはうずくまり胸とお腹の間あたりが真っ赤になっていた。
私は藁にも縋る思いで近づく。ハンナを仰向けに寝かせると、明らかに出血方で、服からは血があふれて真っ赤に染まっていた。私は左胸の下あたりにある銃創を抑え出血を止めようとした。
このぬめぬめとして嫌な感触の血が不安を誘った。洋服は、俺の不安と連動するようにハンナの服に広がりしみついていく。呼吸するたびに、ハンナの体が動いた。
ハンナがここで死ぬかと思うと、今までの頭のもやもやは消し飛び、不安と恐怖に支配された。傘はどこかに飛んで行ってしまって、雨粒が無慈悲に私たちを直撃していた。
「ハンナ!!」
私の必死の呼びかけにハンナが口を開いた。
「ハンナ!!おい、ハンナ!!返事をしろ!!なあ!!」
私の必死の呼びかけは遠くむなしく響いた。
フルフルと震える身体。
いつもよりもか細く感じて、繊細過ぎて砂のようにボロボロに跡形もなく消えてしまうのではないかと思えて、怖くて怖くてたまらなかった。雨と血は滝のようにハンナの身体を覆う。
「ウォール…」
うつろな目で小さくか細い声が聞こえた。
「ハンナ!!」
「私、私ね…。ウォールと一緒に入れてよかった」
「どうして『よかった』なんだ!!まだいる!!これからもこれまでも!!」
「この傷で生存は無理よ」
そういって、ハンナは寂しそうに笑った。ハンナの視線は下を向いて、血塗れの自分の体を見た。
「私と話して一緒にいてくれたあの時から、私、あなたのことを信じていた。あなたの言う…大陸を統一して、それで余裕のある社会がみんなを豊かにするって、あなたは言い続けてきた。だってその思想は、困っていた私をかばってくれた"あなたそのもの"だったから。希望のない闇の中から…私の手を引っ張ってくれたあなたそのものだから」
「私そのもの?」
「ええ。あの暗くて狭い家から私の手を引っ張って、軍へ行こう…社会へ行こう…社会を変えようってその言葉がどれだけ私の支えになったか」
私の行為はハンナのためになっていた。その事実をしれて私は安堵する。
私のやってきたことは無駄ではなかった。
「ねえ、覚えている。食堂行った時に隣に家族がいたの」
「ああ…覚えている」
「お母さん、お父さん、娘に息子。四人家族、会話があって優しくて暖かくて」
そういうとハンナが声を詰まらせた。
「ハンナ…?」
「私たちにも、そういう未来、あったのかな?」
私は涙を抑えられなかった。自分でも泣いているのが受け入れられなかった。
こんなにも悲しくて声に詰まって何も言えない。
「ごめんね、ウォール…あなたは何も変わっていない。弱くて優しくて、理不尽なことが許せない。あなたは何も変わっていなかったの。なのに、私はあなたが社会そのものを変革しようとするのを受け入れられなかったの。だからどこかであなたが遠くへ行ってしまったと、思ってしまった」
ああ…。こんなものただの告白じゃないか。
ハンナとの二十年。もっと早く、伝えておくべきだったことだ。けれど私は…
「許してくれ、ハンナ。私は社会の理不尽さから目を背けて、二人で慎ましく暮らすなんてそんなこと私には選べなかった。なぜなら…私やハンナのように苦しんで泣いている子供たちが今もどこかに居続けるなんて、そんなの絶対に嫌だ」
するとハンナは安心したように笑った。
「うん…ウォールならそう言ってくれると思っていた、優しいね。ウォールなら絶対にできるよ、大陸を統一して豊かな社会の実現を。だから」
「ハンナ?」
「その時はどうか、私のことを思い出して…」
「いつも私の背中をついてきて、応援してくれるハンナが何よりも心強かった。私はハンナがいてくれたから、背中を押してくれたからここまでやってこれたんだ…。私はハンナがいなきゃ何もできない」
そういうと、ハンナが手を伸ばして私の頬をなでる。血がついてまだ暖かい、ハンナが生きている。私は絶対に手を離さないよう、きつくきつく握りしめた。
強く握りしめたはずなのに、絶対に離さないと誓ったはずなのに、私が握りしめたハンナの手は頬から落ちてしまった。力を入れても入れても入らなかった。
ハンナは目を閉じて力が抜けた。まるで人形が切れたように。終わった。
こんな形で終わった。あんまりだ、生き返るのではないか、なんとかそう思いたかった。
だが残るのは大粒の雨で、痛いだけだった。段々と大雨で浄化され、体温が消えてゆくハンナの身体を前にして、私が積み上げてきた"絶大な権力"は全く役立たなかった。
ふと我に返って、何か堰き止めていたものが外れてしまい、泣き出した。一度始まった涙は止まらず、気が狂ったように泣いた。これは涙なのか雨なのか、わからないくらい泣いた。
私の心は少年に戻った。目の前にはおぼろげな微笑む幼いハンナがいた気がした。
初めて会った時の、ハンナの姿と匂いは私の目の前で存在し続けた。