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大嘗祭考

作者: いのしげ


 天皇が皇位継承する際に行われる、一世一代の式典であり、祭祀である……


 多分、テレビとかでこんな感じに報道しているかと思います。じゃあ天孫ニニギや神武天皇はしていたのか?

 いいえ。どっちもNOです。本日はなまなかお目にかかる事の出来ない、大嘗祭について考察をしていきたいと思います。

 

 そもそも何をするのか?

 アタシャ、折口信夫の「天孫降臨再現」学説なんかが好きなんですが、これはのちで述べる通り、別の行事と見た方がよろしいですね。

 基本的には、歴代天皇や神々との饗応をする…神々と宴会する感じだった様ですが、もっと簡素に天照大神とシンクロして入我我入する感じでしょうか。「我、天照大神ナリ」という事だと思います。

 これも後で書きますが、践祚に関しては密教要素が多くかかわっており、このシステムも密教的な感じが色濃く残っていると思われます。

 

 さて、歴史です。


 大嘗祭が成立したのは皇極天皇の御代(7世紀)ですが、この皇極天皇…女性でして、数々の雨乞いを成功させた「巫女の才」がある人でした。

 その代わり、祭祀に対し莫大な負担を強いたようで、「狂心渠(たぶれごころの、みぞ)」と云われてしまう様に、ややエキセントリックな人でもありました。

 母が吉備の姫だったので、巨石文化もあったのでしょう。現在も多く残る奈良・飛鳥の謎の巨石はこの時代に作られました。

 その中で大嘗祭は成立したのです。

 時代としては蘇我蝦夷や蘇我入鹿の時代、それから大化の改新(※現在は乙巳の変)を経た、中大兄皇子の時代、7世紀半ばですね。

 取り敢えず、国家危急の時にやった祭祀…それが大嘗祭だったのではないかと推測しております。

 コレが践祚の為に行うモノとなったのは、天武天皇の御代(7世紀)です。

 ココら辺がゴッチャになってしまいますが、大嘗祭を始めたのは皇極天皇、現在の意味合いにしたのは天武天皇…と覚えて下さい。

 さて天武帝は「壬申の乱」が有名ですが、若い頃には道教に傾倒しておりました。そして天武帝の時代に「国家神道」という概念が生まれました。

 伊勢神宮を最上格とし、天皇家の祖である天照大神を奉ったのも、この頃です(※元々伊勢はオオゲツヒメが祭神だった。今も外宮に祭られているのはその関係)。

 呪術めいたモノが得意だった皇極天皇と、それを体系付けた天武天皇。因みに母子の関係です。

 その後、大宝律令が制定されましたが、大嘗祭についての規定はありません。なので、その後の歴代天皇が本当に大嘗祭をやったのか不明です。そのうちに律令制度自体が形骸化、弱体化し、有名無実のモノとなってしまいました。

 そして「延喜式(10世紀成立)」が発布され、大嘗祭は制度化されました。

 式次第も整えられましたが、どうも時代と共に少しずつ変化していったようです。

 桓武天皇から平城天皇の御代になって、大嘗祭を行った事が分かります。

 だから、ちゃんと践祚の意味合いで大嘗祭を行ったのは桓武天皇からとも言えます。その前まで戦乱や政争で、混乱の時代でもありましたので仕方なかった事とは思います。

 つまり、現代へと連なる践祚大嘗祭は8世紀後半(781)年に成立しました。

 その後概ね平安時代中、歴代天皇は大嘗祭を執り行ってきたと思います。


 ただ、ここで新たなシステムが割って入ってきました。 

 「即位灌頂」です。

 即位灌頂とは、密教の儀式であり、古代世界の王が神々に祝福される儀式でもありました。イエスも洗礼者ヨハネから灌頂を受けています。

 聖油か聖水を頭から注がれ、王であることを神々に認められる儀式とも言えます。詳しくは書けませんが、フリーメーソンの上位になる時、似たような儀式があると聞いております。

 ともかくも、王権を位置付ける意としてはうってつけなので、この儀式も付帯として付く事となります。

 この時に「ダキニ天」の真言を唱えると伝承で伝わっておりますが、ダキニ天は日本に於いて「ダキニ天=稲荷明神=宇賀御魂」の三位一体思想となってきますので、五穀豊穣祈願の意味合いが強かったのだと思います。

 そして、この次第に入我我入観が含まれており、神との合一を果たす思想が流入したと思われます。

 即位灌頂は後三条天皇の御代(11世紀)からと言われておりましたが、どうもこの式を司ってきた二条家の資料によれば後深草天皇の御代から(13世紀)の様です。

 

 さて、ここに大きな亀裂が間に入っているのがお気付きでしょうか?

 そう、源平合戦です。ここに於いて何度か書いてますが、源義経が安徳天皇を追い詰め、壇ノ浦で入水してしまったのは日本の伝統上、大変な危機だったのです。

 まず一つ。天皇殺しを臣下とはいえ天皇家以外が行ってしまった事。

 そして…三種の神器の一つ「天叢雲剣」が永久に失われてしまったのです。

 三種の神器は大嘗祭に無くてはならない物です。

 だから次代の後鳥羽天皇は「神器無き即位」を強いられました。この事がトラウマとなって、後鳥羽帝は後に御自ら刀を打つのが趣味となり、良い出来のモノには「菊の紋」を授けました。菊一文字です。


 それから後、大嘗祭は下火となります。そして前述の通り、即位灌頂が主体となっていき、大嘗祭は軽んじられ、後深草天皇の次、伏見天皇の御代(13世紀)からはやらなくなってしまいました。そしてここから南北朝という、天皇家分断が起こるのですが…大嘗祭をやらなくなったからなんでしょうかしら?


 因みにこの時代の前後「八十嶋祭」という祭祀も、天皇即位の際に執り行われております。

 コレは難波津で行う、国生み神事の再現ではなかろうかと推測しております。イザナギ・イザナミが二人合わせて鉾で海を掻き回し、日本国土を作った故事に因むものだと思います。こちらに関しては住吉大社が深くかかわっております。コレを一部では「オノゴロ神事」とも言います。

 時代としては文徳天皇(9世紀)から後堀河天皇の御代(13世紀)までです。ですが、難波宮と関係の深い文武天皇を初め、歴代の天皇が行幸している関係を見ると、実は7世紀からあったのではないかとも言われてます。ココは要研究です。

 さて、冒頭で書いた通り、折口信夫の神話の再現説はここら辺に依拠しているのではないかと思います。

 福岡の宗像大社でも「誓約神事(※天照大神と素戔嗚の取り決め)」を再現していたと言いますので、大嘗祭でも神事の再現は十分あり得た話です。

 …でも現代では完全に否定されてますので、一旦この話はひっこめましょう。


 大嘗祭は、その後の南北朝の混乱、戦乱、天皇家の零落に伴い、その後ぱったりとやらなくなります。

 次に復活するのはなんと、東山天皇の御代(17世紀)です。江戸時代の元禄に入っています。徳川将軍・綱吉の時代です。エラク間が空いたもんだ。

 なんで突然復活させようとしたのか…それは王政復古運動に熱心だったお父さんの霊元天皇の影響です(※ていうか、お父さんこの時未だ生きてて、院政を敷いていた)。

 蛇足ですが東山天皇の御代に、赤穂浅野家による松の間刃傷事件、そして赤穂浪士事件が起きております。東山天皇は尊皇の意志が強かった浅野家びいきで、赤穂浪士に同情的でした。

 そしてこのときの大嘗祭復帰の時より、仏教嫌いな霊元天皇が主導した排仏論が起点となって、即位灌頂をどうするのかという問題になっていきます。

 

 さて。東山天皇の次代、114代中御門天皇は大嘗祭を行ってなさそうです。9歳で即位したためでしょうか。その次の115代桜町天皇は大嘗祭を行いました。116代桃園天皇はしてません。6歳で即位したせいでしょうか。 

 117代後桜町天皇は最後の女帝です。彼女も大嘗祭をしております。

 118代後桃園天皇はしてないですね。何でしょう、桃園系統はやらないんでしょうか? 因みに病弱で直ぐ亡くなってしまったため、中御門皇統は滅んでしまい、傍系である閑院宮家の皇統に引き継がれる事となります。

 傍系であった閑院宮家の119代光格天皇はコンプレックスなのか、故事を好み、勿論大嘗祭を行いました。しかしその子の120代仁考天皇は、朝儀復興を志していた割には大嘗祭してないですね…資料の見間違えかも知れません。

 121代孝明天皇は大嘗祭をしています。その子供、明治天皇(19世紀)から即位灌頂が廃止されましたので、大嘗祭のみとなります。

 これ以降、大正・昭和・平成に至るまで連綿と大嘗祭は取り行うモノと規定されました。

 

 では年表を作って見ましょう。


 ----------


               大嘗祭     即位灌頂    八十嶋祭

35代皇極天皇(敬称以下略)○       ―       ―

36代孝徳            ―       ―       ?

37代斉明(重祚)       ○       ―       ―

38代天智            ―       ―       ―

39代弘文            ―       ―       ―

40代天武            ○       ―       ―

41代持統            ―       ―       ―

42代文武            ―       ―       ?

43代元明            ―       ―       ?

44代元正            ―       ―       ?

45代聖武(大仏建立の詔) ―       ―       ?

46代孝謙            ―       ―       ? 

47代淳仁(淡路廃帝)    ○       ―       ―

48代称徳(重祚)       ―       ―       ―

49代光仁            ―       ―       ?

50代桓武(大嘗祭規定)   ○       ―       ―

51代平城(密教伝来)    ○       ―       ―

52代嵯峨            ○       ―       ―

53代淳和(散骨帝)      ○       ―       ―     

54代仁明            ○       ―       ―

55代文徳            ○       ―       ○

56代清和            ○       ―       ―

57代陽成            ○       ―       ―

58代光孝            ○       ―       ○

59代宇多            ○       ―       ―

60代醍醐(延喜式)      ○       ―       ○

61代朱雀            ○       ―       ○

62代村上(平将門の乱)   ○       ―       ○

63代冷泉            ○       ―       ○

64代円融            ○       ―       ―

65代花山            ○       ―       ―

66代一条            ○       ―       ― 

67代三条            ○       ―       ○

68代後一条           ○       ―       ○

69代後朱雀           ○       ―       ○

70代後冷泉           ○       ―       ―

71代後三条           ○       ?       ○

72代白河            ○       ―       ―

73代堀河            ○       ―       ○

74代鳥羽            ○       ―       ○

75代崇徳            ○       ―       ○

76代近衛            ○       ―       ○

77代後白河           ○       ―       ○

78代二条            ○       ―       ○

79代六条            ○       ―       ○

80代高倉            ○       ―       ○

81代安徳            ?       ―       ―

82代後鳥羽(神器なき即位) ?       ―       ○     

83代土御門           ○       ―       ○

84代順徳            ○       ―       ○ 

85代仲恭(九条廃帝)     ―       ―       ―

86代後堀河           ○       ―       ○

87代四条            ○       ―       ―

88代後嵯峨           ○       ―       ―

89代後深草           ?(2歳の為)  ○      ―

90代亀山            ○       ?       ―

91代後宇多(元寇の乱)   ○       ?       ―      

92代伏見(南北朝)      ○       ○       ―     

93代後伏見           ―       ○       ―

94代後二条           ―       ○       ―

95代花園            ―       ○       ―

96代後醍醐(建武新政)   ○       ○       ―      

97代後村上(南朝2代)    ○       ○       ―

98代長慶(南朝3代)      ―       ―       ―

99代後亀山(南朝4代)    ―       ―       ―

100代後小松(北朝6代)   ―       ○       ―

101代称光            ―       ○       ―

102代後花園           ?       ○       ― 

103代後土御門         ―       ○       ― 

104代後柏原(貧乏で即位後21年に)―     ○       ―

105代後奈良(貧乏で全国から寄付)―     ○       ―

106代正親町(貧乏で全国から寄付)―     ○       ―

107代後陽成(江戸時代)   ―       ○       ―

108代後水尾(紫衣事件)   ―       ○       ―

109代明正            ―       ○       ―

110代後光明           ―       ○       ―

111代後西            ―       ○       ―

112代霊元            ―       ○       ―

113代東山            ○       ○       ―

114代中御門           ―       ○       ―

115代桜町            ―       ○       ―

116代桃園            ―       ○       ―

117代後桜町           ―       ○       ―

118代後桃園           ―       ○       ―

119代光格            ○       ○       ―

120代仁考            ―       ○       ―

121代孝明            ○       ○       ―   

122代明治(明治大帝)    ○       ―       ―

123代大正            ○       ―       ―

124代昭和            ○       ―       ―

125代平成            ○       ―       ―

126代令和            ○       ―       ―


 ね、こうして見ると大嘗祭が、万世一系の天皇家と歴史を同じくしてやっていたものとは言えないでしょう。その間を縫う様に即位灌頂がフォローに入っております。

 一番神道的な祭祀は八十嶋祭だと思っております。逆に仏教的なのは即位灌頂。そして時代の変遷がありますが、大嘗祭は道教的な思想が含まれております。

 国家神道を鵜呑みにするのではなく、色々な思想が織り交じった結果としての大嘗祭だという事を憶えておいて下さい。

 我々の日本という国は、世界でも稀有な歴史の古い国なのです。白黒スグ語れるような、歴史の浅い国なのではないのです。

 まだまだ語り足りない部分は多々ありますが(「繪服」と「麁服」についてとか)、うかつに天皇家=大嘗祭ではない事が言いたかったので、今回はこれで終わりとします。

 

本日10時、訂正しました。

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