婚約破棄劇の舞台裏で、王女は動き出す
『婚約破棄と、』のメインキャラはレイとマリアとクリスなわけで。
なぜ自分視点がないのかと王女殿下より尋ねられ()まして。
というわけで、クリス視点です。
巧遅より拙速を尊べとのことなので、少々荒い部分もありますが。
今回は完全に続編のため、未読の方はシリーズより前2作を先にお読みいただければと存じます。
私が学院に入学して少し経った頃のこと。定例の、母との二人きりでのお茶会である。
マリアを留学に推薦する意思を示した時、母上にはまず反対されたので、早速反論する。
「あら、我が国から推薦する女性留学者に、他に適任がいるというならぜひご推挙くださいな? 外務大臣の娘として多言語に通じ、王妃教育として王族たる私と同じ教育を施されてきたバスケス侯爵令嬢が最適では?」
深々とため息をついた母は頭痛を堪えるように頭に手を当てた。
「えぇなるほど。マリアが留学生として適任だと、そういう貴女の主張は理解したわ。でも、王家の都合に振り回したのに、婚約を解消してまだ振り回すつもりということかしら?」
「そう見えることは理解しています」
「見える、ね。マリアを留学に出すとして、貴女は彼女に何を望むの?」
「王女としては国益になるよう学んでくることを望むべきでしょうし、そうなるとして推薦を通すつもりですが、私個人としては特に何も」
「何も?」
「大学に行って、興味をあることを見つけてもらえれば良いなと。昔から諸外国への興味は強いようですし、大学は様々な国から人が集まるから良い刺激になれば良いかなと。……先日マリアに、お兄様との婚約が解消されたらどうしたいか聞いた時、何もないと言われたので」
王命があればなんなりと、例えそれが婚姻であろうとも、だそうですよ。
マリアの答えを伝えると、母上が天井を仰いだ。気持ちはわかる。
「まぁ、まだこれから推薦を通すまでしばらくかかるでしょうし。それまでにマリアがやりたいことを見つけられたら良いなと思っています」
「……そうね、そうなるといいわね。それはそれとして、恋敵になりそうな相手を名目つけて国外に出してしまおうとか、そう言う下心がないと言えて?」
八年くらい前にマリアがレイに道ならぬ想いを寄せていた時期があったのは近しい人間なら気づく程度には漏れていた。言葉にはしていなかったけど、服装やちょっとした振る舞いに滲んでいた。
案の定、レイは全く気がついていないようだったので、気の迷いで済ませられるうちに釘は刺した。以降、そのような素振りは見られなくなった。
「そういう側面があることも否定しないわ。でもそう言う相手を退けた経験は、母上にもあるのではないですか?」
「わたくしは国外までは送りませんでしたよ」
「つまり母上にも経験がおありではないですか」
「一令嬢が根回しするのと、王女が強権を発動するのとでは違うでしょう」
「——実のところ、それも狙いです」
「どういうことかしら」
それまで呆れ半分だった母上が居住まいを正す。
「少なくとも私とレイナルドに関することに対して、ある程度の畏怖を与えておきたいのです。それも、早めに」
「恐れられる王族になりたいと?」
「ある程度は必要でしょう。私、今現在はかなり侮られているようですし」
王位継承争いに参加しない意思を早々に示したことで、上の世代からはどうにも必要以上に軽んじられているというか、王族の中で軽く扱っても良いような印象を抱かれている節がある。
「……母上は、レイナルドの浮気を疑う噂が流れたことは覚えてますか」
お兄様の新たな婚約者候補を探すため、私とレイで手分けして国内の令嬢の話を集めていたところ、余計な勘ぐりに伴う下世話な噂が広がった。
「二年ほど前の話ね。えぇ、覚えているわ。けれど、あれはもう払拭したのではなくて?」
「私とレイもそのつもりでした。ですが、地方ではまだ十分ではなかったようです。学院に入学して、よくわかりました」
入学のため上京した子女たちから、婚約者の浮気について慰めの言葉をかけられたり、あるいは他の令息を紹介されたりして、自分達の行いでは足りなかったことを理解した。
レイは基本的に人当たりが柔らかく、相手をよく見て動くところがあるので、好意を向けられやすい。容姿も整っているので、年頃の令嬢相手だと勘違いを起こさせやすい。
おまけに、レイがそういう感情を向けられていることに疎くて、勘違いさせたことに気がついてないことがある。私が同行していればその場で対応できるけれど、彼が一人で地方に派遣されていた間などは難しい。
その辺りが相まって、情報の遅い地方では浮気の噂に拍車がかかっていたらしい。実はリオス公子の想い人は私なんじゃないか、みたいな心得違いをした令嬢が結構いたようなのである。
「私とレイでいくら否定して回ったところで、一度そういう噂が立ってしまった以上、疑いを持ち続ける者は出るでしょう。実際、レイに女性を紹介して取り入ろうとする手合いはいるようです。政治的な思惑が入ってくると、レイ自身で気がつけるようなので今のところ問題にはなっていませんが、苦手はあるようですし——なにより私が嫌です」
私たち個人としては何も問題ないのに、外野が余計な勘ぐりを入れてくる現状がとても鬱陶しい。
「ある程度力ずくでもそう言う意見を潰しておきたいと、そういうことかしら。でも、そこでマリアを今さら国外に出す意味はあるのかしら?」
「私の入学が一年遅かった分、お兄様とマリアの対立と、そんなお兄様を諌めるレイ、という構図が浸透してしまっていて、浮気の噂と相まって、マリアとレイが実は恋仲なのではないかという噂もまことしやかに囁かれていたようです」
母が分かりやすく渋面を浮かべる。
「根も葉もない、というには微妙な噂ね」
「レイやマリアの友人に確認したところ、入学当初はマリアに対してレイがある程度距離感が近く見える、という部分もあったようです。そこは互いに周囲が指摘したようで、途中から他人行儀に接するように意識したとか」
私にとっても二人はそれぞれ大事な幼馴染なので、友人として仲が良い分には問題ないし、その現れとして互いに名前で呼ぶ分には問題だと思っていなかったのだけれど、私が不在だったところで話がそう転がるとは予想外だった。
「結局お兄様が例の男爵令嬢に入れ揚げて、ますますマリアを邪険に扱っているというのも問題で。その同情もあり、リオス公子への憧れの強い令嬢たちの間で、マリアとレイの噂が肯定的に受け止められてしまっていたようです」
「なるほど、ただでさえレイを理想化しているものだから、恋物語などでありそうな話として受け止められてしまっているのね? 困った話ね」
学院の時期には夢見がちな者も多いとは言え、頭が痛いわ、と母が眉間を揉んでいる。
「一応、私が入学したことで、私とレイの関係が円満であるということは伝わっているようですし、私とマリアが友人同士であることも隠していないので、ある程度噂は下火になっているようです。ですが、一つ懸念が」
「何かしら」
「兄上とマリアの婚約が解消されたら、今はおとなしい彼らに妙な餌を与えることになるでしょう。妄想の糧にする程度ならまだしも、噂を利用して私とレイの婚約に口を出してくるようなものが現れないとは否定できません」
「流石に考えすぎではなくて?」
「『婚約者だからってリオス公子を振り回すなんてひどいです!』って直訴されたこともありましたよ、お母様」
いよいよ母が頭を抱えてしまう。
「まあそう言う訳なので、一番火種になりそうなマリアは、兄上との婚約解消が成立し次第留学に行ってもらいたいという部分は否定しません」
小さい頃は兄とマリアが王と王妃になってもらって、自分とレイは王族公爵家としての立場を得、王族として義務を果たしつつ長閑に暮らしたいと思っていた。私に兄を押し退けてまで王位を目指す積極的な理由もなければ、周囲を気にしすぎるレイには王や王配の立場は気苦労が絶えずつらいだろうと思ったから。そんな私の意思を、レイはずっと尊重し続けてくれている。
けれど、その将来設計が年々崩れつつある。この一年、学院内で起きていることの話を聞くだけで、直接介入できなかったことがどれだけもどかしかったことか。
入学したらしたで、どうにも同世代には怖がられているのか、入学直後はまともに話せそうな同級生たちからは遠巻きにされていて、寄ってくるのはどちらかといえば思い込みが強くて話が通じない手合いが多かったから、その印象を覆すところから始めざるを得なかった。
学友と呼んで良い関係性が幾人かとでも築けるようになっただけで随分前進したのだ。それで漸く、客観的な状況を把握できたといえる。
——父上に任された地方出張ばかりでほとんど出席していないはずのレイの方が学友が多いのは、どう言うことなのかしら。補い合えるという意味では良いのかもしれないけれど、ちょっと釈然としない。
「まぁマリアの様子を見つつ、まずは書類の準備と根回しを……」
* * *
そして時は流れ、約一年後。マリアの留学が正式に決定した。
マリアとの二人きりの茶会は、侍女たちに協力してもらって、なるべく気兼ねなく過ごせるようにした、マリアの慰労兼、壮行会のつもりで開いたのだけど、どうにもあれ以降マリアの言動がおかしいようで。
熱を出したままはしゃいでいる幼子のようだったわ、と母とバスケス侯爵夫人から聞いた。ついでに、暫く私が接触するのはなるべく控えるようにと。
「どう思う、モンロイ侯爵夫人?」
執務の合間。人気の少ない裏庭のガゼボで休憩しつつ、給仕をしてくれている側近に尋ねる。
一歩引いて控える彼女は、あの茶会に同席してもらった女官である。元リオス公爵令嬢——レイの実姉で、彼女が宮仕えになる前から面識もある、私にとっても姉に近い存在だ。
「先日の茶会の席では、当初は姫様がわざと幼く振る舞っていたのにつられて、マリア嬢もかなり肩の力が抜けたご様子で、昔の責務を意識していなかった頃を思い出してほしいという姫様の目論見はある程度成ったかと」
「いや、言い方」
「ただ諸々の柵が一旦解消して、重圧から解放されて、無意識に頭の螺子が飛んでいるというか。あと、昔からその傾向はありましたけど、姫様を完全に絶対視してますね」
「絶対視って?」
不穏な言葉に眉を顰める。
「天才、神童と持て囃されていたマリア嬢の鼻っ柱を、姫様がへし折ったと聞きましたよ?」
「誰から?」
「王妃殿下、バスケス侯爵夫人、他、当時を知る方々から」
指折り数え上げられても、私自身には全く覚えがないのだけれど。
「そのあたりの相乗効果か、別れ際に明らかにご様子がおかしくなりましたね。妙に気合が入っているというか。最後に言っていましたけれど」
『このマリアネラ。全身全霊を以て必ずや功績を打ち立て、この国に戻って参ります。その時は、どうかおそばに』
「あれ、多分全部本気です」
「……やっぱり? 期待している、じゃない声掛けしたほうが良かったかしら?」
「推薦した姫様が期待しないで誰が期待するんです? まあ、もう一言掛けても良かったかもしれませんね」
「……だとしても、もう今更ね。モンロイ侯爵夫人から見てもそんな感じなら、母上の言う通り私は近づかないほうが良さそうね」
「大丈夫ですよ。そろそろ愚弟が動く筈です。……おや、噂をすれば」
今休憩しているガゼボは人工的に作られた丘の上に建てられていて、絶妙に外からの視界を遮るような高さで生垣が配置されている。中から外の様子は見渡せるけれど外からは見えづらい、秀逸な構造になっている穴場である。
モンロイ侯爵夫人の言葉で生垣の上から外を見下ろせば、男女六人が庭門を潜って庭に入ってきたのが見える。
男性はレイナルドとその親友の同年の貴公子二人。
女性はマリアとその友人で騎士見習いのカルモナ伯爵令嬢、残る一人は先日のプロムで証言していた三人のうちの一人。確か子爵令嬢だったか。
名前を思い出そうとしていると、肩を叩かれる。
「行きますよ、姫様」
「え、どこに? 合流するの?」
「まさか。マリア嬢と会わないように言われているでしょう? こちらです」
モンロイ侯爵夫人に促されるままガゼボの反対側の生垣を抜けると、更に目立たないようにちょっとした空間があり、ひっそりと生垣の陰に二人掛けベンチが置かれている。
「ここは?」
「使用人用の待機場所です。ほら、こちらのベンチに掛けてください。体はガゼボの方に向くように」
こそこそと並んで座ると、生垣が薄くなっていて薄ら中の様子が窺える。
「私、王女なんだけど。こんなことして怒られない?」
「陛下と王妃殿下の御子だなと思われるだけだと思いますよ」
「……何してたのうちの両親」
以前、母自身はマリアのように従順で真面目な質ではなかったとは聞いたけれど。それで周囲に苦労をかけたと親になってから思ったので、乳母に甘やかされて既に奔放な問題児だったお兄様の婚約者に、マリアが選ばれたのだとか。
因みに私の方は、気が強くて頑固だったので、周囲との緩衝材になれるような人材としてレイが選ばれたらしい。納得の人選である。
「……来たようです」
敷石で響いていた靴音が反響を残して消えた。
レイとマリアが向かい合うようにして、その両脇に男女分かれて、ガゼボの支柱に沿って設けられた長いベンチに腰掛ける。
「話というのは何でしょうか、リオス公子」
「単刀直入に言う。最近少々浮かれすぎでは? バスケス侯爵令嬢」
冷ややかなレイの言葉と、彼の両脇に控える貴公子たちの眼差しに、マリアの微笑が消える。
「どう言う意味でしょうか?」
「推薦を下知されてから半月が経った。その間、『王女殿下の期待に応えたい、役に立ちたい』と触れ回る以外に、何を成した?」
「……仰る意味を図りかねます」
「具体例を挙げようか。俺は今期、君と同時に留学する者として、二人推薦している。何方も男ではあるけれど、一人は栽培した薬草の高品質化について、もう一人は失伝した土木建築技術の復活について、いずれも国内で学ぶだけでは足りないと、留学への熱意が高い者たちだ。推薦する時点で、彼らには『留学先で何を学ぶかの計画書』と『国内でできる限りの成果を纏めた報告書』の両方を提出してもらっている」
レイの言葉に、令嬢たちが目を見張る。私も以前、マリアの推薦の準備中にレイから話は聞いていた。同時に聞いた宰相閣下は、ここまで気合の入った留学希望者は珍しいと零していた。そこまで綿密に準備するのも、させるのも珍しいらしい。ー
「計画書は、基礎課程の二年間でどの教授の講義を選択し学ぶのかと、その後の専門課程で何年で一定の成果を出す予定かを検討して提出させた。そして報告書は、俺から関係官僚に渡して添削してもらい、推薦状と共に本人たちに返却し、留学までの期間で一層成果の検証と今後の課題を練り上げるように指示している。当然、計画書も適宜再検討を重ねて貰っている」
「そこまで……」
ザイディスへの留学は、二年の基礎課程と制限のない専門課程の二段階。卒業までは最低で三年、長ければ一生行ってしまう人もいる。
そこで私は、ふと気づいた。
——そうか、マリアが一生行ってしまう可能性もなくはない!? 国で推薦した場合は国益に貢献することが前提なのでほぼ全員がいずれは帰国するのだけれど、稀な例としてそのままザイディスに移住して成果だけを国に送ったり、或いは極めて稀だけれど他国への引き抜きに応じてしまうことがある。
だ、大丈夫よね? 何となくマリアなら帰ってくる気がしてたし、その前提で動いてしまっていたけれど。急に不安になってきた。数年離れることを考えただけでも既に寂しいのに。
「翻って、君に 問おう。バスケス侯爵令嬢の場合、留学が自身の希望ではなく王女殿下からの命である以上、彼らほど厳密に準備しろとは言わない。けれど、何年で卒業するのか、あるいは成果を出したいのか、そのためにどの授業をどう選択するか、その程度の検討はしたのか?」
「…………」
マリアは何度か口を開こうとしたけど、その度に逡巡しては閉ざしてしまう。反論したいが、できない。そんなところだろうか。
「帰国後、王女殿下の役に立ちたいと言うのも、具体的にどうするつもり? 官吏として右腕を務めるとでも? ——国内での俺の地固めは大分目処が立ってきている。三年以内に成果を出せる。相当頑張って貰わないと、ひたすら俺の後塵を拝するだけになると思うけど?」
挑発ととれるレイの言葉に、マリアが眦を吊り上げる。
「っ、仮に! 官吏として貴方に敵わなくとも、同じ女性である私だからこそできることがあるはずです! 例えば、社交界での立ち回りとか!」
「……それは、既に私が担っている役割ですね、マリアネラ嬢?」
生垣の向こうから新たな人物の声がして、訝しんで横を見れば並んで座っていたはずのモンロイ侯爵夫人がいない。
いつのまにっ!?
「現時点で私は社交界で一定の立場を築いています。これまでに積み重ねた信頼は、これから本格的にデビューする貴女が容易に得られるものではありません。また、クリスティーナ王女殿下と年齢に開きがあるからこそ、殿下ご自身とは違う立場で人脈を繋げることができ、その分幅広い世代と殿下の仲介役を務めることが可能です」
レイと同じかそれ以上に淡々としているからこそ空恐ろしく感じられる口調で、モンロイ侯爵夫人がマリアを詰めていく。反論の声は上がらない。
実際、リオス公爵令嬢であった独身時代、可憐な美貌と快活な性格で老若男女問わず惹きつける社交界の華として名高かったらしい。結婚して二児の母となった今尚、華として挙げる人もいるという。
それより、夫人のドレスが私の視界を遮ってしまって、何も見えなくなったんだけど。
「留学に行けば、それだけ国内の人脈を広げる機会は減ります。それでどうやって、この国の社交界で王女殿下のお役に立つというのです?」
「では! ……いえ、なんでもありません」
マリアは一瞬声を荒らげたけれど、すぐに萎んでしまう。
「えぇ、今更留学を辞めるなどという選択肢はあり得ませんよね。最も王女殿下の顔に泥を塗る行為ですから」
「では、私は、どうすれば……」
迷子になった子供のような、所在無げな声が聞こえる。
「バスケス侯爵令嬢、君の強みはどこだ?」
「……強み? そんなものは……」
「聞き方を変えましょう。王女殿下に、どのような点を評価されて、貴方は推薦されたのですか?」
姉弟の語調は相変わらず厳しいけれど、幾分か優しさが混じっている気がする。
強みを思い出せない、言われてもあるとさえ思えない。そこまで、マリアの自己評価は低くなっていたのか。だから、やりたいことも『無』いし、私に期待されたと思って舞い上がってしまった。
そこに気づけなかった己の愚かしさに臍を噬む。
「私は、学院での成績と、——外務大臣の娘として、多言語に通じていることを評価されたと聞いています。……そういうことですか」
私が思う、マリアの強み。母国語以外に複数の言語で読み書き堪能であり、日常会話程度ならこなせる言語はさらに増える。
そして諸外国との交流の場に出席した経験が豊富で、各国の文化風習にも通じている。バスケス侯爵夫人の補佐として、あるいは将来の王子妃として、国外からの賓客をもてなす女主人としての経験を積んでいる。
だからこそ、国内でただ傷物の令嬢として腐ってしまうのはあまりに惜しいと思った。
「大学都市ザイディスには、各国からの留学生が集まる。いずれは帰国し、母国で中枢を担うことも多い。彼らと友誼を結ぶことが期待されている。そういうことですか」
「さて、殿下の思惑については、俺が語るべきではないから。自分で考えて、今君に付き合ってくれている彼らや、家族、周りの人にもよく相談して、今後は動いたほうがいいんじゃない? ——話は終わりだ。呼び立てしてすまなかったね」
レイの言葉を受けて、何人も立ち上がり、挨拶を交わして立ち去っていく音がする。
「レイ、お前は戻らないのか?」
「姉上と話があるから、先に戻っていてよ」
「わかった」「なるべく早くこいよ!」
さらに二人分声と足音が遠ざかっていくと、生垣の向こうでどさっと重いものが落ちたような音がした。
「レイ!?」
急いで音のした方にいくと、レイが胃を抑えて前屈みになりながらベンチにへたりこんでいる。
「大丈夫!? 薬は!?」
「あるよ、大丈夫。さっきもらったばっかりだし」
レイがポケットから薬入れを取り出して、慣れた手つきで丸薬を取り出すと呷るように飲み込む。その間、なるべく早く痛みが和らぐように、ずっと背中をさする。
「この間も処方されてなかった? もう飲みきったの?」
「ううん。財務関連の用事で診療室に寄ったら、俺の顔を見た瞬間に『こんにちはリオス公子! 胃薬ですか?』って言われて、違うって言ったのに用事済ませて帰る頃には薬が準備されてた」
まだ手持ちあるんだけど、と切ない声で嘆かれてしまう。衝動的に、彼の頭を胸元に抱き込んでよしよしと撫でる。
「それだけ、レイがみんなに案じられてるってことよ」
「俺っていうか、俺の胃というか、ね。まぁ、うん、前向きに受け取っておくようにする」
そっと体重を預けられたのか、ずっしりとした重みがかかる。それが愛おしくて、嬉しくて。汗のせいかほんのり湿った彼の髪を指先でいじる。
「御取り込み中失礼致します。水を持ってきましたよ」
「ありがとうございます、姉上」
いつの間にやら、モンロイ侯爵夫人が水差しを持って待っていた。名残惜しい気持ちもありつつレイから離れる。
レイはごくごくと水を一気に飲み干すと、長く息を吐き出した。
「落ち着いた?」
「うん、なんとか」
「慣れないことをするからですよ、愚弟」
弟から水差しを受け取った夫人が辛辣に言い放つ。
「厳しい物言いは貴方の友人のバーモンデ卿のほうが得意なのだから、任せればよかったでしょう」
「それ、本人にも言われましたけど。確かに俺は苦手ですけど、できないのとできるけどやらないのは違うでしょう」
俺の胃への負担が大きいのはよくわかりました、とレイは胃をさする。
「人に頼るのも必要ですよ。長所なのだから、きちんと活かしなさいな」
「ですねぇ。今後要検討です」
先刻までの様子が嘘のように穏やかな空気に、ぽつりとつぶやいてしまう。
「二人に聞いてほしいことがあるの。——聞いてくれる?」
二人の顔を順にじっと見ると、一瞬驚いた顔をしていた彼らは同時にそっくりな笑みを浮かべる。
「伺いましょう」
「クリス、こっちへどうぞ」
レイが一人分奥に詰めると、空いた場所に手巾を広げて呼び寄せてくれる。私が座るのを待って、モンロイ侯爵夫人も斜めの位置に腰掛けた。
どう話そうかしばらく迷って、結局、一番最初に浮かんだ言葉がこぼれ落ちた。
「私ね、マリアのこと、まず第一に対等な友人だと思っていたの。でもきっと、マリアはそうじゃなかったのね」
膝の上に置いた手に、つい力が入る。握り締めそうになった瞬間、レイがそっと手を繋いでくれる。
「私にとって、唯一、対等に話せる同性の友たちがマリアだったの」
だから、他の令嬢がレイに想いを寄せていると聞いても顧慮しなかったけど、マリアだけは別だった。レイの想いが自分にあると解っていても、どうしても不安が拭い切れなくて、全力で威嚇していたのも多分そのせい。
「例えお兄様とマリアの婚約が解消されて、マリアと家族になることはなくなっても、私的な場では互いに名前で呼び合っていたし、関係が変わることはないと思っていたの」
王子妃にならないことで、友人のマリアが軽んじられないように。他の意味を含めても、留学は都合が良かった。語学堪能なマリアなら、留学先で成果を出すなんて容易いだろうと楽観視していた。そうすれば、また何の問題もなく一緒に居られると、居てほしいと、無邪気にそう考えていた。
だけど、状況は変わってしまっていた。
私は兄上を蹴落として王位継承権一位となった。
そんな私を、マリアはきっと、第一に主と定めてしまったのだろう。
私自身気づいていないまま、マリアへの期待はいずれ王位継承から外れる王女の期待という軽いものではなく、次期女王からの期待という重圧へと変化した。
多分、そう受け取られてしまった。
そのすれ違いに気づかずにいたから、今回の件に発展した。
「楽観的に過ぎたという意味では、私も浮かれていたのね。——マリアは、大丈夫かしら」
変わらなければならない。良くも、悪くも。
奥歯を噛み締めていた私の耳に、さあ? と軽やかな声が重なって届いた。
「あとはマリア次第だと思うよ。俺としては、俺が推薦した二人から届いていた陳情は伝えたから、これ以上干渉する気はないし」
「あれで理解できないというなら、うちの娘にするように懇切丁寧に言い聞かせるだけです」
「姉上のとこの娘って、まだ一歳じゃ……。息子ならまだしも」
「愚弟?」
「うん、頑張れマリア。俺には祈ることしかできない」
夫人の鋭い眼光に、レイは両手を上げて降参の意を示す。
「愚弟、貴方そもそも、辺境へ移送する元王子殿下達に同行して、また王都を離れるのでしょう? その準備が優先でしょう」
「そうですね。前倒しして今月末には出発すると先ほど陛下から伺いました」
なんてことなく続けられた姉弟の会話に、考え事が全部吹き飛んだ。
「今月末!? もうすぐじゃない。予定では、学院の新学期が始まってからの出発だったでしょう?」
暫くはゆっくり一緒に居られると思ったのに。
「うん。けど、彼らの反省が見られないってことで、早めに辺境に送って鍛え直したほうがいいんじゃないかって提案があったって話」
兄上とその友人たち、すなわち今回自らの婚約者を蔑ろにして一人の男爵令嬢に入れ揚げた彼らは、各々廃嫡され謹慎処分となっていた。そして、矯正のために北東部の国境基地に新人一兵卒として送る、というのが最終的な処分として決められた。
原因となった男爵令嬢の方は、調査の結果悪意を持ってマリアを貶めたと判断され、処罰として先んじて戒律の厳しいことで有名な西部の修道院に送られている。
「そもそも、どうして兄上たちを送るのにレイが同行することになったの?」
「いざという時に、遠慮なく実力行使するためかな? まあ道中順調だったとしても、着いたら多分三対三で模擬戦かな。——久しぶりに、全力で喧嘩してくる」
レイの低い野趣の滲む声と表情に、ぞくりと粟立つ。
「でもレイ、兄上とは剣術の実力差が開いたから直接の手合わせを止めたのではないの? 大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。体格差があったあの頃ならともかく、今はうつつを抜かして授業も鍛錬も何もかも投げ出していた奴には負けられないよ。何より、今回は団体戦だしね」
心配しないで、と言われるがそれは無理な相談だ。
「大怪我はしないでね?」
「それは、もちろん」
レイがいつもの緩やかな笑みに戻ったことで、そっと息を吐く。男らしい表情は見慣れない分、心臓に悪い。
「愚弟、なにか隠していませんか? あれらが反省していない程度で、予定が前倒しになるとは思えません。今日の陛下直々の呼び出しといい、なにかあったのでは?」
率直なモンロイ侯爵夫人の疑問に、レイが煮え切らない表情で頬を掻く。
「今日その話の前に、今更プロムの場でのファーストダンスでの振る舞いについて小言を言われたから、予定が急に早まったのは多分あれの意趣返し的な部分もある、のかもしれません」
む。浮かんだ苛立ちそのままに、繋いだままの手をぎゅっと握りなおす。
「半月以上経って蒸し返すなんて、どう考えてもそうでしょう。まったく、父上ったら……」
レイと私の婚約を決めた本人の癖に、ちょくちょくレイを地方任務に行かせて引き離そうとするのだ。
あれ、もしかして思考回路親子……。気付きたくなかった。
「滞在期間は?」
「そこは変わらず、三ヶ月くらいの予定。だからまぁ、戻ってくる頃にはクリスはもう学院だね」
レイは残念、と軽く苦笑するけど、私は大分不服だ。
「折角、王都で話題の場所を色々聞いたのに……。一緒に行きたかった」
一年かけてようやく雑談ができるくらいまで打ち解けた何人かから、今恋人と行きたい話題の場所なるものを教えてもらったのだ。
「……そっか。じゃあ、頑張って最速で仕事片付けてこないとね」
ゆるりと手を解かれたと思ったら、小指同士を絡めるように繋ぎ直される。
「レイ?」
「なるべく早く都合つけて、連絡するから。クリスがどこに案内してくれるか、楽しみにしてるね?」
約束、という言葉に漸く理解が追いつく。
「えぇ、任せておいて」
指切りを終えると、レイが立ち上がった。
「じゃ、またね」
爽やかな笑顔を残して去っていってしまう。少しして、何事か話している声が聞こえた。どうやら、遅いと迎えが来ていたらしい。
「私たちも戻りましょうか」
モンロイ侯爵夫人に声をかけて立ち上がり、ガゼボの外に出る。
「姫様、こちらはどうされますか?」
少し遅れて来た夫人の手には、見覚えのある手巾が。
「あ、レイの。忘れてたわ、ありがとう。後日返しにいきましょうか」
そういえば座席に敷いてくれていたのだった。
「お気になさらず。では、洗濯させておきますね」
「よろしくね。せっかくだし、何か差し入れも準備しておこうかしら。その手配もお願いできる?」
「かしこまりました」
未来のことを考えると色々頭の痛いことはあるけれど、とりあえず直近で楽しみな予定ができたのは朗報だ。
「さて、私も頑張らないと」
ネジ飛んで浮かれてやらかしたのは作者も黒歴史。頑張れマリア
本編に入り切らなかった設定
モンロイ侯爵夫人:レイナルドの実姉。年子の兄二人と三人で競い合いながら成長し、十歳近く離れた弟に英才と書いてスパルタと読む教育を施した人。彼女の息子(六歳)も絶賛英才教育の真っ只中で、たまに遊びにくる叔父に励ましてもらいながら頑張っている。娘(一歳)はそろそろ本格的な教育を始めようかと準備中。
全体的に細かい年齢は考えていないですが、主人公組が一六〜十八歳、マリアの兄は二〜三歳差なので二十歳前後くらい、夫人は三十手前くらいで考えています。ベースが見切り発車な分深く考えると矛盾するかもなのでふわっとでお願いします。