第十三話「特別な少女と特別な少年」
「あらあら! 確か君は……政宗くんだったわよねぇ?」
結人の母親は心配そうな表情で二人を迎えた。終電に乗って佐渡山宅へやってきた政宗は申し訳なさそうに結人の母親に会釈する。
「……こんな時間にすみません」
「ウチは別に構わないけど……でも一体どうしたの?」
「まぁ、ちょっと色々あったんだよ。家に上げてもいいだろ?」
結人は強引に説明を省き、屋内を指して政宗に上がるよう促す。しかし、頷き靴を脱ごうとする政宗は憔悴しており、明らかな絶望が滲み出ていた。
深く追及はしないまでも心配そうな結人の母親。頬に手を当て悩ましげな態度を取り――ふと何かに気付いたのか、古典的に手をポンと叩く。
「そうだ! 政宗くん、今日はウチに泊まっていきなさいな! それがいいわ!」
場の空気に似つかわしくない明るい物言いに、結人はジト目で母親を見る。
「何を楽しげに決めてんだよ。そういうノリで連れてきてないのは分かるだろう?」
「でも、高校生が出歩いていい時間じゃないし、真夜中に帰せないでしょう?」
「まぁそれはそうだけど……政宗はどうしたい? 俺は構わないけど」
結人は母親の明るいテンションのせいか申し訳なさそうな表情で問いかけた。無論、政宗はリリィに変身して安全に帰宅できる。
しかし――、
「……お言葉に甘えてもいいかな?」
無理に作った笑顔を向け、掠れた声で返事をした。
すると母親は両手を合わせて上機嫌に「決まりね!」と言い、玄関から上がった政宗の背中を軽く押し、
「まずはお風呂にでも入っちゃいなさい! あ、でも他人の家だしシャワーの方がいいのかしら? とりあえず政宗くんの家には私から電話しておくから番号教えてね」
と、浴室へと誘導しながら宿泊の話を一気に進めていく。
政宗を浴室に放り込み、あとで着替えを持ってくると告げた母親は玄関で呆気に取られて立ち尽くす結人のところへと戻ってくる。
「……すごく落ち込んでるみたいじゃない。何があったのよ」
「それはちょっと答えられない」
「そう? なら聞かないけど、優しくしてあげなさいよ」
「そんなの言われなくても分かってるよ」
そっけない返しを残して二階にある自室へ戻っていく結人。階段を登っていく息子の背中を微笑ましそうに見送ってから、母親は藤堂家へと電話をかけた。
☆
(突然押しかけて迷惑だったろうに、温かく迎え入れてくれた。……やっぱり結人くんのお母さんなんだなって感じ)
浴室にてシャワーを浴びながら政宗は現状に感謝していた。
高い位置に固定したシャワーから降り注ぐ温水を浴び、目を閉じて天井を仰ぐ。体に打ち付ける温かさが体の緊張を解いていくようで、政宗は少し気持ちが楽になった。
(それにしても、ボクのこの障害……本当に誰かを不幸にすることしかしない。ボク自身、そして周囲にいる人達も含めて――幸せにはしない)
シャワーから吐き出される温水が自分の体を伝い、滑っていく感覚で政宗は自覚する。
その輪郭は絶対的に女性の形を描かない。どれだけ自分の精神を女性と自認しても、肉体は男性のそれであると自覚させられる。
その事実に今日まで何度も付き合ってきたはず。嫌悪感をするのも慣れていたはずなのに、今日はそんな自覚が一層恨めしかった。
(ボクが――ボクがちゃんと女の子の体で生まれたら、こんな苦しみは感じなかったのに!)
壁に手を突きうなだれて、浴室のタイルを見つめる。溢れだした涙が体を流れる温水に紛れ、流れていく。
――もしも、政宗が生まれながらに女の子だったとしたら?
きっと瑠璃と今日のように争うことなく、友達のままでいられた。同性の親友として高校生活を過ごせていたかも知れない。
でも、政宗が性同一性障害でなければ――今の仲間との出会いはなかったのだろう。
瑠璃との喧嘩もなく、出会ってすらいない。
修司から告白もなかったはず。
そして、結人からあれほど熱烈に想われることもない――。
細やかな幸せの味を知っているからこそ、政宗は自分の障害を憎み切れない。何度も悔やみ、恨んでも……決定的に憎ませてくれない記憶が、その感情を阻む。
(きっと、ボクが女の子だったらもっと沢山の幸福に溢れてたかも知れない。……でも、ボクは今という時間を手放せない)
生まれながらマイナスからのスタート。些細な幸福が目映く見えるほど――誰かの普通が幸福に見えるほど、先天性のハンデは大きくて。幸福の器は些細なことでいっぱいになる。
でも、それでいい――それがいいと言えてしまう。
政宗は自分の胸の前で手をギュッと握り、奥歯を噛んで自分の生まれを呪う。
こんな風に生まれたくなかったとは思うけれど――こんな人生が嫌だったとは言えず、彼女は抗うべき敵を見失って泣いた。
☆
「結人くんの服なのかな? ボクよりちょっと大きいや」
脱衣所へと戻ると結人の母親が用意した着替えが置かれており、政宗はそれを両手で広げてポツリと呟いた。
そして、結人の服を掴みながら政宗はふと置かれていた全身鏡に気が付く。そこには体を湿らせた政宗の肉体が映し出されていた。
――政宗は、鏡が嫌いだった。
メリッサから思春期特有の成長をカットしてもらい、回避できたことがある。それは骨格が男性的になっていくことや、声変わり、それに髭が伸びること。
それらと無縁になれたのは幸運だった。
政宗の容姿は中性的なものとなり、自分の体が望まない方向へ成長していく悲劇――それだけとは無縁でいられた。
しかし、藤堂政宗の精神は女性なのである。
男性的ではなくなったとしても、その体が女性になることはない。根本的な肉体の構造は男性のそれであり、その姿を見る度に性同一性障害を自覚させられる。
だから、政宗は鏡が嫌いだった。
家にも大きな鏡はあるが、いつも見ないようにして男物の服で自分の醜い体を隠す。そんなどこか矛盾した行為で自身の肉体を見て見ぬふりをしていた。
――しかし、今日は少し違うものを覚えていた。
(結人くんの服、もしボクが袖を通したとしたら少しぶかぶかでとても自分の服には見えない。それって、例えば彼氏の家へ泊まりに来て服を借りた女の子みたいだったり……しないかな?)
まるで結人に守られているような感覚がして、悪い気分じゃないと政宗は思えた。そして政宗は結人が自分の中で鬱屈と立ち込める暗雲のいくつを払ってきただろうかと考える。
自分の秘密を預け、受け入れてもらい――そして今日、また一つ自分が抱えてきたものを結人は背負ってくれるのかも知れない。
嬉しくなって、安心して……そして、愛しくなって政宗は幸せそうに笑む。
(そんな風に瑠璃ちゃんもボクを受け入れてくれたら、こんな体でだって友達になれるのかな? きちんと……話すべきなのかな?)
政宗はそんな希望を抱く――も、ずっと隠してきた過去は今日の瑠璃とイメージが重なる。フラッシュバックした記憶はまるで、今日という日に具現したようだった。
明るくなりつつあった政宗の表情は、再び暗いものへと変わる。
(受け入れてもらえる希望を結人くんからもらったけど……僕は拒絶される絶望も知ってるんだ。もしかしたら――結人くんが特別なだけなのかも)