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微熱の月(2)


「国王陛下、お嬢様がお部屋に来て欲しいとのおおせです」


 軍議の後、夜のかなり更けた時間にティアの使いらしいメイドが俺の部屋に来た。


「意外と遅かったな」


「申し訳ありません。お嬢様には色々と準備が必要でしたので」


 そう言って頭を垂れたメイドは三十台前後の黒く長い髪の女性で、灰色のフード付きケープを羽織っていた。

 彼女の服装を見る限りどうやら廊下は寒いらしい。そう判断して俺は部屋から金の留め金のついたマントを引っ張り出して身に着けるとメイドに付いて部屋を出る。

 廊下は想定通り寒くて暗く、メイドの持つ蝋燭だけが唯一の暖かそうな光を放っていた。道中窓から外を覗いてみると、部屋はどれも灯りが落とされているのでどうやら既に館の人間はほとんどが寝てしまったらしい。時計が無いからわからないがやはり相当遅い時間のようだ。

 右目からくる頭痛は先程は本当に酷かったのだが一定の波があるらしく、今は軽い頭痛程度で済んでいた。


「そうそう、失念しておりました。国王陛下」


 メイドが振り返って話しかけてきた。……何故彼女はこんなに生暖かい目線を送ってくるのだろう?


「陛下とお嬢様には不要かと思いましたが、一応お部屋に重曹じゅうそう菜種油なたねあぶらを用意させました。一緒にして袋に入れてありますから、ご使用の際は"事後に"水差しに注いでよくかき混ぜてお使いください」


「重曹? 油? あの、言ってる事がよくわからないんだけど……」


 水と混ぜるらしいが飲み物とは到底思えない。

 一体何に使うんだ?


「使い方はお嬢様がご存知です。……もっとも、私どもは一日も早いお世継ぎの誕生をお待ちしておりますので、できれば使わずに……いえ、差し出がましいことを申しました」


 メイドはそれだけ言うと、もう一度生暖かい目線を送ってから先に進んだ。

 ……一体なんだっていうんだ。

 使用人は使って欲しく無いと言うが、そもそも重曹と油なんて何に――


(……あれ? お世継ぎ?)


 この人さっきお世継ぎって言った?

 あの、メイドさん? ナニか勘違いしてませんか?


(そういえば聞いたことがあるぞ……)


 この二つの混ぜ物の使い道に思い至りコメカミから冷や汗が滑り落ちた。そうだ、この組み合わせ……現代では使われないが、古代では避妊の民間療法として効果があると信じられていたのだ。


「……あの、言いにくいんだけど、ひょっとしてあなた達は――」


 恐る恐る話しかける。


「そちらもご心配ありません、陛下。お嬢様の部屋がある4階は人払いを済ませてあります。今宵は少々激しくても誰にも聞こえませんし、途中で我々使用人がお邪魔することもありません。既にリグレッタ様やアンキシェッタ様は一階の部屋でお休みになられたのを確認いたしましたから、ドアと窓さえ閉めておけば大声を出しても気付かれないでしょう」


「気を回しすぎだ!!」


 あまりに周到なお膳立てに思わずツッコミに回ってしまった。


「シィーッ、ここはまだ廊下ですからお二方を起こしてしまいますよ。なんでも魔術師の方というのはとんでもなく耳が良いらしいじゃないですか」


「いや、だから誤解しているみたいなんだけど、俺は別に今夜ティアとナニしに行くつもりってわけじゃなくてだね」


 なんとか弁解しようと数歩先を行くメイドを呼び止める。だが


「着きましてございます、国王陛下。では今宵はお嬢様とご、ゆ、る、り、と、お楽しみください」


「あの、人の話を………………」


「失礼いたします」


 いや、話を聞けよ。

 四階のほぼ真ん中。おそらくはティアの居室であろう部屋の前でメイドは一礼して去っていった。

 勿論、最後に振り返って生暖かい目線を送るのを忘れずに。


「え~~……何なのあの人……」


 薄暗く寒い廊下に残された俺は途方にくれて目の前の扉を見上げる。ティアの部屋のドアは紫檀製の両開きの物で他の部屋に比べてやや大きく、部屋の主以外の人間を拒絶しているような印象を受けた。


(どうしよう、入りにくい……)


 女性の部屋をしかもこんな夜中に訪れるという初めてのシチュに俺は完全にビビッていた。

 しばらく獲物の匂いを探る警察犬のように部屋の前をウロウロするが、それで助けが来るはずも無い。しかもメイドが唯一の光源である蝋燭を持って行ったせいで辺りは真っ暗だし、夜の冷気は上等のマントすらすり抜けて皮膚に突き刺さった。

 このままここにいても余計に分が悪くなるだけだ。

 俺は大きく深呼吸して気を落ち着かせると意を決して扉に向かった。


――コンコンッ


「……シュージか?」


「ああ、俺だ」


「待てよ……いいぞ。入れ」


 許可を貰った俺は観音開きに扉を開ける。途端に部屋の中から周囲の冷気を吹き飛ばす暖かい風が吹き出す。

 ティアの部屋は強めに暖房が効いた豪勢な部屋で、確かにベッドが広かった。五人は同時に横になれそうな天蓋付のベッドは垂らされた絹布にはあらゆる色の宝石が散りばめられ室内の明かりを七色に反射させていたし、部屋のアチコチに配置されたソファやテーブルセットはエボニーやカエデに丁寧な彫刻を施された最高級の品だ。

 一方部屋の主であるティアは白いブラウスと乗馬に使うような黒いキュロットズボンといった出で立ちでソファの一つに寝そべっていた。どうやらついさっきまで風呂に入っていたらしくブラウスは肌に張り付いて薄く肌の色を見せていたし、丁寧に香油をすりこまれてツヤツヤと黒く光る髪はシニヨンに纏められて普段は見えないうなじをあらわにしていた。

 不意打ちに近い艶やかさにおもわずう~むと唸ってしまったほどだ。


(風呂上りの女の子って……無条件でエロイな)


「ようこそ、我が居室へ」


「お、お邪魔します!」


 クソッ。俺は何を期待しているんだ。

 汗をかき始めたのは緊張のせいか、それとも気温のせいか。

 俺は羽織っていたマントを外しコート掛けに引っ掛けて、ティアが顎で示した向かいのソファに座った。 


「どうだ、なかなかいい部屋だろう? といっても私もここに帰るのは久しぶりなのだが」


「ああ。屋敷といい、この部屋といい、エイブラムス家はすごいな。王城レオスなんかよりずっと王宮みたいじゃないか」


 というかレオスの城が無骨すぎる。あの城は確かに頑丈そうではあるが、隙間風の入ってくる全面石材剥き出しの内装に、高低差がキツイ上に狭くて迷いやすい構造の廊下と王の居城にしては明らかに居住性への配慮に欠けていた。


「うん……? ああ。そうか、お前は南部の都市以外は王城レオスしか知らないのだったな」


 ティアが思案しあんげに言った。


「住みづらいのは無理も無い。王城レオスは元々戦闘用の城砦だからな。建築された当初は最前線の単なる軍事基地だったのだが、30年前にキスレヴとの緊張が高まったときに王が何年も常駐しなければいけなかったので無理矢理に城下町を首都にしたのだ。お前の直轄地で壮麗な建物というなら旧首都ライオネルに獅子宮殿があるが……いや、あれも駄目だな。あれを建てたのはトルゴレオ人だ。我々の民族には全く建築センスが無い。もしお前が新しく宮殿を建てようと思ったなら別の国から職人を呼んだほうがいいぞ」


「自分の民族をそこまで言うか……」


 それにしても……王城のあの最悪の居住性にはそんな理由があったのか。

 この前までは「不便だけどここは中世の世界だし、アレで精一杯立派な建物なんだろうな~」なんて思って我慢してきたが、上があるのなら話は違う。俺が玉座に戻った暁にはなんとしても新居に引っ越してやる!


「マイホームならぬマイ宮殿! ……なんかやる気出てきた!」


 というかそもそも東西に長い国家なのに首都がほぼ最東端にあるってどうなのよ。交通は不便で人口も少ないし敵国であるキスレヴの国境まで徒歩で2日圏内。一応警戒のために国境に小さな野良城をおいてあるらしいが、それでも安心することはできない。


「いっそ首都移転もいいかもな。川も海も無いあの立地じゃあ、いつかは物流が滞って経済は頭打ちだし……将来的には鉄道も引きたいから、なるべく海に近い平地に建てるとして……」


 と、早速頭の中で都市計画を練っていると、ティアはおもむろに立ち上がって傍にあったラックから茶色のボトルと二つの銀椀ゴブレットを取り出した。彼女は銀椀の片方を俺に渡しながら、今まで寝そべっていたソファを素通りして今度は俺の隣に陣取った。


「まあそれは総て終わってから考えるとしてだ。シュージ、喉が渇いてこないか? どうも部屋を暖め過ぎたようだ」


「それって……お酒?」


「ああ、親父殿が大事に仕舞っていた酒だ。おそらく高級品だろうが……さて、どんなものだろうな?」


 そういってティアがボトルを差し出すが……いや、字が読めないのでボトルの刻印の内容はさっぱり分からない。

 ただ近くで見るとボトル、というかガラスの質感が俺の知っているガラスとずいぶん違うので驚いた。なんというかずいぶんと軽くて柔らかい。しかも不透明でザラザラしていた。


(――石灰ガラスって奴か)


 俺達が現代で使っている硬くて透明度の高いガラスは鉛を使った鉛ガラス。人類がその水晶クリスタルのようなガラスを開発するまで1000年間作られていたのがこの石灰ガラスだ。うろ覚えだが確かそんな風に世界史の教師が言っていたような気がする。

 字を読めない事を知っているティアは熱心にボトルを眺めた俺を不思議そうに見ていた。


「ずいぶん興味深そうだがシュージは酒に詳しいのか?」


「いや、この間クリクスでビールを飲んだのが初めてだよ。俺のいた国では酒は20歳まで飲んではいけないことになっている」


「そうか。いや、私もまれに飲む程度だ」


「へぇ……じゃあ今日はなんでお酒を?」


「そ、それは……、その、その方が話が弾むと思ったし。それに…………ゴニョゴニョ……酔っていた方が痛くないって侍女が…………」


「なんだって?」


 ティアの言葉尻ことばじりは声が小さくてよく聞こえなかった。

 どうにか聞き取ろうとするもティアは真っ赤になってうつむいている。


(そういえば、エンロームもウェイバーも平常心を失うとこんな風になってたなー)


 遺伝する性質たちなのかもしれない。


「だから……その……」


「その?」


「その……………………あ~~~~!! もういい! 何でもない! 全く……なんで私だけこんなに緊張せねばならんのだ」


「今度は何を怒ってるんだよ……」


 笑ったと思ったらはにかんで、はにかんだと思ったら今度は怒り始めた。精神科医に見せたら躁鬱と診断されそうな変貌振りだった。


(あれ? ひょっとしてようやくいつものティアに戻ったのか?)


 思えばエンロームの件があってからティアはどこと無く変だった。いつになく俺の方へ擦り寄ってきたし、やたらと世話を焼いたり甘い声を出したりと普段のキャラとはずいぶん違う行動を取っていたのだ。さっきまではその理由は父親の件についてのショックだと思っていたが……どうも違ったようだ。


「いいから、飲むぞ! 酌をしてやるからほらっ、とっとと椀を持て!」


 ティアは吼えるようにがなりたてると栓を開けたボトルを傾けて二つの銀椀に酒を注ぐ。

 酒は透明で、注いだ瞬間に立ち上った強烈なアルコールの臭いに鼻を刺激され、俺は思わず怯んだ。どうやら相当に度数の高い蒸留酒のようだ。


「は、鼻がツ~ンって……!! こ、こんなの飲んで大丈夫なのか!?」


「さあ? 酒は酒だろう?」


 ティアから椀を受け取って試しに口に含んでみる。


「ぐあっ! きっつい!」


 たった一舐めなのに舌が火で炙られたかのように熱い。火は口内と喉を焼いてなお治まらず、胃まで落ちてしばらくくすぶってから体全体に拡散するようにしてようやく収まる。

 明らかに以前飲んだビールとは別次元の飲み物だった。


「ふむ。まるで火を飲んでいるようだな。最近はこんなに強い酒が作れるようになっていたのか……」


 一方ティアは少し顔を顰めはしたものの、すぐに2くち、3口と椀を傾けあっという間にこの劇物を飲み干す。

 ……なんというか女のくせに飲みっぷりが男らしい。

 俺はボトルを手に取ると空になった彼女の椀に新たに酒を注いだ。ティアは酒を注がれるとすぐに口をつけて喉を鳴らし始めた。


「よくそんな風にゴクゴク飲めるな……」


「ふふん。所詮は酒さ。戦いで受ける怪我に比べればニャんてことはニャ……なんてことはない」


「呂律が回ってない……」


 ……本当にこのまま飲んで大丈夫なのだろうか?

 しかしこのまま彼女だけに飲ませていては男がすたる。せめてティアの半分くらいは飲まなくては。


「んぐっ、んぐっ」


 早く済ませてしまおうと今度はさっきよりも勢いよく飲み干すが、俺にとって蒸留酒はまるで冷めない溶岩そのものだった。舐めるごとに舌は痺れて味を失い、喉からは絶えず炎が噴き出そうになる。胃の灼熱感も最初はすぐに消えていたのに飲み続けるうちに段々としぶとく、そして熱を増していた。

 体に受け入れた溶岩は血管を巡り、その熱で容赦なく体を炙りたて汗を噴き出させる。汗を吸った服は皮膚に張りついて、顔から出た汗は滴って絨毯に落ち始める。部屋に入ってまだ20分しか経っていない。にも関わらず、俺の酒量は既に限界だった。


――大人って奴は……こんなん飲んで何が楽しいんだ!


「暑いな……酒という奴がまさかこれほどとは」


 6杯目を飲み干したティアが手でパタパタと胸元に空気を送りながら言った。既にティアはブラウスの前を開いており、その肌はかなり危ういところまで晒されている。


「シュージ、お前も上着くらい脱いだらどうだ? どうせしばらくは汗はひかないぞ」


「勘弁してくれ……」


 酔いのせいかすでに視線はティアの胸元に釘付けになって離れない。

 ティアの挑発するような視線に気が付くたびになんとか首を明後日の方角へ向けるのだが、どれだけ努力をしてもいつの間にか目線が彼女の方へ戻っているのだ。おかげでさっきから居心地が悪いことこの上無い。

 よく見たらティアの段々と目も虚ろになってきているような……。早く本題に入ったほうがいいかもしれん。


「なあ、ティア。そろそろさっき話していたアテについて教えてくれないか? 今はまだ楽だけど頭痛がブリ返しそうなんだ」


「うん? ……んん。ああ、そうだそうだ。そのためにお前をここに呼んだのだったな」


 ティアの瞳に若干の理性が戻る。彼女は何度か首を振って酔いを飛ばすとキチンとソファに座りなおした。


「そうだな……まずはシュージ、お前が置かれている現状についてだ。親父殿が言うには、お前のその右目はメディエイターの魔法によって人間の根源である心魂――まあ平たく言えば心だ――に直接繋がっているらしい」


「はあ……心、ねえ……」


 言われて部屋にあった化粧台の鏡を見る。魔法を使う時は眩しい程に光る右目の三日月も今はボンヤリと申し訳程度の光を放っているに過ぎない。ひょっとしてこの光の強さが自分の心をあらわしているのだろうか?


「心というのは本来なら脳の機能たる理性と精神から生み出される"意志"によって保護されている。だから外部から直接影響されるということは滅多に無いのだが、お前の場合はその目によって心が直接外気に晒されているせいで他人の"意志"の影響を非常に受けやすくなっているんだ。つまり――<シュージ、上着を脱いでもっと近寄れ>」


 ティアは会話の流れを断ち切ってそう言うと自分の左側をポンポンと叩いた。

 俺は言われた通りに上着を脱いで、腰を浮かせてティアの至近まで移動する。ほぼ無意識の動作だった。


「あっ……」


「とまあ油断していればさっきまで忌避していたことでも、こんな風に人の頼みごとや命令を容易く受け入れてしまうということだ。そして普通よりも強力に意志を込めた"意志の言葉"を使えばそれはより顕著になる。親父殿はメディエイターの宝剣フロレスによってパスを貰い、不完全ながらも魔術師のように怨念の"意志"を込めた言葉でお前をのろうことで"意志の言葉"を矢のようにしてお前の心を直接傷つけたのだ。私はこれから怨嗟を中和する"意志の言葉"をかけることでお前の心の傷を癒す」


「なるほど。――さっぱりわからん」


 ティアの説明は一つ一つに対しては理解できるし納得もできるのだが、酔っているせいでそれらの論理が結びつかない。どうやらこの治療が思ったより大事になりそうだという予感はあるのだが……それよりも俺の意識はすっかり彼女の匂いや体温に奪われている。彼女に言われて隣に座ったせいでほとんど肩が触れそうな位に近づいているのだ。

 ティアは見るからに肩を落としたが、すぐに何かを決心するとグイッとかなり顔を近付けて説明を再開した。


「要するに――あんな油くさい中年の言葉がお前に届いて、私の言葉がお前に届かぬはずが無い、ということだ」


「ちょ、近い……」


 ティアに迫られて汗で濡れた肌同士がペットリとくっつく。薄布越しでも熱くて柔らかい肌の密着感がしっかりと伝わって、ただでさえ曖昧だった俺の理性を余計に心許こころもとない物にさせた。

 これはまずい。

 ありったけの理性を振り絞り少しだけ正気に戻った俺は腰を浮かせて再び距離を取ろうとするが、その前にティアが意志を集めて言葉を放った。


「<抵抗するな。黙って身をゆだねろ>」


 たったの二言。それだけで意識我落ちるように力が抜けて人形のようにぐったりとする。体の自由を失った俺をティアはまるで子供をあやす母親のように抱きしめた。


(あ……なんか落ち着く)


 丁度頭が胸の間に挟まる格好となり、彼女のドッドッドッという規則的な心臓の鼓動が耳朶を打つ。呼吸が鼓動の音に合わせて段々と浅くなり、まるで催眠状態に陥ったかのように意識がぼんやりとしてきた。

 より強くその音を聞こうと細い腰に手を回すと、意図を察したティアがより強く俺を引き寄せる。

 彼女の体温と鼓動とアルコールの相乗効果が思考が痺れさせたせいで、俺は自分の中の何もかも徐々に退行していき、精神はゆっくりと赤ん坊のように無防備になっていくのを感じた。


(甘い匂いがする……)


「なあシュージ。私はこんなことをするぐらいお前が好きだよ。昨日まではずっと曖昧だったけどな。今日あんなことがあってようやく気付くことができた。私はお前を愛しているんだよ」


 言葉は言の葉ではなくそのままの意味として心に染み込んでいく。まるで暖かい軟膏を塗るかのように、傷ついてささくれ立っていた心が癒されていくのを感じた。


「私には魔術師になった時からある予感があった。私が将来好きになる男はきっと恐ろしく困難な状況でもなお勇気を振り絞って私の危機を救ってくれる男だと。早い話が勇者か、でなければ白馬の騎士が自分の伴侶になると思っていたんだ。だから私は幼い頃から戦に危機を求めたし、つまらないことで危機に陥らないよう自分を鍛え続けてきた。戦場に出る度、騎士や山賊と殺しあう度にひょっとして今日こそは自分の理想の男性に会えるのではないかと期待もしていた。だがな、シュージ。お前が囚われの身だった私を助けてくれたあの時、私はお前こそが運命の人だと理解すると同時に少し肩透かしを食らったようにも感じていた」


 戦闘狂、猪武者。リグレッタから散々に言われていたティアだったが彼女は決して人殺しが好きな訳ではなかった。運命の人に会えるはずの究極の危機が訪れる機会を求めて常にその身を戦に晒し続けていたのだ。

 それにしても、ティアを助けた時でなければ俺は一体いつ彼女の琴線に触れたのだろう?


「お前はあの時、確かに勇気を示してくれた。私を救うのに命を懸けてくれた。それは間違いなく勇気ある行いだ。しかしそれでは駄目だったんだ。物足りないんだよ。だってそうだろう? 私はお前に会うために今まで何度だって命を張ってきた。まだ見ぬ運命の人のために美しくなるあらゆる努力を払ってきたし、お前以外にも命知らずの求婚者というのは腐るほど居たんだ。実際、あの時捕まったのだってお前のためであって結局はプラスマイナスゼロでしかなかった」


 彼女の言葉の意味を理解して、急に怖くなった。幼児が母親に怒られるのを恐れるように体がギュッと縮こまる。


(そうだ。ティアの言うとおりじゃないか)


 俺は今まで普通の人生を送ってきた。努力など何一つしていないし、その程度の命をたった一度賭けた所で何を思い上がっていたのか。

 

(怖い)


 誰かに殺されることよりも今ここでティアに自分を否定されてしまうかもしれないと考えると、全てが恐ろしくなる。

 しかしその衝動はすぐにティアの言葉が届ける暖かい"意志"によってかき消された。エンロームの怨嗟が問答無用で俺を苦しめるように、ティアの意志が込められた言葉は俺の猜疑心や劣等感など歯牙にもかけずに優しい温もりを直接心に届けるのだ。


「あの日から私はお前をにより注意を向けるようになった。……今思えばそれも既に恋心の兆候だったのだろうな。お前は不思議な人間だったよ。ハマミの町で鍛冶屋の親娘だけでなく悪徳領主をも救い、クリクスの城では自分の敵であるはずの兄を生け捕りにして捕らえた。親父殿の件もそうだ。お前には親父殿に復讐するありとあらゆる理由があったし、周囲にいたあらゆる人間もお前にそうする事を強制していた。にも関わらずお前は親父殿を殺さなかった。それが何故かわかっているか?」


「………………」


 わからなかった。

 今までの自分の行動はすべて行き当たりばったりだと思っていたし、そこに何かの理由があるとは思ってもみなかったのだ。


「わからなくてもいい。だがどうか覚えていてくれ。お前はな、人を許せるんだよ。人間は戦場や人殺しに慣れるとまず敵に対する優しさを忘れる。可哀想だからといって敵を見逃せばそいつはまた自分を殺しにやってくるかもしれないし、もし土壇場で少しでも殺される側の気持ちを考えてしまったら、"殺される気持ち"というのは自分の中に永遠に焼きついて離れなくなる。私達のような立場の人間が優しさを持つというのはね、本当に恐ろしいことなんだ」


「で、でも! 俺だってもう何人も兵隊を殺してる! 皆と一緒だ。そんな大層な優しさなんか持っていやしない……」


「そうだ、お前は戦場でもう何人も人を殺している。我々と同じだ。けど、それでもお前は今日親父殿を許した。あの場では私も、リグレッタも、アンキシェッタも、ファントムも、アダスだって持っていなかった勇気をお前だけが持っていた。それは間違いなく特別なことなんだよ」


 ティアに抱きしめられながら、ふと今まで以上に心が安らぐのを感じた。まるで子供が母親にされるように頭を撫でられていた。


「なあ、シュージ。結局、私の予感は正しかったんだ。誰も――私自身も気付かなかったが、お前が親父殿を処刑しようとしていた時、私は危機に立たされていたんだ。お前に助けられて初めてあんな親父殿でも私にとっては未だに偉大で優しい父で私の人生の大事な一部であることに気付くことができた。命を賭けて戦う事なんて比べ物にならない。お前は復讐を諦めるという究極の困難を乗り越えて私の心を救ってくれたんだ。いいか、よく聞けよ。私は――私、ティア・エイブラムスは」


 桜の花弁のような唇がフゥっと溜息を吐き、ティアの濡れて光る蒼い瞳が改めて固い決意を表す。そして今までの言葉とは比べ物にならない程強大な"意志"を込めて次の言葉を告げた。


「<私、ティア・エイブラムスはシュージ・ナガサカに誓う。今後何が起ころうとも私は女としてなんじはべり、汝の剣としてかたきを討ち、汝の鎧としてあらゆる危険を阻む。――――シュージ・ナガサカ、汝を永遠に愛する>」


「う……あ、ああっ……!」


 けていく。

 彼女の言葉は光だった。炎のようでもあり、太陽のようでもある光。

 この世界に来てからの孤独も、痛みも、恐怖も。氷のようにかたくななで俺を苛み続けた心の傷全てが癒されていく。


(これは――これは魔法だ!)


 これは以前トルゴレオの現状に絶望したときにファントムが行った快楽物質を分泌する"脳の治療"とは違う。

 ティアの言葉は理性を超え、意志を超え、未だに人類が認知しきれない心という器官に直接彼女の真心を届けたのだ。

 俺が感じたのは母親の肌のように暖かく柔らかいが同時に炎のように激しい感情。嘘偽りの無い恋心そのものだった。

 しかし――


「さあシュージ、お前の返事を聞かせてくれ」


「お、俺――」


 "俺も愛を誓う"そう返事をしようとしたその時、脳裏に写ったのはこの場にいない二人の少女。

 俺の心の一部は間違いなくティアのもとにある。それは決して一時の気の迷いや性欲だけに基づいた感情ではない。

 しかしそれと同時に自分の心の他の部分は既に二人の物になってしまっている事に気付いた。


「俺は――」


 ティアの思いに答えるのならば、俺は自分で彼女達に預けた心を引き裂かなければならない。

 それにはとてつもない苦痛を代償として払わなければならなかった。


「俺は――」


「もしかして、お前を悩ませているのはレッタとアンキシェッタのことか?」


「………………」


「そうか。何を悩んでいるのかと思えばそういうことだったのか」


 しかしそんな葛藤もティアにお見通しだったようだ。一言も喋っていないのにあっさりと見破られた。


「シュージ、そのことなら問題無いよ。私の誓いはあの二人込みの三人セットの物だ。私を受け入れる以上はレッタもアンキシェッタも同様に扱ってもらうことになる」


「は……?」


 しかもそれ以上にあっさりと解決されてしまった。


「月の王だよ。以前言っただろう? 私達は三人共通の恋人を持つんだ。幸い二人ともお前に気があるみたいだし、近い内にさっきと全く同じ誓いを受け取ることになるだろう。お前は私達3人を好いているから、この場は誓いを受け入れるんだろう?」


「はあ……って、え? 何を言っているんだ? だってこういうのは普通はお互いの……ええ?」


「この件についてはまだ詳しく説明するつもりは無い。まあ、女心の中でもかなり特殊な部類に入る事柄だから一生説明する機会は無いかもな」


 三人セット? 愛の告白が?


(しかもこの流れだと俺がOKして当然、みたいになっているじゃないか!)


 衝撃の事態に混乱となんだかホッとして嬉しいような、茶化されて残念なような複雑な気持ちが湧き上がる。羞恥に近いその感情を自覚して、ティアが小憎らしくなった。


(よくもここまで悩ませてくれたな……!)


 負けっぱなしではいられない。少なくとも全てが彼女の思惑通り、というのは癪だ。

 せめて一太刀、不意打ちをしなくてはと思った。


「なあ、それよりお前の返事はどうなんだ? ウヤムヤな返事では困――――」


 返事だって? 決まっているじゃないか。

 俺はティアの顎を掴むとグイと強引に彼女の顔を引き寄せた。


「ちょ、シュー……んんんんん!?」


 ティアの蒼い眼が驚きに見開かれるがそれでも止めない。プルプルと震える唇を自分のそれと重ね合わせると、以前俺がされたように彼女の口腔を強く吸い込み彼女の舌を口から引っ張り出した。


「んっ! はむ、んんんんんっ! ぷはっ! ちょ、ちょっと待てシュージ!」


 舌に触れた瞬間、彼女の体からもストンと力が抜けたがそれでも手加減はしない。見開かれ、涙で潤む青い瞳をまっすぐに見つめながら、舌を挟み唇をさまざまな角度で押し付ける。


「ううんッ! んんんんんん~~!! イヤっ! 待って!」


 俺はそのまま彼女の唇と堪能しようとしたが、ティアは彼女らしからぬ可愛らしい声が出して俺を押し返した。

 お預けをくらった俺の喉からまるで犬がするような哀れっぽいうめき声が漏れた。


「その……キスの続きをする前にちょっと聞いておきたい事があるんだ」


 ティアがモジモジしながら上目遣いでこちらを見ながら言う。


「何?」


 俺は自制しているせいで思わずぶっきらぼうに答えてしまった事を少し後悔した。


「お前を呼ぶと言ったらな、侍女が油と粉の入った妙な皮袋と水差しを部屋に持ってきたんだ。どうも飲み物ではないようなのだが……お前はあれが何なのか知らないか?」


「いや、その、……今夜はアレが必要な工程まで行くことは無いと思うんだけど」


 どこから説明したらいいものか。想定外の質問に俺は思わず怯んだ。


「工程?」


「だから……その……」


「だから、何なんだ? ハッキリ言え」


「その……………………」


 さっきの焼きなおしみたいなやり取りをしながら思った事が一つ。

 あの人、メイドに向いてない気がする。


後書き初め:遅れ申した。あいや、すみませぬ:後書き終わり

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