7
夕食の準備が整い、フェリシティはスープを鍋ごとテーブルに運ぼうとしていた。しかし、鍋敷きを取るのを忘れてしまい、素手で鍋の取っ手を掴んだ次の瞬間――。
「……あつっ!」
フェリシティは反射的に鍋を持つ手を放しかけたが、スープをこぼさないようにと慌ててもう片方の手で鍋を支えた。結局、鍋はテーブルの端にガツンと置かれ、彼女の手は真っ赤に火傷してしまった。
「……まあまあ……こんなに熱いなんて、少し予想外でしたわねぇ……」
フェリシティは痛みで顔をしかめながらも、どこか呑気に呟いている。
その様子に気づいたアレクシスは、椅子をガタリと引いて立ち上がった。
「おい、何やってるんだ。馬鹿なのか?」
彼の声には珍しく焦りが混じっている。
フェリシティは顔を上げ、困ったような笑みを浮かべながら答えた。
「まあまあ、兄様……馬鹿だなんて、そんな乱暴なお言葉……わたしはただ、少しだけうっかりしていただけですのよ」
アレクシスは呆れたように眉間を押さえ、すぐにフェリシティの手を引き寄せた。
「うっかりだと?お前、素手で鍋を持とうとしたんだぞ。どこの誰がそんなうっかりをするんだ?」
彼は真っ赤になった彼女の手のひらを見つめ、さらに顔をしかめた。
「……思ったより酷いな。よくそれで平気な顔をしてられるな、全く」
「まあまあ、兄様ったら……そんなに大袈裟にしないでくださいませ。こう見えて、わたし、痛みに強いのですのよ」
「強いとか弱いとかの問題じゃないだろうが。このまま放っておいたらもっと腫れるぞ」
アレクシスは苛立った様子で、テーブルの端に置いてある水差しに目をやった。
「待ってろ。水をくんでくる」
彼はそう言い捨てると、部屋の隅に置いてあった水桶の元へと足早に向かった。
戻ってきたアレクシスは、水を含ませた布をフェリシティに差し出しながら、険しい表情で言った。
「これで冷やせ。少しはマシになるだろう」
「まあまあ……兄様、ありがとうございますわねぇ。でも……そんなに真剣なお顔をなさらなくても、大丈夫ですのよ」
フェリシティはおっとりと笑みを浮かべながら、布を受け取って手を冷やし始めた。
「大丈夫なわけがあるか。お前のその『まあまあ』が、どれだけ危なっかしいか分かってるのか?」
「……まあまあ、兄様は本当にお心配性ですのねぇ」
「心配性?お前がこんな調子だから、心配せざるを得ないんだ」
アレクシスはため息をつき、腕を組んだまま彼女を見下ろした。
そのやり取りを聞いていたミリナが、柔らかく笑いながら口を開いた。
「ふふふ、本当に面白い二人ねぇ。アレクシス、あなたフェリシティが火傷したことよりも、彼女の呑気さに腹を立てているんじゃない?」
「当然だろう。普通、火傷したらもっと焦るもんじゃないのか?」
「まあまあ、兄様。焦ったところで、何も変わりませんわよ」
フェリシティは布で手を冷やしながら、のんびりと答える。
「それに兄様がこうして助けてくれるので、なにも怖いものはありませんわ」
「……俺がいなかったらどうするつもりだったんだ」
アレクシスは呆れたように言いながらも、どこか安堵の色を浮かべて椅子に座り直した。
フェリシティが手を冷やしながら、ふとアレクシスに目を向けた。
「それにしても、兄様がこんなに優しく手当てをしてくださるなんて、少し意外でしたわ」
「優しい?どこがだ。俺はお前の馬鹿げた行動に呆れてるだけだ」
「そうかしらねぇ」
「本当にお前は手がかかる。俺はただ、これ以上面倒事を増やされたくないだけだ」
アレクシスはそっけなく言いながらも、ちらりと彼女の手元を確認している。
「それでも……兄様のおかげで、今日のスープもちゃんと皆さんにお出しできますわねぇ」
「……お前が火傷をしていなければ、もっとスムーズにいっただろうがな」
アレクシスはため息をつきながらも、少しだけ口元を緩めた。
夕食が終わり、フェリシティはミリナとともに片付けをしていた。アレクシスは窓辺に立ちながら、彼女たちの様子を静かに眺めている。
ふとフェリシティが振り返り、彼に声をかけた。
「兄様、手当てのお礼に、わたしが明日何か特別なお料理を作りましょうか?」
「お前がまた火傷をするのが目に見えてるから、遠慮しておく」
アレクシスの皮肉に、フェリシティは柔らかく微笑んだ。
「まあまあ……それでも、兄様がいれば、何があっても安心ですわねぇ」
アレクシスは軽く眉をひそめ、窓の外に視線を向けた。そして小さく呟くように言った。
「……もう火傷するんじゃないぞ」
その声を聞いたフェリシティは、小さくくすくすと笑いながら片付けを続けた。
「本当に2人は仲良しね」
ミリナが笑うので、フェリシティは苦い気持ちになった。
「そんなことはありませんのよ。なんというか……喧嘩未満が多いといいますか」
「あら。じゃあやっぱり仲がいいのね。お互いをわかり合っていて安心していないとそんな風にはできないものよ」
「そんなものでしょうか」
白いお皿を拭きながら、フェリシティは首を捻る。
「ねえ。フェリシティ。あなた、本は好きかしら?」
「ええ。もちろん」
「どんな本が好き?」
ミリナの楽しそうな様子に、フェリシティは自分が読んだ本の共通点を探してみた。
聖書、政治本、農業本、恋愛小説、冒険小説、100年前の王の日記、薬学書。
うーんと考えた末、フェリシティはすべてを丸く収める言葉を思いついた。
「なんでも読みますわねえ」
「まあ、素敵。私も本が大好きなのよ。、今度、私のとっておきの本たちを読ませてあげるわ」
「まあ。嬉しいですわ。いまちょうど活字不足でしたの」
「今度案内するわ」とミリナは嬉しそうに笑った。