12
その夜、フェリシティは教皇ラファエルと再び対面した。教皇の部屋は、豪華な調度品に囲まれながらも、どこか冷たく無機質だった。
ラファエルは暖炉の前で手を組みながら、静かに語り始める。
「フェリシティ様。王都の状況をご覧になられましたか?この混乱を収めるには、やはりあなたの力が必要なのです」
フェリシティは教皇をじっと見つめ、優雅に笑みを浮かべた。
「あらまあ、民衆がこんなにも混乱しているなんて……教皇様の手腕にも少し問題があるのではなくて?」
「それは……想定外の事態が続いているからです」
「でも、想定外だなんて教皇様に似合わないわねぇ。こういう時のために聖女が二人もいるんじゃありませんこと?」
ラファエルは微かに眉をひそめたが、すぐに表情を整えた。
「新しい聖女セシリア様はその力を尽くしてくださっています。しかし、残念ながら……それだけでは不十分だったのです」
フェリシティは微笑みを崩さないまま、ゆっくりと距離を詰め、ラファエルの目をじっと見つめた。
「そうなのねぇ。教皇様がそのようにおっしゃるなら、わたしも協力しないわけにはいかないわ。でも……この混乱が治まった後、わたしの役目もきちんと終わるのかしらねぇ?」
ラファエルはその言葉に微かに目を細め、低く答えた。
「もちろんです。すべてが解決した暁には……」
「それならいいのだけれど、どうかお忘れなく。わたしはあなたの道具ではなく、この国の人々のために動くのよ」
その夜、フェリシティはアレクシスと共に窓から王都を見下ろしていた。
遠くで燃える火の光と、聞こえてくる怒号。それを見つめながら、フェリシティは静かに呟く。
「教皇様や殿下が何を考えているにせよ……結局この国を動かすのは民衆よねぇ。奇跡でも聖女でもなくて……本当は彼ら自身が力を持っているのに」
アレクシスは隣で彼女を見つめ、冷静に言った。
「お前なら、それを示せるかもしれない。知恵の聖女としてな」
フェリシティは微笑み、深く息をついた。
「そうねぇ……わたしにできること、やってみるわ」
重厚な木製の扉が静かに閉じられた室内には、王太子セオドア、フェリシティ、教皇ラファエル、そしてセシリアが顔を揃えていた。義兄アレクシスは、フェリシティの護衛として彼女の隣に控えている。
フェリシティは微笑を浮かべながら、淡々とした口調で告げた。
「殿下のご提案、再婚約のお話……承りますわ」
その瞬間、室内の空気が凍りついた。セオドアは驚きと喜びの表情を浮かべ、セシリアは目を見開いて怒りを露わにする。アレクシスは目を伏せ、低い声で呟いた。
「……何を言っているんだ、フェリシティ」
「だって、兄様」
フェリシティは彼に視線を向け、ふわりと微笑む。
「国の安定のためには、これが最良の選択なのでしょう?聖女の地位を再び手にし、殿下の隣に立てば、民衆の不安も少しは収まるはずよ」
セシリアが椅子を蹴るように立ち上がり、声を上げた。
「待ちなさい!あなたが戻るだなんて聞いていませんわ!それに、聖女は私ですのよ!」
フェリシティは彼女を見て、柔らかな口調で返す。
「あらまあ、セシリア様。そのようにお怒りになる必要はないわ。あなたはあなたの方法でお国のために尽くしてくださればいいのですもの」
セシリアの顔が真っ赤に染まるのをよそに、フェリシティは王太子に向き直る。
「ですが、殿下。これほど重大なことですもの、早速民衆にお伝えするべきではなくて?」
セオドアは静かに頷いた。
夜の王城は静寂に包まれていた。長い廊下に敷かれた赤い絨毯が足音を吸い込み、外の月明かりが窓から淡い光を差し込んでいる。
アレクシスは静かに扉の前に立ち、拳を軽く握りしめた。部屋の中には灯りがともり、フェリシティがまだ起きている気配がする。
彼は深呼吸を一つしてから、ドアをノックした。
「フェリシティ、入るぞ」
扉を開けると、フェリシティは窓辺に立ち、月明かりを浴びながら薄いローブを羽織っていた。彼女は振り返り、微笑みを浮かべる。
「あらまあ、兄様。こんな夜更けにどうしたのかしら?」
その柔らかな口調に、アレクシスは少し苛立ちを感じた。彼女の無防備な態度が、余計に彼の焦りを煽る。
「お前、何を考えているんだ」
アレクシスは部屋に踏み込み、扉を閉めた。声を低く抑えながら、彼女を真っ直ぐに見つめる。
「再婚約だなんて、どういうつもりだ?」
フェリシティは窓辺から離れ、ベッドの横にある椅子にゆっくりと腰掛けた。微笑みを崩さず、彼を見上げる。
「どういうつもりもなにも……殿下のお申し出を受けるのが、この国のためだと思っただけよ」
「国のため?そんなことのためにお前が婚約を受け入れるなんて、信じられない!」
アレクシスの声が少し大きくなり、彼女に詰め寄る。だが、フェリシティは動じることなく、穏やかに答えた。
「兄様、落ち着いて。殿下との婚約は、民衆の安心につながるのよ。聖女が王太子と共にあるという形が、どれほど大きな意味を持つかわからないの?」
「そんな理由で自分の人生を犠牲にするつもりか!」
アレクシスは拳を握りしめ、低く呟いた。
「……お前が王太子の隣に立つなんて、耐えられない」
その言葉に、フェリシティの瞳が少し揺れた。だが、彼女は微笑みを浮かべたまま、ふわりとした口調で返す。
「あらまあ、兄様って意外とシスコンだったのねぇ。妹の結婚に反対するなんて。でも、わたしはこの国を少しでも良くするためにできることをするだけよ」
「ごまかすな!違う!俺は……」
アレクシスは口を噤んだ。その後、深く息をつき、絞り出すように言葉を続ける。
「俺は……お前が王太子の道具にされるのが許せないんだ」
その言葉に、フェリシティは一瞬だけ目を伏せた。そして、小さく笑みをこぼす。
「兄様って、本当に優しいのねぇ。でも……わたしは大丈夫よ。自分の意志で選んだことだから」
「それが気に入らないんだ」
アレクシスは苦々しい表情を浮かべ、椅子に腰掛けるフェリシティをじっと見下ろす。
「お前はいつも、全部一人で背負い込む。誰かに頼ろうとしない。……俺にだって、頼れるのに」
フェリシティは少し目を見開き、その後、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「あらまあ、兄様に頼れるかしら?でも……兄様がそばにいてくれるだけで、十分に安心してるのよ」
その言葉に、アレクシスは一瞬言葉を失い、視線を外した。だが、彼の胸の中には焦りが渦巻いていた。
「俺は……お前が笑っていられるなら、それでいいと思っていた。でも、王太子の隣でお前が幸せになれるとは思えない」
フェリシティは椅子から立ち上がり、彼に近づいて顔を上げる。月明かりが彼女の髪を照らし、淡い光が彼女を包み込むようだった。
「兄様、わたしは大丈夫よ。心配しないで」
その言葉には、どこか諦めのような響きがあった。アレクシスはそれを聞いて、目を細めた。
「……その大丈夫、って言葉が一番信用ならないんだよ」
フェリシティはくすりと笑い、そっと彼の腕に触れる。
「でも、兄様がいてくれるなら……きっと、本当に大丈夫になるわ」
その瞬間、アレクシスは衝動的にフェリシティを抱きしめた。彼女が驚いたように目を見開くが、彼は強くその体を引き寄せた。
「頼むから、無理をするな。俺が……お前を守るから」
フェリシティは一瞬だけ戸惑った表情を見せたが、すぐに彼の背中にそっと手を添えた。そして、優しく囁いた。
「ありがとう、兄様。でも……守られるだけじゃなくて、わたしも戦うのよ。それが、この国に生きる人としての使命だもの」
アレクシスはその言葉に小さく頷き、ゆっくりと彼女を解放した。
その日の夕刻、王城前の広場に簡素な演壇が設けられた。夕陽が沈みゆく中、集まった民衆のざわめきが広場に響く。フェリシティ、セオドア、教皇、セシリア、アレクシスがその場に立ち並び、注目を集めていた。
セオドアが民衆に向けて一歩前に出る。彼は息を整え、大きな声で話し始めようとした。
「皆の者!今日は重大なご報告が……」
だが、その瞬間、フェリシティが静かに手を上げ、彼の言葉を遮った。
「殿下、少しお待ちいただけますか?」
セオドアは驚きながらも、フェリシティに視線を向けた。彼女の目には、強い意志が宿っている。
「この場に集まっている皆さんに、私からお話したいことがございますの」
フェリシティは演壇の中央に立ち、民衆を見渡した。静かに深呼吸をしてから、柔らかな笑みを浮かべて語り始める。
「皆さん、私はフェリシティ・エルフィン。かつて知恵の聖女と呼ばれ、この国に仕えておりました。でも今は、一人の普通の人間として、皆さんに本当のことをお話ししたいと思います」
広場に集まった民衆は、フェリシティの登場に視線を向けていた。緊張と不安が漂う空気の中、フェリシティは高台に立ち、ゆっくりと群衆を見回した。
「この国が抱えている現実――それを正しく理解しなければ、未来を変えることはできませんの」
彼女の静かな声が広場に響き渡り、ざわついていた民衆が耳を傾け始めた。
「この国は、神の加護を受けた聖地だと教えられてきました。そして、御神体がある限り、聖女が生まれ、この国を奇跡で守る……そういうお話を、私たちはずっと信じてきました」
広場を静寂が支配している。
フェリシティの声は穏やかだが、なぜかよく通った。
「真実をいま申し上げます。この国はかつて外の国々で追われ、迫害された人々が逃げてきた避難所でした。そして、御神体とされるものは……空っぽの箱なのです」
その瞬間、民衆からどよめきが起きた。セシリアが驚愕の表情を浮かべ、教皇ラファエルは冷たい視線をフェリシティに向ける。
「この国には神の奇跡も、聖女の奇跡もありません」




