14
王城の門が静かに開く。朝靄に包まれた道が、聖国を囲む険しい山々へと続いていた。霧の中から差し込む朝陽が、フェリシティのローブを淡い光で照らしている。彼女は振り返ることなく、一歩一歩ゆっくりと歩みを進めていた。
隣を歩くアレクシスが、重い荷物を肩に担いで彼女を見下ろす。
「お前、本当にあっさり城を出てきたな。未練はないのか?」
フェリシティはにこりと微笑みながら、肩をすくめた。
「未練なんてありませんわ。王太子殿下にもきちんとお別れをしましたし、王城での役目はもう終わったもの」
「お別れ、ね……あの木っ端微塵にする振り方が『きちんと』だと思うなら、お前の基準は相当おかしいな」
「ふふ、殿下もこれで少しは目を覚ましてくれたでしょうし、良いお別れだったと思うわ」
「まあ、教皇も新しくなったしな」
「あの人はとっておきの人材よ」
フェリシティの軽やかな笑顔に、アレクシスは呆れたようにため息をついた。
道を進むうちに、フェリシティがふと足を止めて、アレクシスの顔を見上げる。
「ねえ、兄様。父様と母様にはちゃんとお別れが言えなかったわねぇ……」
その言葉に、アレクシスはわずかに口元を歪め、苦笑を浮かべた。
「お別れも何も、二人はすでに隣国にいる」
フェリシティは驚いたように目を丸くする。
「隣国に?どういうこと?」
「こうなるって、あの二人には最初からわかってたんだよ。だから、俺をお前の護衛として辺境の修道院に送り出した。……最初から、お前が聖国を出ることになるって見越していたんだ」
「まあ……」
フェリシティは小さく息を吐き、肩をすくめた。
「さすが、父様と母様ねぇ。わたしが追放されるなんて、あのときから考えていたのかしら」
「さあな。ただ、父様が言ってたよ。『あの子が何をしても、アレクシスなら支えられる』ってな」
「まあ、父様ったら。わたしが何をすると思っていたのに?それじゃあ兄様はわたしのお守り役だったのねぇ」
フェリシティはからかうように微笑み、アレクシスを見上げた。
「……お前に振り回されてばかりだがな」
アレクシスは苦々しい顔をしながらも、どこか満足げな表情を浮かべていた。
山道を越え、隣国の景色が広がる頃、フェリシティは目を輝かせながらその土地を見渡していた。聖国とはまったく異なる広大な平野と、活気に満ちた街並みが彼女の目に映る。
「素敵な場所ねぇ。これが外の世界……わたし、どんなことが待っているのか楽しみだわ」
アレクシスはその隣で、淡々とした口調で言った。
「楽しみなのはいいが、まずは父様と母様のところに行くぞ。あの二人がしっかりと待ってるはずだ」
フェリシティは立ち止まり、柔らかく微笑んだ。
「そうねぇ……わたしを育ててくれた二人に、ちゃんとお礼を言わなくちゃいけないわね」
「それだけで済むとは思えないけどな」
アレクシスは肩をすくめながら、軽くため息をついた。
隣国の街へ向かう道すがら、フェリシティは足を止め、ふっとアレクシスを振り返った。そして、軽く身を乗り出し、その頬にそっと唇を寄せた。
「兄様、本当にありがとう。わたしをここまで守ってくれて」
アレクシスは目を見開き、顔を真っ赤にしながら後ずさった。
「お、お前、急に何をするんだ!」
「感謝の気持ちよ。それとも……嫌だったかしら?」
フェリシティは悪戯っぽく微笑む。アレクシスは言葉を詰まらせ、しばらく口を開けたまま固まっていたが、やがて視線を逸らした。
「……嫌なわけないだろ。ただ……心臓に悪いんだよ、お前は」
「ふふ、兄様ったら照れちゃって。本当に可愛いわねぇ」
「かわ!?」
フェリシティは楽しげに笑い、再び歩き出した。
霧が晴れる中、隣国の広がる青空が二人の頭上に広がる。フェリシティは振り返らずに言った。
「これからどんなことが待っているのかしらねぇ……兄様、ちゃんとついてきてね」
「いや。お前がついてこいよ」
二人の足音が、山道に響く。そして、それは新しい未来へ続く希望の音となっていた。
初夏の柔らかな陽射しが侯爵家の庭を照らし、花々が風に揺れている。アレクシスは父の隣で無表情のまま立っていた。
「今日からお前の妹になるフェリシティだ。歓迎してやるんだぞ」
父の落ち着いた声に、アレクシスは曖昧に頷く。
(妹……妹か。いらないなぁ。どうせなら弟が良かったのに)
思春期特有の反発心が胸の中で渦巻いていた。新しい妹が増えることに、期待も興味も感じていなかった。
馬車が庭に到着し、扉が静かに開いた。中から現れたのは、アプリコット色の髪を持つ小柄な少女だった。薄いベージュのドレスが風に揺れ、少女は一歩庭に踏み出した。
「あら、まあ……素敵なお庭ですわねぇ」
彼女の柔らかな声が風に乗って耳に届く。その声を聞いた瞬間、アレクシスは顔を上げた。彼女の凛とした瞳が、まっすぐに自分を見つめている。
(……きれいだ)
その瞳は、柔らかさの中に芯の強さを秘めていて、どこか無垢で――だけど彼が知っているどんな少女とも違った。
あれは本当に少女だろうか。昨日おとぎ話で読んだ妖精なのではないだろうか。
胸がざわついた。心臓がどくん、と音を立てた。
「よろしくお願いいたします」
フェリシティはにこりと微笑み、深々と頭を下げた。
上品ながら少しぎこちなく、どこか庶民的な雰囲気を残していた。それがまた彼女の無垢さを引き立てていた。
だが、アレクシスの心に湧き上がった感情は、恋の予感に似たときめきと同時に、強烈な拒絶だった。
(この子が……妹になる?)
家族という一線が引かれる――
アレクシスにとって、なぜかそれは家族の輪に引き入れることではなく、この妖精のような女の子との間に線を引かれることのように感じた。このままでは、この子はアレクシスの手の届かない女の子になってしまう。
その現実に、彼は思わず声を荒げた。
「妹なんて、いらない……俺は、こんなの認めない!」
突然の反発に、父と母が驚いた顔をする。
「アレクシス!」
父が叱責の声を上げるが、彼はフェリシティに視線を向けることすらできなかった。胸の中で渦巻く感情をどう処理していいのか分からず、ただ口から出るままに言葉を投げつけた。
「妹なんていらない!」
フェリシティの動きが止まる。彼女の凛としていた瞳が一瞬揺らぎ、微かに震えた。その姿がアレクシスの視界の端に映り、彼の胸がぎゅっと締め付けられる。
「……そ、そうですのね」
フェリシティは顔を伏せ、小さく答えた。声は震えていなかったが、その肩が微かに縮こまっているのが分かる。
「わたし……ご迷惑をおかけするつもりはありませんの。屋敷に置いていただくだけでもありがたいことです。隅でじっとしておりますわ。……どうぞよろしくお願いいたしますわ」
彼女は再び頭を下げたが、その姿には先ほどの堂々とした自信はもう見当たらなかった。
アレクシスは息を詰まらせる。
(俺が……この子を傷つけた?)
彼女の伏せた瞳の奥に浮かぶ小さな悲しみを見た瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。初めての感覚だった。
(違う……こんなつもりじゃなかった)
フェリシティが母に優しく肩を抱かれながら屋敷に案内されていくのを、アレクシスは動けないまま見送った。
(俺……何をやってるんだ?)
胸の中で渦巻く感情は、自分でも説明できなかった。ただひとつ分かっていたのは、彼女が悲しむ姿を二度と見たくない、ということだった。
(……妹だって?こんな気持ちになるのに、妹だなんて……)
アレクシスは初めての感情に戸惑いながら、拳を強く握りしめた。その瞳に浮かんだ涙のような光に気づく者は、誰もいない。
アレクシスが素直な言葉を使うことができるのは、流れ流れて二人で隣国に行くことになる、あの運命の三ヶ月間の後である。




