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辺境の修道院の厨房では、フェリシティが軽やかに手を動かしていた。かき混ぜるスープ鍋からは、香ばしい匂いが漂っている。厨房の小さな窓から差し込む夕陽が彼女の横顔を照らし、穏やかな時間が流れていた。


食卓に並べられた料理を前に、アレクシスがスプーンを手に取り、スープを一口飲む。その瞬間、驚いたように顔を上げた。


「これは……母上の味だな」


フェリシティは満足げに微笑みながら、食卓に腰を下ろした。


「ええ、そうよ。昔、お母様に無理を言って教えていただいたの」


フェリシティは自慢げに胸を張ったが、すぐに少しだけ目を細め、懐かしそうに言葉を続けた。


「お母様、本当にお料理が大好きだったわねぇ。わたしを台所に立たせて鍛えるのが、趣味みたいだったもの」


アレクシスは少し苦笑いを浮かべながら頷いた。


「……確かに。お前が台所でお母様に振り回されていた頃を覚えてる。まあ、振り回されていたのは父上も同じだったけどな」


フェリシティが侯爵家に迎えられた当初、お母様――侯爵夫人は、少し掴みどころのない人だった。美しく優雅でありながら、飄々とした態度と笑顔でどんな言葉もかわしてしまう。フェリシティが勇気を出して頼みごとをしても、返ってくるのは肩透かしのような答えだった。


「お母様、わたしにもっと貴族としての作法を教えていただけませんか?」

「作法なんて、一度や二度じゃ身につかないわ。何度もやれば、体が覚えるのよ」


そう言いながら、侯爵夫人は上品な微笑みを浮かべて立ち上がった。


そして、作法ではなく、なぜか台所に連れて行かれる。


「でも、まずは包丁を使えるようになるのが先ね。きれいに野菜を切れない人に、優雅な礼儀なんて無理よ」

「そ、そうなんですか?」

「ええ、そうよ」


笑顔で断言するお母様に、フェリシティはどう反応すればいいかわからないまま、手を動かすしかなかった。


台所での時間は、いつも試練の連続だった。


「このソース、もう少しコクを出せるわね。手を止めないで、もう一度作り直しましょう」

「まだ火が強すぎるわよ。ほら、鍋の中を見て。もっと火を弱めなきゃ」


いつも穏やかな口調なのに、全く妥協を許さない。フェリシティが疲れて座り込むと、侯爵夫人はふんわりとした笑顔を浮かべながら、意地悪く言うのだった。


「フェリシティ、座り込むのは貴族らしくないわ。立ちなさい。次はスープよ」

「は、はい……」


フェリシティは涙目になりながらも、素直に立ち上がるしかなかった。


そんな義母に振り回されるのは、フェリシティだけではなかった。


「おい、これ以上フェリシティを働かせるな!あの子はまだ慣れていないんだぞ!」

侯爵が台所に飛び込んできたこともあった。彼の声には本気の慌てた様子が滲んでいた。


しかし、侯爵夫人はそんな義父を一蹴する。


「あなた、余計な口を挟まないで。フェリシティにはこれくらいがちょうどいいのよ」

「そ、そんなわけあるか!あの子は疲れている!」

「あなたも一緒に手伝ってみる?ほら、あれを持って」


侯爵夫人が平然とした笑顔で義父に鍋を持たせたとき、フェリシティは思わず吹き出しそうになった。


「なぜ私がこんなことを……!」


侯爵は文句を言いながらも、結局鍋を持ち続けるしかなかった。





修道院の食卓で、フェリシティは遠い目をしながら微笑んだ。


「お母様、本当にすごい方だったわねぇ。あの頃は正直きつかったけれど……今になって思うと、あれもわたしのためだったのよねぇ」

「まあ、間違いなくお前を鍛えるのが趣味だったんだろうな。あれだけ手加減をしない人も珍しい」


アレクシスは少し呆れたような顔をして言った。


「それでも、わたしはお母様を尊敬しているの。あんなに自分の意志を貫いて、しかも優雅さを失わない人なんて、他にいないもの」


フェリシティの声には、確かな敬意が込められていた。アレクシスは彼女の表情をじっと見つめ、少しだけ笑みを浮かべる。


「……まあ、確かに母上はすごい人だ。お前がそう思うのも無理はないな」

「ええ。だから、お母様に近づけるように、これからもがんばるわねぇ」

「頼むからそれだけはやめてくれ」


アレクシスはため息をつきながらスープをすくった。


「お前の料理を食べる限り、故郷の味が恋しくならないのはいいことだが……お前までああなると思うと……」


フェリシティはくすくすと笑いながら答えた。


「兄様、わたしがそうなったらきっと楽しいわよねぇ?」

「……楽しいかどうかは別の話だ」


二人の会話は、暖かなスープの湯気とともに修道院の静かな夜に溶けていった。





朝陽が修道院の畑を照らし、ミリナが鍬を振りながら楽しそうに鼻歌を口ずさんでいた。少し離れた場所で、フェリシティは袖をまくり上げ、畑に踏み込む準備をしている。


「ミリナ様、今日はわたしもお手伝いしますわ」

「まあ、嬉しいわねぇ。こんなにいい天気だもの、畑仕事にはもってこいだわ」

「ええ、普段は聖女なんて呼ばれて働かないふりをしていますけれど、今日ばかりは本気を見せて差し上げますわねぇ」


フェリシティはにこやかに微笑みながら鍬を手に取った。


その様子を遠くから見ていたアレクシスが、呆れたように言う。


「お前が本気を出すって?畑仕事を甘く見ないほうがいいぞ。転んでまた泥だらけになるだけだ」

「まあ、兄様。わたしをどれだけ役立たずだと思っているのですか?今日はきっと、ミリナ様を驚かせてみせますわ」


意気込んで鍬を振り上げたフェリシティだが、最初の一振りで足元がぐらついた。乾いた土に滑り、体が前のめりになってしまう。


「きゃっ!」


彼女の悲鳴が畑に響いた瞬間、柔らかな土の中に見事に倒れ込んだ。顔から腕まで泥まみれになり、鍬は手元から転がり落ちていった。


「あらまあ……少し張り切りすぎましたかしら」


フェリシティは地面に座り込んだまま、恥ずかしそうに呟いた。


すぐに駆け寄ってきたアレクシスが、片膝をついてフェリシティを見下ろした。彼は短くため息をつき、手を伸ばす。


「ほら、立てるか?……いや、待て。お前、また転びそうだから」


そう言うと、彼はフェリシティを軽々と抱き上げた。


「えっ……!」


フェリシティは驚いたように声を上げ、顔を真っ赤にしてアレクシスの肩に手を置いた。


「兄様、ちょっと……急に抱き上げるなんて……!」

「お前が泥まみれのまま地面でじたばたしてるのを見てろってのか。……ほんとに手間のかかるやつだな」


フェリシティは目を見開き、普段は見せないほど動揺した様子で言葉を探している。


「そ、そんなこと言われても……わたし、別に抱き上げてほしいなんて思ってませんわ!」

「お前が転ばなきゃ、俺も抱き上げる必要はなかったんだよ。もっと気をつけろ」


フェリシティの耳まで赤くなり、目を逸らしてしまう。


「……兄様ったら、本当に無遠慮ですのねぇ」


一部始終を見ていたミリナが、堪えきれない様子で笑い声を上げた。


「ふふふ、本当に二人ともおもしろいわねぇ。こうやって修道院が賑やかになるのは嬉しいことだわ。それに……人手が来て助かるわ」


アレクシスはフェリシティを抱えたまま、ミリナの言葉に軽く肩をすくめた。


「こいつが人手になるかどうかは疑問だがな。役立つどころか、畑に余計な穴を増やしてるし」

「まあ、兄様!さっきからずいぶんと失礼ですわねぇ。わたしだって、これからきっと役に立ちますのに!」


フェリシティは精一杯抗議するが、抱えられたままでは説得力がいまひとつだった。


アレクシスは畑の隅までフェリシティを抱えたまま運び、静かに地面に降ろした。彼女の服の泥を軽く払うと、真剣な顔で言う。


「もう転ぶなよ。次に転んだら、俺は抱えないからな」

「次は転ばないようにしますわ。でも、万が一転んだときは……また助けてくださいますよねぇ?」


フェリシティは少し拗ねたような表情でアレクシスを見上げた。

アレクシスは一瞬言葉を詰まらせるが、すぐに顔を背ける。


「……気をつけろ。それだけだ」


その様子を見たミリナがまた笑い声を上げた。


「ふふふ、本当に仲の良い兄妹ねぇ。こうやって二人がいると、修道院が一気に明るくなるわ」


フェリシティはようやく落ち着きを取り戻し、鍬を握り直した。


「わたし、次こそはミリナ様のお役に立ちますわ!……たぶん」


夕陽が畑を温かく照らし出してからも、フェリシティが泥まみれのまま奮闘していた。その横でアレクシスは時折見ていられないとでもいうように手を貸していた。


「そこ掘りすぎだ。畑を壊すつもりか?」

「大は小を兼ねるのですわ。でも……アドバイスありがとうございます」


フェリシティの小さな感謝の言葉に、アレクシスは少しだけ表情を和らげた。遠くからその様子を見守るミリナの目にも、微笑みが浮かんでいる。


静かな修道院に、二人の軽妙なやり取りとミリナの笑い声が心地よく響いていた。

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