第七話「君のために全力を尽くして」
(別に嫌いになったわけでもないのに誰かを好きだった気持ちを失くす……それってどんな感覚なんだろう?)
十二月五日、朝九時――仄かな不安を携え、リノリウムの床を踏むリリィとメリッサの姿が病院内にあった。
時間の停止した世界。足音が周囲の人々の鼓膜を震わすことはなかった。
これからリリィ達は集中治療室へと向かい、眠る結人に魔法を行使する。今日まで貯めてきたマナに、同じく今日まで重ねてきた結人への想いを上乗せして、最高位とされる「運命を動かす魔法」をメリッサに依頼するのだ。
それは――魔法少女マジカル☆リリィの契約完了を意味していた。
(ボクの記憶はそのままで、実感だけが抜け落ちるのかな? 今は色鮮やかな記憶が色素を失って……モノクロになるみたいに?)
メリッサには気丈な態度で決断を口にしたが、やはり恐怖心は拭えない。どれだけ想像しても恋心を引っこ抜かれた自分というのはピンとこなくて。
例えるならば結人と出会う前――高校へと進む前の自分と同じになるはず。ならば、あの頃の自分に戻るだけ。だが、リリィは長く付き合ってきたはずの孤独を鮮明に思い返すことはできなかった。
もう、全部駆逐されていたからだ。
結人にもらった気持ちが体の隅々に染み渡り、自分自身を作り替えているからこそ――もうあの身軽な自分を思い出すことなんてできない。
なら、それほどまでに変わった自分から一気に正反対へと転じるのはどれほどのことなのか――?
想像もつかない場所から地図や指針もないままこの場所へ戻ってくることを思って、リリィはやはり――恐怖心を抱かずにはいられない。
でも、それに打ち勝つだけの想いだってリリィの中にはあるからこの場所にいる。
(勝手な決断だって結人くんは怒るかも知れない。でも、動かずにはいられないよ。これも痛み分け。君が死なずに済むんなら――その不幸を少しだけ、ボクも背負うよ)
きっと逆の立場なら彼もそうするはずだから、と――ズルい言葉が重い代償を支払うこと、そして変わってしまうであろう自分の恐怖を吹き飛ばす。
愛しい想いは失いたくないけれど。
でも――愛しいからこそ、進んで差し出せる。
この瞬間までリリィは何度も自分の中で勇気と恐怖心を戦わせ、一方的な試合結果を見届けていた。
リリィとメリッサは集中治療室の前へと到着する。偶然にも扉は開いており、室内へと入っていこうとする人物が目に入る。
――それは結人の両親だった。定められた面会時間に合わせて訪れ、息子に会おうとする二人を通すため集中治療室の扉が開かれていた。
リリィは時間停止で硬直した二人とすれ違い――しかし、振り返って結人の母親の方を見た。
その表情には不安が刻まれており、リリィはそれがどうしようもなく悲しかった。
(ボクの秘密を知っている数少ない人。ボクを女の子として扱ってくれて……結人くんの好きな人だと察して喜んでくれた人。……嬉しかったな)
リリィにとってそれは自分の秘密がもたらした、数少ない嬉しかった思い出。
受け入れてくれる優しさをもった結人の母親がそれほどに不安そうな表情を顔に刻んでいることが悲しくて――リリィは決意を秘めた表情で語る。
「……結人くんはボクが必ず助けます。ですから、安心して下さい」
時間が止まった世界に響く声は結人の母親の鼓膜を揺らすことない。無意味だとはリリィも分かっているけれど……気付けばそんなことを口にしていた。
(結人くんへの気持ちを失った後、ボクは結人くんのお母さんと会うことがあるのかな? そうならないとしたら、それは凄く寂しい。どうなるかは――全てが起きるまで分からないけど、叶うなら――)
リリィは結人の母に背を向け、集中治療室へ歩んでいく。別れの時間が欲しいリリィを尊重して、集中治療室の入り口で待つメリッサの視線を背で受けながら。
止まった時の中で――結人と過ごす最後の時間が始まる。
☆
「結人くん、君は今どんな夢を見てるのかな? やっぱり魔法少女のことかな。……リリィとしてお別れを言えなくてゴメンね」
時間が停止した集中治療室にリリィの独り言と、靴の音が響き渡る。
誰も聞くことなく、ただ自分の鼓膜へ帰結するだけの言葉を淡々と口にしながらリリィは結人のベッドへと歩み寄る。そして、眠る結人に慈しむような視線を落とした。
「あと、目覚めた時に君のことを好きでいられなくてゴメンね。どうやらこういう方法しかないみたい。でも、ボクは結人くんを信じてるから迷いはないよ。すぐ助けてあげるから、安心してね」
無理に笑みを浮かべ、リリィはベッドに埋もれる結人の手に触れる。
時間停止しているため結人の手は一ミリも動かすことはできない。しかし、そもそも指先を曲げる形になっていたため、リリィは指を絡めることができた。
「思えばボクは君から沢山のものをもらったよね。出会った時に二度も告白されたり、あの二人に襲われた時は身を挺して守ってくれたり、そして夏祭りの日にまた告白してくれたり……そこから恋人同士になったことも全部、ボクの宝物なんだ」
そんな価値ある宝物だからこそ結人の運命を変えるための対価を支払うことだってできる。そして、大事に宝箱へとしまいカギをかける。
――いつか開かれる日を望みながら。
それでリリィは納得したはずだった。
恐怖心に打ち勝ったはずだった。
しかし、リリィの気持ちはここへ来て揺れ始める。結人を前にしたことで勇気と恐怖心の繰り返された争いは初めて、弱者が一矢報いてしまったのだ。
気付けば目元には涙が浮かび、愛しい人の顔が滲んで見える。
「……今日までの日々で辛いことが沢山あった。結人くんと出会う前、そして一緒にいるようになってからも。だけど、そんな全てが愛しく思えたんだ。ボクが男の子の体で生まれたこと、それさえも全部結人くんと出会うための代償だったって思えるようになれたのは君がこんなボクを愛してくれたからなんだ。なのに……!」
リリィは膝を折ってその場で崩れ、そして両手で結人の凍ったように動かない手を包んで縋るようにベッドへ体を寄せる。そして身を震わせ、溢れそうな言葉を必死に胸中へ押し込む。
(――失くしたくないよ! どうして不幸を打ち消すために幸せの全部を注ぎ込まなくちゃならないの? どうしてそこまでしないと取り戻せない場所に結人くんを連れ去るの? 今日までもらった気持ち、幸せは全部ボクのものだ! 誰にもあげたくないよ!)
子供みたいにワガママを言って、嫌だと辛い現実を突っぱねたくなる。しかし、泣き喚いても結人は戻ってこない。その現実が感情的になったリリィに冷静さを与える。
――リリィには、やるべきことがある。
最後の最後で顔を出した本心を押し殺すための時間を擁し、涙で滲んだ目元を拭ってリリィはゆっくりと立ち上がる。
胸に手を当て、呼吸を整え、そして――、
「結人くん、ボクを好きになってくれてありがとね。君がくれる想いがあったからボクは孤独から日の当たる場所に出られて、少しだけ自分を好きになれたんだ。ボクも結人くんのことが大好きだよ」
ギュッと目を閉じ、心からの笑みを向けてリリィは告白。
溢れる想いはその一言に留まらず――、
「ボクのことを気遣ってくれる優しい結人くんが好きだった。ボクの考えてることを察して動いてくれる賢い結人くんが好きだった。そして、リリィのことを忘れず想ってくれた一生懸命な結人くんのことが――大好きだったよ」
口にすればするほどこみ上げてくる想い。
リリィは溢れるままに語った。
自分の中にそれほどの言葉があって、しかも次々と溢れてくることに驚き、リリィはどうしようもなく彼に恋をしていたのだと自覚して幸せそうに笑う。
そして、思いも一しきり口にしたところで――そろそろ彼とお別れをしなければならないと、表情に覚悟を宿す。
「ボクは今から君への恋心を失う。……でも、また君のことを好きになれるって信じてるんだ。だから、またボクの手を引いてね。結人くんのその強い想いを傾けられたら――ボクはきっとまた君に恋をすると思うから」
リリィはそこまでを言い終えると、まだいくらでも湧き上がりそうな言葉の一切を切り捨て、結人に背を向け――契約の完了を言い渡すべく、メリッサのいる入り口へと歩み出す。
そして、これが最後だと背を向けたリリィはゆっくりと歩み去る最中で――結人にも言葉として聞かせなかった想いを心に浮かべる。
(……結人くん。ボクね、実は昔からずっと夢見てたことがあるんだ)
リリィはそうポツリと心の中で呟き、そして愛しそうに笑みを浮かべる。
(それはね――お嫁さんになること。男の子の体でそんなことを願ってるのはおかしいって自分でも分かってて、諦めてたんだ。でも、メリッサと出会って少し現実味を帯びて、そして結人くんと付き合うようになってそれは叶えられる夢になった)
リリィはそこまでを想い、表情を翳らせる。
(でもね、ボクはもう女の子の体になることはないみたい。そんな夢すらも、もう叶うことはないのかな――?)
深く息を吐き出し、自分の抱いてきた夢さえ捨てさせられるのかとリリィは首を垂れる――も、顔を上げ、希望を宿した瞳で前を見る。
(いや、そんなことない。結人くんと一緒なら、ボクがボクのままでもきっと。だからね、今度君を好きになったらボクは――)
それは、これから何もかもを失うマジカル☆リリィが仄かに抱いた新しい「願い」だった。