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鉄製の門が静かに開き、フェリシティは足を踏み入れた。目の前には広大な庭園と白亜の大邸宅が広がっている。貧民街で育ったフェリシティにとって、ここは夢のような世界だったが、どこか冷たい印象もあった。
夢はいつか覚める。
フェリシティには、この場所が現実なのだといえ実感がまったくわかなかった。
玄関に着くと、大理石の階段を上り、重厚な扉が開かれる。庭を案内するという夫人に手を引かれて、ゆっくりと歩く。
こんなにゆっくりと歩いたことはない。
貧民街でこのように歩けば、誰かに襲われる。
名前も知らない花がたくさん咲くこの場所では、きっと襲われることなどないのだろう。
今日からここの子どもになるらしい。子どもというのは、街中で手を引かれている小さい人で、親というのは手を引いている大きい人だ。
それはフェリシティも知っていた。
「フェリシティ」
一度小さく呟いてみる。最近になって自分につけられた名前は、やはり現実味がない。
庭の奥に足を踏み入れると、そこには一人の男性と一人の少年が待っていた。
フェリシティの小さな足音が柔らかな草に吸い込まれる中、少年――アレクシスの瞳が彼女をじっと見つめる。困惑と驚き、そしてどこか戸惑いの色が濃い。
「この子が……妹?」
低く呟いたアレクシスの声に、フェリシティは胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「妹なんて、いらない……俺は、こんなの認めない!」
「アレクシス!」
父の叱責に、男の子はくいっとそっぽを向いた。
フェリシティは必死に言葉を紡いだが、何を言ったのかはあまり思い出せない。
こんなに綺麗な男の子にいらないと言われたことがショックだったのだ。
母は困った顔をして、フェリシティの肩を抱いて歩き出した。
「もう。アレクシス……あの子ったら、本当に恥ずかしがり屋さんなんだから」
侯爵夫人は苦笑しながら、フェリシティに優しく声をかける。
「大丈夫よ、あの子はただ少し、恥ずかしがっているだけなの。あの子だって、いずれあなたを家族として迎え入れるわ。もちろん、私たちはもう家族と思っているのよ」
柔らかく微笑むと、静かに言葉を添える。
「ようこそ、エルフィン家へ。君はこれから私たちの家族だ」
フェリシティは、優しい父母の言葉に少しだけ胸の緊張が解けるのを感じた。しかし、彼女の頭からはアレクシスの驚いた表情と、その背中が離れなかった。
「……嫌われたのかな」
そう心の中で呟きながら、フェリシティは大邸宅の奥へと足を踏み入れた。
再び馬車に乗り込んだとき、アレクシスは眉を顰めた。
「眠れなかったのか?」
「いいえ。寝ましたよ。少し夢見が悪かったのですわ」
険しい山道を進みながら修道院を目指す。フェリシティは、微笑みながらアレクシスに言葉を投げかける。
「ねぇ兄様。修道院ってどんなところかしらねぇ」
「知るか。お前は聖女様らしく大人しく祈ってればいいんだろ」
「あらまあ、兄様ってほんとに役に立つ意見をくれるのねぇ。私は元聖女よ」
アレクシスはまたしても溜め息をついたが、フェリシティはその表情を楽しそうに眺めていた。
長い旅路を終え、馬車が古びた修道院の前に停まった。修道院は小高い丘の上に建ち、古いがどこか威厳を感じさせる静かな場所だった。
出迎えたのは、修道院長のミリナ。ただ一人、この修道院を守る修道女だ。優しげな笑みを浮かべたミリナは、フェリシティを見るなり言った。
「ようこそいらっしゃいました。ここではどうぞごゆっくり、静かにお過ごしくださいね」
フェリシティは優雅に微笑みを返しながら、馬車を降りる。
「あらまあ、こんな素敵な場所なら、退屈する暇もなさそうねぇ。ありがとうございます」
アレクシスも馬車から降り、周囲を見回して鼻を鳴らす。
「素敵か?ただ古びた建物にしか見えないがな」
フェリシティは振り返り、にこりと微笑んだ。
「まあ、兄様にはこの趣のある美しさがわからないのねぇ。残念だわ」
ミリナはそんな二人を見て、柔らかく笑う。
「ふふ、お二人は本当に仲が良いんですね。修道院が賑やかになりそうです」
「まあ、兄様が静かにしてくれるといいんですけどねぇ」
「お前が静かなら俺も静かになるんだがな」
二人の軽口に、ミリナは目を細めて微笑む。どうやら、修道院の静寂が早速破られる予感を感じているようだった。