第二十九話「人目も憚らず二人きり」
「今回の事件ってさ、結局遠慮し過ぎたのかも知れないよな。何もかもを。だからお互いもっと相手にワガママを言ってもいいんじゃないか、迷惑をかけるマネをしてもいいんじゃないかって思う。それすら嬉しいって言えるのが俺達だと思うから」
駅通りを人々が行き交う。帰宅すべく歩むサラリーマンや学生、彼らとは逆に今から仕事へ向かう人もいて、そんな風景に紛れながら結人と政宗は歩いていた。
傾いた日の光に染められて、人の群れは平等に影を伸ばす。
ありふれた光景――しかし道行く人々はすれ違う瞬間、結人と政宗を一瞥し、そして何事もなかったかのように歩き去っていく。
結人は少しハロウィンの仮装を思い出していた。
昨日この場所には非現実的な空気があって、皆がそこへ紛れるように仮装をした。それと同じように今、結人と政宗はちょっとの違いを抱えながら日常的な風景の中に溶け込もうと平静を装っていた。
街を歩く結人と政宗の手は繋がれていた――周囲の目線に晒されることを厭わず。
「本心を言えばボク、こうしてみんなの前で自分達の関係は恥ずかしくないよって言って欲しかったのかも。迷惑をかけるとしても――ワガママだとしても」
「とはいえ、やっぱり結構目を引くな。辛かったら言ってくれよ? 正直、あんなことがあった政宗にさらに心労を掛けることになると思ってちょっと迷ったんだ」
結人はそう語りながら、結局はこうして歩くことを選んだ。
それは事件の発端となった原因を今からでもきちんと排除しておくこと。それにより二度とあんなことは起こらないと政宗に伝えておく意味があって。
そして、もう一つ――、
「もし誰かが俺達の関係を笑ったりしたら俺がそいつと戦ってやる。そして守ってやる。俺はもっとお前にワガママを言われたいんだよ。寄りかかられたい、頼られたいんだ。それは俺からすれば迷惑じゃないんだから」
結人は政宗との関係、そのステップアップのために必要なことだと思った。
他人行儀で牽制し合って、ただひたすら優しくするだけの表面的なものじゃなくて。ぶつかって混ざり合うような距離感が欲しいから。
「なんだかそう言ってもらえると何もかもが怖くなくなるね。もし辛いことや悲しいことがあっても、ボクは助けを求められる人がいるんだ。頼れる人がいるんだ。……そう思うだけでこんなに軽くなるんだね」
政宗が今日深々と刻まれた傷。夜、暗闇の中で瞼を閉じれば疼き出すであろうそれは今、堂々と結ばれた手の温かさによって和らぐ予感に変わった。
――さて、結人が政宗をこうして散歩に連れ出したのは守っていた秘密を曝け出すことにの他に、もう一つある。
それは――彼が抱える過去に関して、少し話しておくべきだと思ったからだ。
「そもそも今日の一件。三葉から聞かされる前に俺が自分の過去を話しておけば、ちょっとは変わったのかも。……でもさ、俺の過去にはそれほどの物語はないんだよ。寧ろ、凄惨な傷になる前に救われたんだから」
結人は記憶の奥底に沈めていた過去に触れる。
「大した話じゃないんだ。中学の頃、俺は浮いててさ。何て言うのかな……上手く話せないんだけど、俺には考え過ぎるクセがあって。そのせいで上手く人間関係を築けなかったんだ。だから、他人とわざと距離を置いてた」
佐渡山結人――彼は共感性が高く、感受性が非常に強い人間である。
他人の不幸を自分のことのように考えて涙する優しさの起源であり――逆に他人の心理を読み取ることに秀でているせいで読み過ぎて被害妄想をすることもよくあるのだ。
エンパス、という名を持つこの性質のせいで結人は他人の何気ない一言の裏を読み過ぎ、他人の感情が雨のように注ぎ込まれ――彼は灰色の中学時代を過ごしたのだ。
「そういえば結人くんもボクと同じで友達がいなかったって言ってたよね。それは……そういうことなんだ?」
「うん。だけど、政宗は事情的に仕方なかった。俺の場合は自分自身の怠慢だと思ってる。だから、大した過去じゃないんだよ」
「過去の悲しみの大小を比べるのは良くないよ。それはやめよう?」
「……あぁ、そうだな。ごめん」
結人は苦笑して謝った。
「結人くんはいじめられてたわけじゃないんだよね? 人の輪に入っていけなかっただけ。なんていうか……そういう酷い目には?」
「そうだな、いじめはなかったよ。誰とも関わらない俺を気味悪がってるやつはいたけどな。……でさ、そんな日々の苦しみを話せる相手もいなくて、俺は世界から孤立しているような気持ちになってたんだ」
政宗はその言葉に悲しそうな表情で俯き、握る手を力を強めた。
「そんなある日、俺は運転手が失神したトラックに轢かれかけたんだ」
「……え? それって?」
「そう、リリィさんに助けられた瞬間だよ。命の危機だった。俺はあの瞬間に思ったんだ――このまま命が終わることに何か問題があるのかって。他人の感情を深読みして敵だと決めつけて遠ざける、こんな俺に生きる価値なんてあるのかって」
淡々と語られた、危うさを感じさせる結人の言葉。
政宗はありふれた言葉を紡ごうとして――しかし、何も語ることはしなかった。それは政宗の過去に共鳴する部分があったからだ。
自尊心を欠いているから、命を大事にできない。
ただ、生存本能が今を可愛がるから生きているだけ。
重苦しい過去――だが、結人はそこからを希望に満ちた瞳で語る。
「でも、リリィさんが助けてくれた。そして去っていく間際にこう言ったんだ。覚えてるか?」
結人の方を政宗の方を見て。
そして、政宗も顔を上げて彼と視線を交わす。
「――無事で本当によかったよ、って。俺さ、たったそれだけの言葉で心まで救われたんだ。自分の命が無事だったことを喜んでくれる人がいるんだって。……あの時の俺には沁みたんだ」
「そう言ったんだっけ? ……ちょっと覚えてないや」
はにかんだ表情で照れる政宗を見つめ、結人は穏やかに笑む。
「しかもさ、リリィさんは俺が轢かれそうになる瞬間、大の字になってトラックの前に立ちふさがっただろ? あれはきっと咄嗟に体が動いたからだ。どう俺を助けたらいいかを考えず動いたからじゃないか?」
「そ、それは覚えてるよ……。本当はもっと格好いい止め方もあったはずなのになぁ」
「でも、それがよかった。言葉を交わさなくてもリリィさんが優しい人だってあの一瞬で分かった。誰かのためにまず体が先に動く……俺は憧れて、自分もそうなりたいって思ったんだ」
結人は優しいリリィに感動し、憧れ、他人の良心を信じるようになった。
自分が思うほど他人は害意を抱いていない。見ず知らずの人があんな風に助けてくれるような世の中なのだ。もしかしたら――あの憧れと同じように生きれば、相手は今の自分と同じ気持ちになるのかも知れないと。
そんな意識改革で高校へ進んだ時にはクラスで少しは話せる人間を作ることができていた。
一瞬の出来事でも――あれは結人に大きく影響を与える邂逅だった。
「だからさ、俺の中学時代の思い出って確かに苦いものなんだけど、それを引きずるようなことにはならなかったんだ。リリィさんに出会って前向きになれた。それだけのことで、俺の過去は大した物語にならなかった。俺が四月、リリィさんにお礼を言った中にはそんな思いもあったんだよ」
価値を見出せず、消えてもいいと思った命を大事にできたこと。
そこからくすんでいた心が輝き出したこと。
それらに関する恩返しが今日という日であったなら――政宗は自分の持ち物が回り回って自分を助けたのだと気付き、優しさは巡るのだと知った。
政宗の優しさ、その裏付けには自尊心の低さによる決断の早い自己犠牲があるのかも知れない。しかし、そうだとしても優しさは本物だった。だから、こうして巡っているのだ。
そして、その輪廻は何も――ここで途切れるわけではないことも。
結人は一通りを話し終え、体をほぐすように首を左右に動かす。
「何だか自分の昔話って恥ずかしいなぁ。それにいい感じにカットしてるだけで中学時代には残念エピソードが沢山あるんだけどな」
「でも結人くんのこと、もっと知れてよかったよ。それにリリィとして結人くんを助けたことがボクの思っていた以上の意味を持ってた。そのことが誇らしい」
政宗は瞳に憧れを宿し、一身に結人を見つめる。
なりふり構わずピンチになれば助けにきてくれるヒーローのような結人が政宗は好きだった。そして、それが自分の持ち物だったと知ったのだから政宗は前より自分を好きになれる。
なら、政宗は自分を認め――そして、大事にすることができる。
そんな予感がたまらなく嬉しくて――政宗はいつぞや、伝えようとして適わなかった言葉を思い出す。
繋いでいた手を離し、結人の腕を抱くように両手を絡める。そして、身を預けるようにして寄りかかり、結人の瞳を見上げて口を開く。
「結人くん、大好きだよ」
「――ま、政宗!? 突然、何を言ってんだ!?」
「えへへ、いつかのお返しだよ」
不意打ちに顔を赤くし目を見開く結人に、政宗はイタズラっぽく笑う。結人はそんな表情に愛しさを感じて表情を緩める。
気づけば二人は同じ表情を向けあっていた。
さて、こうして――クラブとカルネの策略によって怒涛の一日となった十一月一日はマイナスから帰結したゼロへ、そして少しのステップアップで幕を下ろした。