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Song for me.

作者: 橋本たなか
掲載日:2023/06/01



母親だと思っていた人が母親ではないと知ったのは、私が15歳の誕生日を迎えた当日だった。

母と父と小学3年生の妹、瑠璃がハッピーバースデーの歌を唄った。


「さぁ結花ちゃん、願い事をしてからロウソクを吹き消してちょうだい」


その言葉に頷いて目を瞑る。


「高校生になっても楽しい毎日が起こりますように」


心の中で強く祈りながら、勢いよく炎を吹き消す。1回で消え、父と瑠璃が拍手をする。

母が電気の灯りを付ける。


「食べよっ!食べよっ!」


瑠璃がケーキに顔を近付けて鼻を鳴らす。母が瑠璃の鼻にクリームが付かないように抑え、ケーキナイフで父が切る。

この瞬間までは本当に楽しい、いつも通りの誕生日パーティーだった。

手作りのケーキを皆で食べ、テレビを流しみる。

満腹になった瑠璃はソファの上で眠い目をこすり、大きな欠伸を1つした。


「ほら瑠璃、眠いなら歯磨きして2階行きなさい」

「きょうはー、おねぇちゃんとー、ねるぅー」

「私まだお風呂入ってないよ。先に寝てな」


年の離れた妹というのは可愛いものだ。

しかも瑠璃は母に似てとても可愛らしい顔をしていた。

平凡な私とは大違いなくらい。


「お姉ちゃんもこう言ってるし。ほら、今寝たらお布団気持ちいいぞー」


父が瑠璃を軽く持ち上げた。

キャハキャハと笑う瑠璃を担いで2階へと上がっていく。

その様子を母は嬉しそうに笑っていた。


「瑠璃はお父さん大好きだよね」

「お父さんも負けてないけどね」


2人でクスクス笑いながらケーキを食べた。


10分経っていただろうか?


私は空になった自分のお皿と瑠璃のお皿を持って台所に立っていた。

ケーキの後に珈琲が飲みたくなって、お湯を沸かしていたのだ。

その間、母はテレビを見ていた。

瑠璃を寝かしつけたであろう父が1階に戻ってきた。そう思ったのと同時にテレビの音が消えた。


「結花」

「んー?」

「結花」

「お父さんも珈琲飲むー?」


いつもと違う父の声に、音がした。

嫌な予感というか、変化が起きる前兆の音。

耳鳴りみたいな感じだ。


「結花、ちょっと」


台所にある柱から顔を出す。

父はテレビに背を向けた状態でテーブルの前に正座をしていた。


「ちょっと待ってて」


私は待つ父を無視して、コーヒーポットを8の字に回しながら、丁寧に珈琲を入れた。

いつもなら砂糖、ミルクもたっぷり入れるけど、もう15歳だから、ブラックコーヒーだ。


「結花、早く来い」


とうとう父に急かされ、熱い珈琲を台所に置いたまま父の元へと向かった。

母も父の隣に座っており、私はソファとテーブルの間に座った。

父も母も正座だったから、それに倣って私も正座をする。


「どうしたの?」


私がそう聞いたのに、2人は答えない。

母は今にも泣きそうな顔をして、父は眉間に皺を寄せたままテーブルの真ん中を睨んでいた。

何か大事なことを言わなければならないのだろう。

でも、なんと切り出せば良いのか分からない。

そんな2人の気持ちが伝わってくるような沈黙だった。

そして、口火を切ったのは、父だった。


「結花、15歳になったな」

「うん」

「大きくなった」

「まあね」

「もう、大人だな」

「どうだろう」

「結花」

「結花ちゃん」


母がワッと声を上げて泣き出した。


「結花。朱里さんは、結花の本当のお母さんじゃないんだ」


父はテーブルの真ん中を見つめながら、多分朱里さんの手を握っていた。

ていうか、朱里さんっていうのか。

私は母を"お母さん”としか思っていなかったから、個別の名前があるという当たり前の事が不思議に思えた。

その朱里さんが「ごめんねごめんね」を連発しながら泣いている。

何が"ごめん”なんだろうか。


「謝らないでよ」


私は、朱里さんにつられて涙が流れた。


「お母さんの作る料理、好きだよ。今日のケーキも。お母さんから産まれてないとしても、今の私の体はお母さんから作られてると思うから、謝らないでよ」


私の言葉に父も泣いて、私は母と久しぶりに一緒にお風呂に入った。

そして眠っていた瑠璃を両親の寝室に運んで、家族4人で並んで眠った。

私は衝撃的な告白の後で、なかなか眠りに付けなかった。それは孤独とか寂しいとか負の感情から来るものではなくて、自分が周りとは違う、所謂「普通の人」では無いのだという興奮に近かった。

それでも、私の人生が大きく変わることなんてなかった。

告白をした両親は最初は気まづそうに、私が壊れないように恐る恐る扱っていたが、元から厳しい人達でもないし私も全く気にしてないから、いつも通りに戻るのに1週間もかからなかった。

何の不便もなく、私は高校生になって、大学生になろうとしていた。

高校は実家から通っていたけど、大学は他県になった為、一人暮らしをする事になった。

そのために私は自室の片付けをしていた。


「何してるの?」

「断捨離。ずっと整理したいって思ってたんだよね」


押し入れやクローゼットに体を突っ込んで衣装ケースやチェストを引っ張り出しては開けていった。


「ちょっと待って!」


そんな私を押し退けて、母は薄い水色のカラーボックスを押し入れの奥から引っ張り出した。


「なにどうしたの?」

「思い出。これは捨てちゃダメだからね!」


宝物を思い出した子どものように、母はそれを両親の寝室まで持っていった。

母の思い出がなぜ私の部屋の押し入れに入っていたのか、その理由を考えるのは簡単だった。

私には見せることの出来ない、私に関わるものが入っているからだ。

数日後、両親も瑠璃もいない日を見計らって、私は寝室へ入った。

寝室には両親のベッドとクローゼットしかない。

ベッドの下を覗き込むが何も無い。

クローゼットを開けて眺める。


無い。


冬用のコートやスーツやらをかき分け、暗がりにある他のボックスたちにスマートホンのライトを当てながら探すと、目当てのボックスは手前にあるボックスの奥に隠されていた。

それを引っこ抜くように引っ張り出して、一切躊躇わずに軽い白濁色の蓋を開けた。


「懐かしい」


ボックスには、記憶の片隅に閉まってあった人形やブロック、片手サイズの絵本が入っていて、不意に声が漏れる。

それら全てを手に取っていき、懐かしがった。

人形遊びや絵本が大好きだった。

両親は家にいないことのほうが多くて、私は一人遊びばかりしていた。

そして記憶というのは、思い出と思い出の間にあるようで、とある絵本を開いた時、私は手を止めた。


この本を、読んでくれた人がいた。


母でも父でもない、よく家に来ていた女の人。

誰だっけな。

不思議に思いながら違う物を手に取る。

指人形だった。


「あ」


まるでパズルのように、1つのことを思い出したら思い出のピースはどんどんはまっていく。

この指人形でその人と遊んだんだ。

このぬいぐるみはその人が買ってくれたものだ。

ボックスに入っているほとんどのものが、女の人との思い出付きだった。

そして、その全ての物の下に、色褪せた手紙が入っていた。

高鳴る鼓動を抑えながら、カラカラに乾いた口を震わせ、私はそれを開けた。


「ゆかちゃんへ。

おたんじょうびおめでとう。

すてきなレディになってね。

だいすきだよ。」


たった4行の、短い手紙だった。


「京子さん……」


そう、その人の名前は京子さん。

私の本当の母である人だ。

彼女はいつもスーツを着ていて、帰ってくるのはいつも夜で、会えるのは私が眠るまでの夜の数十分だけだった。

幼い私のそんな状況を危惧してか、両親はベビーシッターを呼んだ。


それが朱里さんだ。


朱里さんと一緒にいる時間の方が断然に多くて、私は朱里さんをお母さんだとずっと思っていた。

朱里さんが母をいつも「京子さん」と呼んでいたから、私は母の名前を覚えていたのだ。

でも、本当は京子さんが母だった。

私に本当のことを告白した朱里さんが「ごめんなさい」を止めなかったのは、私から母を奪ったと思ったからか。

両親の隠したい過去は、私の出生ではなく、京子さんだったのか。

私は、手紙もぬいぐるみも全て元通りにボックスの中に直して、ボックスもあった場所に間違えずに戻した。

キッチンに行き、冷蔵庫からお茶を出してコップに注ぐ。

それを一気に胃へと流し込んだ。

冷えたお茶が喉頭、食道を通るのを感じる。


「なるほど」


色んな事柄の辻褄が合って、これが全てかと納得した。

こういう時、本当の母親に会いたいなんて言えば、また朱里さんは泣くんだろうか。

というか、私は京子さん、本当の母親に会いたいのか?

もう一度お茶を注ぎ、リビングに行きテレビをつける。

夕方の番組ではパンダの子供が産まれたという微笑ましいニュースがやっていた。

それを見ながら片手で携帯を弄る。

京子さんの名前を検索しようと思ったのだ。

検索画面を開き、固まった。


苗字、分かんないな。


母は離婚したから苗字が変わっているはず。

京子なんて名前いくらでもいるし、名前だけではヒットしないだろう。


「はーぁ」


ため息をついてソファに携帯を放り投げ、ニュースの続きを見る。

会いたいっていうより、今現在何をしているのかを知りたい。

私が産まれても仕事ばかりしていたような人だから、今もきっと働いているはず。

だとしたら結構な地位にいるんじゃないか。

でも、どこのどんな企業で働いているかは分からない。

もしかしたら、当時の仕事を辞めて新しく自分で会社を立ち上げているかも。

私の中の京子さんは、それくらいタフでカッコイイ女の人だった。

いつも黒いパンツスーツを着ていて、髪は後ろに束ねていて、前髪は横に流して動かないようにピンで止めていて……あぁそうだ。赤い口紅が印象的で、私もメイクに憧れたんだ。

私は、見た目も中身も父に似たのかもしれない。

臆病で変化が嫌いで、「普通」でいたい。

メイクもするけど赤い口紅なんて塗らない。

ほんのり色がつくグロスをつけている。

京子さんに出会っても、私はきっと喜べないなと思った。

だって真逆すぎるもん。

京子さんも、私が自分の子供だと分かったら、きっとショックを受けてしまう。

だから、会わない方が良い。

私はそう結論付けて、それ以上考えるのを辞めた。

私が探さない限り、私と京子さんの人生が重なる事なんて無いだろうしね。


そう思ってから、何年が過ぎたんだろう。

私は大学を卒業して父の地元の役場に就職した。

彼氏も出来て充実した人生だったのに、私は職場の、父と同じくらいの年齢の上司と不倫をした。

それが職場にバレてクビになり、付き合っていた彼氏とも別れた。

同時期に父は亡くなり、瑠璃は中学生の時に道を外れ、今は何をしているのか何処にいるのか分からない。

変わらないのは、朱里さんだけだった。

地元に戻った私を、彼女は暖かく迎えてくれたのに、私は他人である朱里さんが妙に優しいのが怖くて何も言わずに家を出た。

行くあてもなく、頼れる人なんて誰もいない。

でも、食べて寝て、生きていくしかないから、私は誰でも雇ってくれそうな所を探した。

それがとある山にあるお寺だった。

宿坊と呼ばれるそこで働けば、眠れる場所も食事もある。

お金も貰える。

私はそこで働き始めた。

毎日5時に起きてお寺に泊まっている人とそこで働いている人の朝食を作る。

5時半にお坊さんたちが起きてくる。

6時に宿泊客を起こし、6時半から始まる朝のお勤めに間に合うよう準備をする。

1時間あるお勤めの間に部屋にある布団を回収。朝食を部屋に用意をして、つかの間の休息。

お勤めから戻ってきたら給仕に向かう。お茶を汲んだりご飯をよそったり。

9時に宿泊客が帰り、部屋の掃除。

10時半に掃除が終わって昼食の準備。

12時にご飯。

昼食後はお寺の中を掃除をしたりお参りにやってくる人達にお接待をしたり、新しく来る宿泊客の部屋の準備。

夕方のお勤めが始まる前に夕食の準備。

19時に夕食を出し、お風呂の準備。

お風呂の間に布団を敷いて、21時前後に仕事が終わる。

忙しくて自分の時間なんて1秒たりともなかったけど、私には充分だった。

でも、私にはひとつ気がかりな事があった。


「楠さん、お風呂どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


声をかけてくれたのは、私と同じ仕事をしていて尼僧さん。

50近いその人は、いつも小言1つ言わないでテキパキと仕事をし、住職とその奥さんにも慕われている寡黙な女性である。


中間 結京ゆいきょう


それが彼女の僧名だった。

本名が京子かどうかは分からないけど、私は彼女が私の本当の母なのではないかと疑っている。

私の記憶の中にいる京子さんと、とても似ているのだ。

でも、剃髪しているから確実にそうとは言えない。

でも、目も鼻も口も骨格も、記憶中のままで、彼女の声は私に読み聞かせをしていくれていた声と同じで、名前を呼ばれる度に懐かしい気持ちになる。

でも、私は彼女に何も言えずにいた。

私の今の実態を知ったらどう思うか。

職場を追われてここにいると知ったら?

父が死んだと知ったら?

妻子ある男性と付き合っていたと知ったら?

私を、捨てて良かったと思うだろうか。

奪った女が育てたから、奪う女になったと笑うだろうか。

そう思われるのが恐ろしくて、母が何故ここで尼僧をしているのか知るのが怖くて、私はなにも言わずに彼女の下で働いているのだが、彼女は気付いているのだろうか。


楠 結花


この名前は隠さずにいるから、もし本当の母親だったら思い出しているかもしれない。

でも、何も言ってこないという事は、やはり私に幻滅しているのだろう。

私は毎日、そのことを考えながら風呂に入る。


私と同じ仕事をしている人は、私を含め8人いた。

私と結京さんと40代が2人と他は学生のアルバイト。

住み込みで働いているのは私と結京さんしか居なかった。

彼女と同じシフトになることも何度もあったけど、仕事の話しかしない。どちらともなく、距離を置いていたのかもしれない。

仕事が忙しくて助かった。

彼女と2人きりだと、うっかり口が滑って「お母さん?」と言ってしまうかもしれないから。

それに、私は今の仕事を気に入っていた。

彼女と気まずくなって、また何処かに行かないといけなくなったとしたら、もう死ぬしか道は無いと思っている。

それは、結京さんも同じだろうか。

京子さんはキャリーウーマンだったけど、私のように何かが起こってここに来て、名前を変えて過ごしているのだろう。

言及なんてしないけど、きっとそうだと思う。

私はまだ仕事をするのに一生懸命だけど、慣れてきたら沢山話しをして、私の過去とか結京さんのこれからとかを話したりしたい。

一緒に旅行とか、行けたりするかな。

私は宿泊客の部屋の掃除をしながら、そんな呑気なことを考えていた。


この仕事は1週間に2日休みがある。

休みの日は車を借りて街に買い物に出かけたり部屋に籠ったりする。

慣れてない私は基本部屋で本を読んだり寝たり過ごしていたのだけど、仕事を始めて数ヶ月もしたらそれにも飽きてきて、お寺の車を借りて街まで出かけた。

その日は、宿泊客から聞いた美味しいカフェの事で頭がいっぱいで、そのカフェまで車を飛ばした。

美味しいモンブランのお店だ。

モンブランは名前の通り山みたいに大きくてその場で絞ってくれて、上から砕けた栗をかけて完成。スポンジの中にも栗が入っていてクリームは見た目よりサッパリしているが、一緒に頼んだ蜂蜜入りの紅茶は濃かったから丁度良かった。

とても素敵なお店を知れたことに満足して、結京さんと休みが合えば連れて行ってあげたいと思った。

彼女はどんなケーキが好きだろうか。

甘いのが苦手だったらどうしよう。

あぁ、今日帰ったら話してみようかな。

私はそんなことを考えながらモンブランを平らげた。


「ただいま戻りました」


お寺の裏玄関にある下駄箱に靴を入れた時、私は停止した。


結京さんの靴がない。


今日の休みは私だけだから、結京さんは出勤してるはず。

でも無い。

お使い、かな。

そう思って自室に向かった時、彼女の部屋が空いていた。

部屋の中はもぬけの殻。

机、ベッド、棚、色々あったはずなのに何も無い。

換気のためなのか窓も開けられていて、そこから仰いだように風が流れてきた。

まるで最初から何も無かったかのように、その風が私の頬を通り抜ける。

自室に荷物を置いて台所に向かうと、奥様が居た。

いつもは奥で編み物をしている私と結京さんよりも10歳は上の人。


「ただいま戻りました」

「あら、おかえりなさい」


奥様は一瞬だけ私を見て、にこやかな顔を向けた。


「珍しいですね」

「結京さん、辞めちゃったからね」


エプロンの後ろにある紐でリボンを作ろうとしていた時、奥様は天気のことを確認するような口調で人参をリズム良く切りながら言った。


「辞めた」

「えぇ」

「今日ですか?」

「えぇ。お昼くらいに荷物をまとめて」

「な…んで」


私の声に違和感があったのか、奥様は人参を切る手をとめ、私のそばにやって来て私の手を、しわくちゃな小さい手で包んだ。


「おいで」


その手に引かれ、休憩室とよばれる6畳程の和室に入る。


奥様は氷とカルピスを入れたガラスコップを持ってきて、自分と私の前に置いた。


「彼女がここにやって来たのは、今から何十年も前のこと」


奥様は懐かしそうに寂しそうに、読み聞かせをするような小さな優しい声で話し始めた。


「髪を綺麗に束ねた美しい女の人が1人で泊まりに来たの。女の一人旅は珍しいものではなかったのだけど、彼女は観光とか何もしないで、一身に手を合わせて、ずっと御堂の中で正座をしていたわ。一泊すると彼女は帰っていった。でも1ヶ月後、彼女はまた泊まりに来た。その時も最初と同じようにずっと御堂にいたの。その次の月も、またその次の月も。ずっと。私、あまりお客様とは近くならないようにしてるんだけど、すごく気になっちゃって、聞いてみたの。観光はしないのですか?どこから来たのですか?って。そうしたら、お話をしに来ましたって言ったの。誰にも言えない事を、ここでだったら聞いてもらえるからって。彼女、仏様とお話をされていたのね。それで、もっとお話がしたいって言って、住職とお話をされて、出家を決意されたの。自分が持っていたもの、全てを捨てて、ね」


奥様は1口、カルピスを口に運んだ。

私は、コップについた水滴の流れを見ていた。


「僧侶になるための学校に半年くらい通って、その後このお寺で働いていたんだけどね、住職の知り合いのお寺、後継者が居なくてね。誰か良い人いないですかって話になって、結京さんなら、素晴らしい住職になれるんじゃないかって、彼女にお話したの。そうしたら是非にって。彼女、自分のお寺ができたのよ」

「どこに……」

「それは、教えられないわ」

「私……私は結京さんに会いたい」

「えぇ、会えばいいわ」

「だったら!」


奥様は、私が彼女の捨てた人生の一部だと知っているのだろうか。だから 教えられないのだろうか。

だったら、なんで結京さんの話を私にしたの。

声を荒らげた私を、悲しい瞳が見つめていた。その瞳から、一筋の涙を流れる。


「私が教えるべきではないもの。もし本当に貴方と結京さんの間に、誰にも切る事の出来ない紐というか繋がりがあるとしたら、例え地の底や天の端、どこにいても会えると思う。私が間に入ってしまうと、その紐は絡まってしまって余計に会えなくなるんじゃないかしら」


奥様は私を守るかのように優しく抱きしめた。

その温もりは私には熱すぎるくらいだった。


「大丈夫よ。あなた達は、大丈夫」


奥様の熱い息が私の耳をくすぐる。

私は悔しかった。

ようやく手に触れたと思ったのに、まるで結京さんの部屋に流れた風のようにすり抜けていったことが、とてつもなく虚しかった。

私はいつまでたっても追いつかない。

あの人の赤い口紅は、いつまでたっても私には似合わなくて、もう、どんな色かも忘れてしまった。

私は結京さんの顔も、もう覚えていない。


「さあ、ご飯を作りましょう」


奥様はそう言うと、勢いよく私の肩を叩いた。

そして、いつもの日常に戻るのだ。


次の休みの日、私は休みを返上して実家に帰省をした。


「ただいま」


朱里さんは私の顔を見た瞬間、とても驚いた顔をした。

そりゃそうだ。私は何も言わずに勝手に帰ってきたのだから。


「おかえりなさい」


それなのに、まるで毎日言っているかのように朱里さんは言った。


「帰ってくるなら言ってよね」

「ごめん」

「何食べる?」

「なんでも……いいよ」

「じゃあまずはケーキだね」

「え?」

「あれ?好きって言ってなかったっけ?」


言ったような。覚えていないけど、朱里さんがそういうなら、私はそれが食べたい。


「あと~ハンバーグ、ナポリタン、グラタン、じゃがいもたっぷりのポテトサラダ……」

「そんなに食べれないよ」


私がそう言うと、朱里さんは笑いながら台所に立った。そこから音程の外れたデタラメな歌が聞こえる。

その声はずっと歪で、それなのに誰よりも優しい。

私は、その声を知っている。

遠い昔、朱里さんが確かに歌っていた歌だ。

その声はいつまでも響いていて、止むことはなかった。




去年、一瞬だけ投稿した話を改良しました。

宿坊には何度か泊まりました。

泊まるのは良いですが、働くのはとても大変。

べらぼうに忙しいのです(経験談)。

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