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ある日の午後、修道院の静けさを破るように、村のおばあちゃんが修道院に現れた。彼女は杖をつきながらも、その表情には怒りが滲んでいる。
「フェリシティ様、お願いです。この足を祈祷で治してくださいまし……神様のお力で!」
おばあちゃんは必死な様子で訴える。
フェリシティは彼女の足をじっと見つめながら、冷静な声で答えた。
「おばあさま、神様への祈りは大切です。でも、まずはお薬を試してみませんか?この腫れは外側から治療をしないと――」
その言葉に、おばあちゃんの顔が怒りで真っ赤になった。
「何を言ってるんだい!神様の力を疑うのかい!?そんな罰当たりなことを言うんじゃないよ!」
おばあちゃんは杖を振り上げ、フェリシティに向かって一歩踏み出した。
「祈祷を拒むなんて、この罰当たりが!神様に代わって、この杖で懲らしめてやるよ!」
その瞬間、フェリシティは少し驚いたように目を見開いたが、動じることなくその場に立ち続けた。彼女は優しくおばあちゃんの目を見つめていた。
「おばあさま、どうか落ち着いてください。わたしは、神様を信じていますわ。ただ、神様がくださった薬草や知恵もまた、そのご加護だと思うのです」
「黙りな!」
おばあちゃんは叫びながら杖を振り下ろそうとした。
その瞬間、背後から鋭い音が響く。義兄アレクシスが飛び込み、フェリシティの前に立ちふさがったのだ。杖は彼の肩に直撃し、鈍い音を立てた。
「ぐっ……!」
アレクシスは少し顔を歪めながらも、おばあちゃんを鋭い目で睨みつけた。
「やめろ、婆さん!こいつはお前の敵じゃない」
おばあちゃんは驚いたように杖を握り直し、怯えた表情でアレクシスを見上げた。
「だ、だってこの人が……神様の力を無視して……」
アレクシスはため息をつき、杖を掴みながら力を緩めるように語りかけた。
「聞けよ。フェリシティはお前の足を治すために最善を尽くそうとしてるんだ。神様に祈ることを否定なんかしてない。ただ、それだけじゃ足りないって言ってるだけだ」
アレクシスが間に入ると、フェリシティはおばあちゃんに近づき、穏やかな声で話しかけた。
「おばあさま、どうか信じてください。わたしの祈りと、この薬草の力を一緒に使えば、きっと痛みは和らぎますわ」
彼女はそっとおばあちゃんの手を取り、優しく微笑んだ。
「おばあさまの痛みを少しでも楽にしたい……その気持ちは、神様に背くことではありませんわ。むしろ、神様のお力を信じているからこそ、こうしてお薬を作るのです」
おばあちゃんの目に涙が浮かぶ。
「……本当に、これで治るのかい?」
「一緒に頑張りましょう。少しずつ良くなりますわ」
フェリシティの柔らかな声に、おばあちゃんはようやく杖を下ろし、小さく頷いた。
おばあちゃんが去った後、フェリシティはアレクシスに歩み寄った。彼の肩には杖で打たれた跡が残っている。
「兄様、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ。ただ、何でお前は杖を振り下ろされるのにその場で突っ立ってたんだ」
アレクシスは呆れたようにフェリシティを見つめた。
「だって、おばあさまが本気で殴るとは思いませんでしたもの」
フェリシティはくすりと笑いながら答えた。
「まあ、おばあさまの怒りはちゃんと伝わりましたし、最後にはお薬を信じてくれるって言ってくださいましたから、結果オーライですわ」
「……お前はいつもそんな調子だな。だから俺がこうして間に入る羽目になる」
「それでも、兄様がいてくださるから、わたしも安心して頑張れるんですのよ」
フェリシティは柔らかく微笑み、アレクシスの肩にそっと手を置いた。
「それにしても、兄様が身代わりになってくださるなんて、ちょっと感動しましたわ」
「……感動するくらいなら、最初から殴られるようなことを言うな」
アレクシスはため息をつきながら、肩を押さえて立ち上がる。
「お前が怪我をすると俺が迷惑だ。……俺はご飯は作れない」
「ええ、もちろんですわ。私も兄様のように鍬は触れませんのよ。だから、これからも頼りにさせてくださいねぇ」
二人は夕焼けに染まる修道院の庭を歩きながら、笑い合った。
陽が高く昇り、辺境の村では子どもたちも手伝う畑作業が進んでいた。子どもたちは小さな手で土を掘り返し、苗を植えている。その中には疲れた表情の子もいれば、楽しそうに働く子もいた。
昼過ぎ、作業が一段落し、子どもたちは修道院の庭に集まった。簡素な板とチョークを持ったアレクシスが、彼らを前に立つ。
「休むのも大事だが、ただ座っているだけじゃ時間がもったいないだろう。少し文字でも覚えてみるか?」
彼が板に大きく『A』の文字を書きながら言うと、子どもたちは興味津々でその周りに集まった。
「ほら、これが『A』だ。次に来るのは何だと思う?」
子どもたちは顔を見合わせ、やがて誰かが小さな声で答える。
「……『B』?」
「そうだ。ちゃんと覚えれば、自分の名前も書けるようになる。そしたら村の取引でおかしな契約書に騙されることもなくなる」
「契約書って何?」
子どもたちが口々に聞く中、アレクシスは苦笑しながら板を指差した。
「要するに、自分の名前を自分で書けるっていうのは、すごく大事なことなんだ。まあ、難しく考えるな。まずはこの文字を覚えるところから始めるぞ」
アレクシスの声が響く中、フェリシティが庭の片隅から姿を現した。手には美しい挿絵が描かれた絵本を抱えている。
「まあまあ、兄様ったら子どもたちに大人気ですわねぇ」
彼女はにこにこと微笑みながら近づいてきた。
「お前、また冷やかしに来たのか?」
アレクシスは軽く眉を上げて問いかけた。
「冷やかしだなんて失礼ねぇ。わたしはただ、兄様が立派な先生になられたのを見に来ただけですわ。それと――」
彼女は手に持った絵本を掲げた。
「ほら、子どもたちがもっと楽しく学べるように、これを持ってきたんですのよ」
フェリシティが絵本を広げると、子どもたちは一斉に歓声を上げた。そのカラフルな挿絵に目を輝かせ、前のめりになる。
「ほら、この絵本には可愛い動物たちがたくさんいますわねぇ。この『ねこ』さん、名前を文字にして覚えてみましょうか?」
「ねこ!」
子どもたちは声を揃えて答え、嬉しそうにチョークを握る。フェリシティは笑顔で頷き、続けた。
「そう、素晴らしいですわ。この『ね』と『こ』、これを覚えれば他の単語も読めるようになりますわよ」
アレクシスは腕を組みながら、その様子をじっと見ていた。
「……お前、聖書を読む名目で識字率を上げる政策をやってたんじゃないのか?これはどう見ても聖書じゃないが」
フェリシティはちらりとアレクシスを見て、肩をすくめた。
「まあ、名目とすでに言ってしまってますわよ。兄様。おっちょこちょいなんですから」
アレクシスは渋面だ。
「聖書も役に立つことはありますけれど、子どもたちにはちょっと難しすぎますわねぇ。それに――」
彼女は少しだけ声を潜め、子どもたちには聞こえないように続けた。
「……あの内容をすべて素直に信じる気にもなれませんもの」
アレクシスは眉をひそめた。
「お前、教皇に聞かれたら首が飛ぶぞ」
「まあまあ、兄様ったら心配性ねぇ。でも、大丈夫ですわ。ここは辺境ですもの。首を刎ねるような方は、いま誰もわたしの話など聞いておりませんわ」
「……その自信はどこから来るんだ」
「わたしが智慧の聖女ですからねぇ」
フェリシティの笑顔に、アレクシスは呆れたように肩をすくめた。