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柔らかな朝日が差し込み、謁見室は優しい光に満ちていた。
そんな中、王太子セオドア・リヴィエールは、席を勧めることもせずに、ただただ知恵の聖女フェリシティ・エルフィンに向き合っていた。
セオドアの隣には、新たに選ばれた治癒の聖女セシリアが立ち、微笑を浮かべている。
その笑みは、勝利を確信したかのような自信に満ちていた。
「君との婚約を破棄する」
セオドアは低く響く声で告げた。
その言葉に、隣のセシリアがさらに満足げに微笑む。
「セシリアを新たに治癒の聖女として迎えることにしたんだ。この国のために、君には辺境の修道院で過ごしてもらうのが最善だと考えている。本当に申し訳ない」
フェリシティは一瞬だけ瞬きをし、次いで穏やかな微笑みを浮かべた。
まるで聖女のようだ。
「まあ、殿下のご立派なご判断、さすがですわねぇ。拍手をしておきましょうか」
「フェリシティ……」
セオドアが言葉を継ごうとするが、フェリシティはゆったりと首を傾げた。
「お気になさらなくても良いのですよ。殿下。聖女の地位も婚約も無くなって、辺境でのんびり過ごせるなら、むしろありがたいお話ですものねぇ」
セオドアは言葉を失い、黙り込む。
そんな彼を見て、隣のセシリアが笑い声を漏らした。
「当然の決定ですわ。知恵の聖女なんて名ばかり。7年も聖女を名乗っていたのに、国民の学力が上がったなんて証明のしようがないことしか成果がありませんわ。そんな女より、奇跡を起こせる私のほうが聖女にふさわしいに決まっていますもの」
フェリシティはその言葉に、ますます優雅な笑みを深めた。
「あらまあ、さすが一度奇跡を起こしたと評判の聖女さま。なんでも、とある貴族男性の病気を手をかざしただけで治してしまったとか。頼もしいことねえ。国民のためにも、その奇跡が長持ちしてくれることを祈っておりますわ」
セシリアのコメカミがピクリと引きつる。
その様子を見ても、フェリシティは涼しい顔のままだった。
「それでは、お先に失礼しますわ。どうぞ新しい聖女様と力を合わせて、この国を守ってくださいませ」
フェリシティは静かにスカートを持ち上げ、ひとつの隙もないカーテシーをする。
謁見室を出ていく彼女の堂々とした背中を見つめながら、セオドアはかすかな不安を感じた。
ふと思い出したのは、婚約者として一緒にいた日々の中の一幕。
12歳のころ、王宮の私室で盤上遊戯を挟みながら、フェリシティと向かい合っていた日のことだ。
フェリシティは駒を進めると、いつものように微笑みながら言った。
「殿下、慎重なのは良いことですけれど、このままだとすぐに勝負が決まってしまいますわねぇ」
セオドアはじっと盤上を見つめ、小さくため息をついた。
「僕には君みたいに大胆な動きはできないよ。下手に動いて失敗したくないんだ。僕が失敗するということは、すべての民を巻き込むことになる」
「まあ、殿下ったら。勝ち筋を知っていながら動かないなんて、珍しい方ですわねぇ。足りないところは頼るために腹心というのは存在しますのよ」
フェリシティは肩をすくめて駒を取り、勝利を決めた。
「……君の言葉、褒められてる気がしない」
セオドアは苦笑したが、どこか納得していた。
「でも、君がそばにいると助かるよ。僕が間違えても、君なら正してくれそうだから」
「それはどうでしょうかねぇ。結局、殿下は長いものに巻かれるお方ですもの」
セオドアは困ったように笑い、また盤上に視線を落とした。
あの時のことをなぜ今思い出すのか、セオドアにはなにも分からなかった。
王城の前庭では、豪華な馬車がフェリシティを乗せて出発の準備を整えていた。見送りに現れた教皇ラファエルは、柔和な笑みを浮かべながらフェリシティに声をかける。
教皇の隣には、若い神父エゼルが立っていた。エゼルは長身で痩せた体つきながら、冷静な瞳が印象的だった。
「まあ、教皇様がわざわざお見送りに来てくださるなんて、光栄ですわねぇ」
フェリシティは馬車に乗る前に軽く頭を下げ、微笑んだ。その瞳には皮肉とも受け取れる光があった。
「知恵の聖女ともなれば、我々としても大切な存在だ。君の旅路が安全であるよう祈るべきだろう」
教皇ラファエルの言葉はどこか形式的で、感情が見えにくい。
エゼルが一歩前に進み、フェリシティをじっと見つめた。その視線には冷静な知性が宿っている。
「フェリシティ様。ご自身の知恵をもってすれば、辺境でのご活動も素晴らしい成果を上げることでしょう。しかし、どうかご無理なさらずに」
「まあ、エゼル様ったら優しいお言葉ですこと。でも、知恵なんてものは、使う人次第で役立つかどうか決まりますわねぇ」
フェリシティは軽やかに微笑みながら返した。その瞳の奥に潜む何かを見逃さず、エゼルは静かに続けた。
「確かに、知恵は刃物のようなものです。慎重に扱えば人を救い、誤れば人を傷つける。……ですが、あなたはその慎重さをお持ちだと信じております」
「ふふ、慎重ですか……。わたしがそんなにお上品に見えますの?」
フェリシティはわざとらしく首を傾げる。その声には笑みが混じるが、エゼルの視線は微動だにしなかった。
「知恵の刃物は確かに危険だ。しかし、それを君のように使える者は少ない。……辺境の民たちには、君の力が必要だろう」
ラファエルの声は低く、どこか感情を押し殺した響きがあった。
「教皇様がわたしを信じてくださるなんて、光栄ですわ。もっとも、それはわたしの役目を終えたからでしょうけれど」
フェリシティの声には軽い皮肉が含まれている。
「君の役目が終わったわけではない。君はまだ聖女として、国を支えるべきだ」
ラファエルの言葉に、フェリシティは薄く笑った。
「まあ、支えるべき国が正しい道を歩んでいるのなら、ですわねぇ。間違った道は正さなくては。知恵ある者の義務ですわ」
その返答にラファエルは短く息を吐き、視線をそらした。
エゼルが静かに口を開いた。
「フェリシティ様、どうかお気をつけて。そして、もし王都に戻る機会がありましたら、ぜひまたその知恵を分け与えてください。私たちは、それを必要としておりますので」
「まあ、そうおっしゃるなら考えますわねぇ。でも、辺境が気に入って戻りたくなくなるかもしれませんわ」
フェリシティの軽口に、エゼルはわずかに微笑みを浮かべた。
「フェリシティ様、辺境の修道院は静かで平和な場所です。あなたの祈りと知恵は、きっとその地でも人々を導くことでしょう」
フェリシティはにこりと笑い返した。
「あなたのお言葉、胸に刻みます。感謝しますわ。エゼル様」
ラファエルの笑顔が微かに硬直する。それを見ても、フェリシティは気にする様子もなく、馬車に乗り込もうとする。
そのとき、後方から早足で歩いてきたアレクシス・アルドレッドが、馬車に向かってそのまま乗り込んだ。
「俺も行く」
突然の一言に、フェリシティは目を丸くし、ラファエルも驚きの表情を浮かべた。
「兄様。これはあなたが同行されるような案件では……」
「護衛だ」
アレクシスは短く言い放ち、フェリシティの隣にどっしりと腰を下ろす。フェリシティは驚きを隠しながらも、彼に柔らかな笑みを向けた。
「あらやだ、兄様もご一緒だなんて意外な旅ねぇ。でも、馬車の中で窮屈にならないかしら?いますぐ降りた方がよろしいのでは?」
「俺は気にしない」
フェリシティは楽しげに微笑む。
「さすが兄様ねえ。けど、馬車酔いしないように気をつけてくださいませ。揺れるとしんどくなるもの」
アレクシスは小さくため息をつき、窓の外を見つめる。
馬車は静かに動き出し、王城の庭を抜けていく。フェリシティは窓越しに見える景色を眺めながら、義兄の同行が思った以上に面白い旅を約束する予感がするのを感じていた。