リーンの価値――それはまるで
膂力はファンテの方が上だった。
グロフは後方に引き倒された。ファンテはしゃがみ込み、リーンの怪我の状況を瞬時に見極める。
右肩の矢。ここで引き抜くと大量に出血するだろう。取り敢えずだいたいの長さで折り、ファンテは腰のポーチから包帯を出した。止血の意味もあって幾らかきつめに縛る。
「――見上げたものだな」
ファンテが振り返ると、身体を起こしたグロフと広間に殺到してきた敵兵達が見えた。睨み合う。
「その娘を渡せ、危険な存在だ」
ファンテが答えないでいると、グロフは言い募った。
「ここで逃げても同じである。我らは勢力を拡大し続け、いつか必ずお前をまた捕らえ、きっと殺す」
――これも、リーンの価値って奴か。
きっと、世界中に歌が広まれば世界新党なんて誰も歯牙にかけなくなるだろう。
――だってそうだろ? 歌の方がいいに決まってるじゃないか。
ファンテは確信している。
「怖いの?」ファンテの背後、ふらふらとリーンが立ち上がる。
「歌が、そんなに」
軽く息を吸い込み、敵兵全ての耳に瞬時に狙いを定めた。狙いを付けた鼓膜を刺すように、彼女は音の攻撃を飛ばす。
それはまるで魔法。
広間にいたグロフを除く敵兵全てが意識をなくし、膝から崩れ落ちた。彼らの鎧が石の床を打つ音が何重にも響き渡る。
舌打ちするグロフ、地を蹴るファンテ。
刹那より短い時間だ。美貌の戦士はグロフの背後に回り、その腕をねじり上げた。
たまらず膝を屈するグロフ。苦しげに声を張り上げる。
「分からんのか? その娘の歌は世界を変えてしまうんだぞ! 人は歌などに現を抜かさず、もっと高潔たらねばならんのだ! その為に我らは――」
「あんた達の事情なんて、私は知らないよ」
リーンは男を、真っ直ぐに見下ろした。
「私は、歌が好きで、歌うことが楽しくて、歌しかなくて、みんなの笑顔が見たくて」
胸に左手を当てるリーン。
眼を閉じた。
「だから歌うんだ。それ以外に、ないよ」
歌声が、響き渡る。
周囲に静寂が訪れた。更なる増援の兵士が広間に踏み込んできたが、歌を耳にした彼らはその身に石を流し込まれたように動きを止める。
皆、リーンから発せられる音に息を呑んだ。
――リーン、お前は、本当に人なのか。
聞き慣れているはずのファンテもその歌に心をとらわれた。壁際、開口部から差し込む緑の月明かりが彼女を背後から照らし、幻想の後光が射す。
ああ、女神様――敵兵の口々から言葉が漏れた。次々に膝をつき、恍惚の表情でリーンを見た。
歌声は尚も続く。リーンに歌の女神の宿るが如く。
「駄目だ駄目だ! 止めろ! 止めるんだ!」
グロフの絶叫が歌声を打ち破り、敵の兵士達が我に返る。
「聞くんじゃない! ええいお前達、何をしておるか! さっさとこ奴らを捕らえぬかっ!」
ファンテはグロフを拘束したまま、跪く敵兵達に向き直った。彼らは戸惑った顔で頭目を見ていた。
――さすがに、まずいか?
手持ちの剣はさっきなくしてしまった。彼らが理性を取り戻し、大人数でかかられては対処が難しい。
――とうする、一旦グロフを手放すか。
ファンテの考えを余所に依然、敵兵達は動かない。時を置かず胸の前で両手を組み合わせ、祈るような仕草を見せた。
「お前達、何を……?」驚愕のグロフ。
「女神様に剣を向けるなど、我らには到底出来ぬこと」誰かが厳めしく奏上した。
ファンテは苦笑した。
「だ、そうだぞ、どうする?」
おのれ、とか、よくも、とか、グロフはもごもごと悪態をついたが、反抗する力は失われていくようだった。
「大将、無事か!」
冒険者達の声だ。ただ、広間には気絶している大量の敵兵と、今しがたリーンに恭順した部隊が溜まっており中には入れない。敵兵の背後から大声がするのみだ。
ふと、ファンテは思い付く。軽く咳払いをした。
「リーン。敵兵にここから出るように言ってくれないか」
「え、私が? 何で?」
「いいから、やってみてくれ」
リーンは言われた通り、「あの、ここから出て行って下さいます……か?」
恐る恐る告げる。彼らは立ち上がり深々とした一礼のあと素直に退室し、冒険者達に場所を譲った。きょとんとするリーン。ファンテはたまらず、声を上げて笑った。
「どうやら片は付いたみたいですな」駆け寄る一人の冒険者。
「何とかな。外の様子はどうだ」
報告によれば外の敵はちりぢりになったようだ。冒険者達の二つの部隊は適当に戦闘しつつも休むことなく移動を続け、彼らを疲弊させた。日頃から鍛えている冒険者達の体力がものを言った形だ。世界新党の兵士達は所詮、寄せ集めだ。統率が甘く、体力も、練度も低かったのだろう。
「で、こいつが頭目ですかい」
グロフは冒険者達に取り囲まれ、憮然とする。
「おい、いちおう言っておくが、お前は街での争乱を主導しただけでなく、数々の破壊活動の疑いでとっくにお尋ね者だからな」
ファンテは冒険者が渡した縄でグロフを縛り上げた。
「覚悟しておけ、何年かは娑婆の空気とおさらばだぞ」
世界新党の頭目は口をきかず、項垂れるのみだった。