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犯行

 夜、初期対応も随分と落ち着いてきた。廊下を走る…悪ガキ官僚も減ってきて、いつもの上品に歩く優等生官僚ばかりに戻ってきた。これならば、明日の行政調整会議では落ち着いて話し合いができる。

 ハンナの諜報長官室に人目をはばかる様に足を運ぶ。ノックをすると、ハンナの声が聞こえた。


「どうぞ」

 少し薄暗く、落ち着いた部屋。俗に言うムーディーか。


 …しかし、今からの話は、全くロマンティックではなくむしろ多くの人が死ぬ、利己的で血生臭い汚れたものになる。

 私の顔を見ると、いつものようにハンナは微笑んだ。思い返せば、私とハンナは良く目が合う気がする。

 それはハンナが私のことを心配してくれているのか、あるいは私の中でバイアスがかかってそう錯覚しているのかは分からない。


「ようこそ、ウォール」

「ああ、ハンナ。夜まで仕事だとは…申し訳ないな」

「誰かさんのせいで仕事は急増中よ」

 私のほうを見てハンナはウインクを飛ばしてきた。

「…すまないな」

 申し訳ない。

 本当はハンナを諜報長官という危険な立場においておくのは、幼馴染失格なのだろう。

 好きな女の子を危険な場所にいさせ続けるのは男として恥を知るべき行為なはずだ。

 だけれども、ハンナは優秀だ。諜報部というベールに包まれた気難しい組織を統括できるのは、もはやハンナくらいしかいない。

 フィール・アンブレラ、エマリー・ユナイテッド、ハンナ・オンバーン。彼女らはユマイル民族戦線最高の人材と言っても過言じゃない。


 クロス党首も言っていたが、大抵の議員は一生行政機関入りを果たせず、一議員として任期を満了していく。

 さえないウージ・ボーン財務部長でさえ、財務部の官僚を管理し適切に業務を進められている。

 凡人の議員と比べて、優秀なのは間違いない。

 土壇場で怖気づく情けなさと他人に対して敬意を払わない態度さえ何とかすれば、ポスト ウォール・グリーンも狙えるだろうになあ…。


「来てくれて、うれしいわ。…ディナーはご一緒できなさそうだけどね」

 ハンナは寂しそうに笑う。

「いいよ。平和になったら行こう。大陸の統一を果たせば、もう私が政治家を続ける必要はなくなる。そうしたらきっと時間ができる」

「それまで待ってほしい」と付け加えることはできなかった。エマリー軍代理の「お相手がそれまで待ってくれるといいですが」という言葉が頭の中でただただ反芻した。


「今日は特に慌ただしく日が過ぎたね」

「ああ。なんせネルシイ・フェーム帝国が戦争を始めたんだから」

「…私たちはそれを知っていた」

「ああ」

「私の言いつけを守って、参謀本部や外交部には伝えないでくれたの?」

「褒められることじゃない。官僚機構にメスを入れられなかった私の責任だ」


 ハンナがうつむき気味になるものだから、不用意に私は言葉を繋いでしまう。

「だからハンナの責任ではない。君は何も悪くない」

 私は諭すように言う。ハンナは視線をそらしたまま

「単刀直入に言うね。諜報部は偽旗作戦の準備を完了させた。いつでもフェーム帝国の蛮行に見せかけて、戦争を始めることができる」

 私は思わず表情がゆがんだ。

 いや、これはハンナに私が命令したことだ。だから私が驚くのはおかしい。

 だけれども、望んでいたことが、あるいは恐れていた事態がこうして現実に存在している。

 今、ハンナに命令すれば大陸の情勢を大幅に変えることができる。

 …戦争を始めることができてしまう。


 ハンナが短期間でできると確信していた。

 なぜならハンナは…ハンナ・オンバーン諜報長官は優秀な人間だからだ。

 だからこそ、彼女が幼馴染でかわいく人間らしい側面があることを知っている俺は、耐えられない。

 ハンナは新聞が報じるような"女帝"でも"ミステリアスな美女"でもなく、優しい普通の人間なんだ。


 私は自分の無力感にさいなまれた。

「私は…ウォールの大陸統一という夢を追いかけてきた。これはウォール自身が始めたことだから、あなたが決めるべきだと思う。私はあなたの命令なら戦争を始めることだってできるの。これは随分と過激なことで盤石なやり方じゃない。時間がないことを忘れないで。時間がたてばうまくいかなくなる可能性が出てくる」

「あ、ああ。ありがとう。わかっている」

 そう答えるのが手一杯だった。

「時間が欲しい?」

「いや…」

 私は曖昧な返事を返した。


 時間なんていらない。だって私は最初からこの時この瞬間を迎えるために頑張ってきたわけだ。

 今更考えることなんてない。

 私は大きく息を吸った。


「やる。今から五日後にルム兵站課長が視察を終え帰ってくる。その日の夕方に偽旗作戦を決行する。そうすれば六日後の朝には伝令使がつくはずだ。いいか、ハンナ?」

 私の問いにハンナはまっすぐ視線を合わせる。

「…本当にいいのね?ウォール」

「ああ。やれ」

 私は感情を出さぬよう低い声で無機質に答えた。

「わかった。必ず実現するわ」

 ハンナは珍しく、少し泣きそうな声で答えた。

 初等学校の時のいじめられた時のハンナにそっくりだ。私は…彼女になんて仕打ちをしているんだろう。


 私も泣きそうになってくるが、それを防ぐため考えることをやめた。今はただ大陸の統一に集中しよう。

「用件がないなら私は行く」

 ハンナがどんな顔をしているか気になって、あるいは知るのが怖くて後ろを気にしないように頑張る。

 すると、後ろから静かな物音がしたような気がして私は思わず立ち止まった。

 怖い…振り向けば感情が爆発してしまうそうで。

 

 すると背中に違和感を感じた。暖かく優しい何か、背中から手が延ばされた。

 状況が読めず固まったが、段々事態を理解できた。

 ハンナが私の背中に抱きついたんだ。

 女性特有の曲線を描いた体も、昔から変わらない匂いも、静かに優しく抱きしめる腕もただただそこにあって、それはまるで鎮魂歌のようだった。


「ねえ、ウォール!!これで良かったの?!本当にいいの?!この先に私たちやみんなが豊かに暮らせる社会は本当に待っているの!!」

 ハンナは子供のように泣きじゃくるように言う。

 ああ、何も変わっていない。彼女は軍に入り諜報部の出世競争に勝ち続けてきた。

 養子として入ってきたときも目が死んでいて、養親からのひどい仕打ちがあった。初等学校に居場所はなかった。

 ハンナがよく見せた弱気で辛そうで泣きじゃくる幼い少女の側面は、死んでいない。

 頻度が少なくなったのは、環境が苛酷になっていっただけなんだ…ハンナ自身は何も…。


「ハンナ…」

 私は振り向けなかった。私に振り向く資格なんてなかった。

 もし私が彼女を本当に大切にできているなら、こんな危険でストレスフルな仕事を今すぐ放棄して、どこか静かで安らかな場所に行くべきなんだ。

 幼少期にハンナが本来得られるべきだ時間だった、牧歌的で穏やかな時間を今こそ手に入れるべきなんだ。

 だけれども、私はそれが受け入れられなくて、何よりも私たち幼き子供たちをこんな酷い目に合わせた社会そのものを許せなくて放置することができなかった。

 社会そのものに大きな変革をもたらして、私たちだけが幸せになるんじゃない…同じような境遇を持つ人すべてが幸せになれる。

 そんな権利があっていいはずなんだ、誰にでも。


 時間とハンナのすすり泣きは過ぎる。

 そんなこと分からないと言ってしまいたかった。

 大陸の統一が経済を活性化して無駄なく社会が回るようになって、余剰リソースで社会保障を充実させられると私は言い続けてきた。

 だが、それは結局私の夢や理想やさらに言えば妄想でしかなく、神様でも何でもない私に未来のことなんか分からない。

 それにかつて会った酔っ払いのように、私のやりたいことは社会の総意でなく、きっと個人的な願望に過ぎない。


 だけれども、ハンナは…ハンナだけは…私を百パーセント信じて背中を押し、支え、ついてきてくれた。

 彼女だけは悲しませたくない。こんなにも献身的で優しい女性に「今までやってきたことは無駄になる」なんて言えるわけがない。

 大体、始めたのは私だ。ハンナは報われるべきなんだ、彼女は幸せになってほしい。

「ああ。必ず実現する。豊かで人間が人間らしく生きられる社会を私が必ず実現する」

 私は覚悟を決め、そう呟いた。

 ハンナは安心したようにふっと息を吐いた。すすり泣きは静かにフェードアウトしていった。


「ねえ、ウォール。もう少しだけこうしていてもいい…?」

「ああ。いつまでもそうしていい」

 部屋の明かりは少し弱まっている、私はそう感じた。


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