目玉交換
飛蚊症を患っていると、なかなかどうして、人生の格が一気に下がる。飛蚊症とは文字通り「視界の先で蚊が飛んで見える」というものだが、例えば山岳を登ろうとする、やっとの思いで山頂まで辿り着き、視線を落として下界を眺めようとすると、その片隅で蚊がぶんぶんぶんぶん飛んでいて、どうも落胆してしまう。むろん、その蚊は幻想であるわけだが、そうと解っていても、やっぱり肩を落としてしまうものだ。
今晩も今晩で、妻と美しい役者が出るってもっぱら話題の演劇を見に行ったが、やはり蚊が邪魔をしてきて、集中して舞台が見れない。先に退出して独り、夜道を歩いている。
すると、街頭に照らされた一人の男が、いやにおれを見つめてくる。直径ばかりがやけに広い麦わら帽子から見える目は細く鋭く、何だか悪行を見透かされているような気がして、ぶるりと背筋が凍って、一目散に逃げたくなった。しかし右足を一歩後ろへやると同時に、彼が一歩近付いてきた。おれが二歩後ろへやると、二歩近付いてくる。だんだん気味よりも興味が勝ってきて、とうとう尋ねてしまった。
「あんた、おれをどうするつもりなんだい」
思い返してみると、自分でも訳の解らない質問だったように思う。趣旨がまるで伝わらない。そもそも趣旨があったのかどうかすら怪しい。
麦わら帽の男は、その口角をわずかに吊り上げて滔々と語り始めた。
「へえ、人間ってのは面白いものだな。夜道怪しい男に出会ったならば、そういう反応をするのかい、実に興味深いね。いや、どうするもこうするもないよ、どうするつもりもこうするつもりもない。ただ、少しだけ話がしたいと思ってね。私は身体中の部位を交換して歩く旅商人なんだ。どうだいにいさん、嫌いな部位や変えたい部位はあるかね」
「確かにおれは、目玉を交換したいと思っているけれど、麦わら帽のお兄さん、そりゃあ、どれくらいの銭がねでもって変えてくれるんだい」
「目玉か。目玉ならば、むしろこちらが銭がねを用意させてもらおう。先日目玉を交換したのだけれどね、妙に鮮明に見えちまう目玉で、性に合わないんだ。明瞭に見えすぎるってのも考えもんだね」
「おお、そうかいそうかい。そりゃあちょうどいいや。早速交換してもらえるか」
そしておれは、視界の端で蚊が飛び回る目玉の代わりに、明瞭に見えすぎる目玉を手に入れた。次の日からは人生が変わったようで、美しい景色を見に行き、美しい役者を見に行き、幸福は止まるところを知らず、毎日が楽しくてしょうがなかった。
けれど、鮮明に見えすぎるってのも考えものだ。
例えば山岳を登ろうとする、やっとの思いで山頂まで辿り着き、視界を落として下界を眺めようとすると、鮮明に見えすぎる目玉は、自分勝手に焦点を定めちまって、全体像がまるで見えない。写真などを見るほうがよっぽどいい。要するに、普通の目玉が欲しかった。
あの旅商人はいないかと途方に暮れていると、一人の男が声を掛けてきた。野太い声をしていて、しかし振り向くと、いまにも倒れそうなくらいに華奢な身体をしていて、肌は青ざめており、例の旅商人ではないようだった。男は言う。
「目玉を交換してくれないか。ぼくはね、つい先日の話なんだけれど、とある旅商人と目玉を交換してね。明瞭に見えていた目玉を、どこにでもあるような変哲のない目玉に交換してもらった。けれど、あのころ見えていた遠くのものや風景が見えなくなって、何だか醒めてしまったんだ。あのころの鮮明な景観が懐かしい。それで、あの旅商人にもう一度会ったから、ぼくの目玉を返せと言うと、きみと交換してしまったのだと言う。どうだい、銭がねならいくらか用意させてもらったから、ぼくと目玉交換してくれないかい」
「ちょうどぼくも、そういう目玉に恋い焦がれていたんだ。銭がねは要らないよ」
「おお、そうかいそうかい。それはありがたい。それでは、さっそくだけれど」
言って、おれは男と目玉を交換した。今度は普通の目玉になって、やはり気分が高揚した。 が、今度は飛蚊症の目玉が恋しくなった。仮にも二十と八年付き合ってきた目玉である。あそこで簡単に手放してしまったのは失敗だ、やはりおれはあの目玉と一生付き合っていくべきであろう、そう決心すると、噂をすれば影が射す、旅商人の彼が真後ろに突っ立っていた。おれの脳内を見透かしていながらからかっているのだろうか、「で。用事はなんだね」と言ってきた。おれが先日交換した目玉を返して欲しいのだと言うと、「ほうほう、それでは銭がねを用意してもらいたい。そうだな、ざっと五十枚くらい欲しい」「五十枚。それはまたずいぶんとお高い。少しばかり値下げしていただかないと、物欲が薄れてしまいます」「無理に買わんでも良い」「買います。買いますとも」指定の金額を渡した。
「ありがとう」
麦わら帽で面部を隠した旅商人だが、気味の悪い笑みを浮かべていたことだろう。
「やはりおれには鮮明に見える目玉のほうが似合うように思う。変えてくれ」
「しかし、ぼくだってこの目玉を気に入っている。そう簡単には手放さん」
「それじゃあ百枚で手を打ってくれないか」
「そんな大金、どこで用意したんだい」
「少しばかり、借金を」
「それだけもらえるならばぼくは構わないけれど、返済できるのかい」
「いざとなれば臓器でも何でも売ってやるよ」
「おい、旅商人! ここに二百枚ある。その変哲もない目玉をくれ」
「なんだ、おまえ、目の下に鼠色のクマが出来ているぞ」
「目玉交換ばかりしているのと、借金取りに追われて一睡も出来ないのが相まって、酷く縁起の悪そうな顔をしていると、近所でも有名になってしまった。しかし今更後戻りは出来まい。おまえだって銭がねが欲しいのだろう。二百枚も借りてきたのだから、文句など言わずにとっとと交換してくれよ。本当はこの時間すら惜しいんだ。時間にも借金取りにも、いろいろなものに追われている。逆に妻には逃げられたが」
「しばらく見ないうちに随分と波瀾万丈な人生を送っているようだな」
「関係がないだろう」
「それもそうだな。私には銭がねさえ入れば良い。さあ交換しよう」
「はあ。ようやく取り替えられる」
「まいどあり」
「チクショウ、キサマッ! そうだ、キサマだ!」
「ぼくですか?」
「なんだ、おれを憶えていないって言うつもりか。せっかく五百枚も借りてきたのに。こんなに借金が増えてしまっては息子と妻までもが借金取りに追われる羽目になるだろうが」
「ああ、あなた、あのときの。随分と見違えましたね。気付きませんでしたよ。白髪も増えちゃって、あごひげだって伸びきっている。それに何だか、臭いますぞ」
「風呂に浸かる間も、浸かる湯もないのだ。いいからとっとと目玉を取り替えろ」
「毎度のように、変えろ、変えろとおっしゃる。ただのないものねだりではなくて?」
「ああ、うるさいぞ。関係のない話をせずに、あっ! 借金取りだ!」
「いいえ、あれは借金取りではなく警察です」
「おおい、そいつを捕まえてくれ。そいつは民家から五百枚もの銭がねを奪った強盗犯なんだ」制服をまとった連中が走ってくる。
「あなた、そんなことを」
「ええい、うるさい。おれは、あの旅商人に会わなければもっと豊かな人生を歩んでいたのだ! それを、やつらが、ひっきりなしに」
「責任転嫁はやめましょうよ」野太い声をした男が言う。
「逃がしてしまう。早く捕まえてくれ」連中が叫ぶ。
「チクショウ。チクショウ」おれは嘆く。
「まいどあり」叫喚呼号に掻き消されそうではあったものの、おれには確かに、その元凶である、全てを見透かしたような、不愉快極まりない濁り声が聞こえた。
非常に手を出しづらい、小説投稿サイトとしては異質のタイトルでありながらも、こうして覗いて下さった変態諸君には感謝しかありません。
楽しんで頂けたならば幸いです、また見てね。