満月の夜、獣が哭く
ああ、人生とはなんてつまらないものだったのだろう
森の奥深くにある小さな小屋、そこに、男が一人住んでいた。
暗く狭い部屋で、ナイフを何度も何度も振り下ろす。辺りには異臭が漂い、森からは獣の声が聞こえる。男は目の前にある、かつて人だった肉塊を見つめた。
「……」
何も感じない。人を殺したというのに…そいつの“生”が終わると、何も感じなかった。私はおかしいんだろうか…?人を殺すあの瞬間が、一番生きていると実感できる。人を殺すことは、男にとって、すでに人生に欠かせないものになっていた。
そう、始まりは去年の夏。私は妻と子供、家族三人で山へとキャンプに出かけた。仕事があるのに子供に構えという妻、何も知らずに無邪気に遊べと迫る子供…。嫌気がさしながらも、これが日常だと思い、我慢してきた。これからもこの毎日は、かわらないのだろう…。
子供がいなくなったと妻から聞いたのは、ここへきて三時間たったくらいのことだった。夕陽が沈もうとしている。私は妻とともに森の中へ入り、子供を探した。見つからず、奥へ、奥へと進んでく。日が沈み、夜が来た。それでも子供は見つからない。警察に電話をしておけばよかった。子供の足だ、そう遠くまで行っていないだろうと思った私のミスだ。一度キャンプ場へ帰ろう。もしかしたら子供が戻っているかもしれない。そう告げると妻は頷き、私は踵を返した。
突然、前から強い風が吹いた。背後で水音がする。振り返ると、そこに妻はいなかった。いや、正確には”生きた”妻が、だが…。そこには、一匹の狼がいた。妻の首に牙を立て、食らっている。倒れ伏した妻は体が痙攣し、口から血がたれていた。私はその光景を見ても不思議と、何の感情も抱かなかった。普通なら、妻が殺された怒り、悲しみ…。狼に対する恐怖など…。
そんなことを漠然と考えていると、狼と目があった。その透き通るような瞳は、”私”という存在を何もかも見通しているようだった。遠くで、獣の声が聞こえた。目の前の狼はそれに返事を返すように短く答えると、私を数秒ほど見つめ、去っていった。残されたのは無残に横たわる妻の死体と、むせかえるほどの濃厚な血の匂いだった。
どれくらいそこにいたのだろう。月が私の上を通り過ぎて、北のほうから少しずつ明るい光が照らし始めた。帰ろう…。森の中をふらふらと歩き、キャンプ場へ向かった。途中、子供の着ていた服をまとった肉塊が落ちていた気がするが、私の気のせいだろう。何も考えたくない。
キャンプ場に着いた。私は一人車に乗り、家へと向かった。
二日、三日…、たまに家の前に誰かが来ていたような気がするが、覚えていない。一週間、一ヶ月…。電話が絶えず鳴り響くのがうるさかったので、根元から抜いてならないようにした。ドアの叩く音や、誰かの怒鳴り声が聞こえたが、耳を塞いで無視をした。
あの日からずっと、ずっと忘れられないことがある。むせかえるような血の匂いと、あの瞳…。ピンポーン…。玄関のチャイムが鳴った。私は立ち上がり、玄関へと向かう。頭にモヤでもかかったように、何も考えられない。ドアを開けると、目の前には女がいた。
「あっ、あのっ!私、若葉幼稚園に勤めている、〜〜ともうします。〜〜ちゃんのお父さんですよね?〜〜〜〜〜〜〜」
目の前で女が何か喋っている。まるでノイズを聞いているようだ。ああ、頭が痛い。
「〜〜?〜〜〜〜っ!!〜〜〜っっっ!!!」
私は目の前にいたうるさい女の口を片手で塞ぎ、もう片方の手で体を抱え上げ、家へと連れ込んだ。抵抗する女を何度も殴り、動けなくしてからキッチンへ向かった。っ…、手の甲にピリピリと、小さな痛みが走った。先ほどの女に付けられたのだろう。そこには、爪の跡が三つあった。血が流れている。私は傷のついた手を口元に持って行き、ゆっくりと味わうように舐めた。口の中に広がる、血の味。血の香り。私は本能に従った。
気がつくと、私は血に塗れていた。目の前には女の死体があり、私の手には血のついた包丁が握られている。目を瞑り、深く息を吸い込む。ああ、この匂い…。男は恍惚とした表情を浮かべ、狂ったように笑い始めた。しばらくして満足したのか、男は包丁を握ったままふらふらと家を出て行った。事切れ、血にまみれた女を残して。
男はあのキャンプ場に来ていた。そしてふらふらと何かに導かれるように、森の中を歩く。しばらく進んでいると、小さいボロ小屋が見えた。ドアを開けると、毛布、ヒモ、茶色いツボ、囲炉裏…。壁には小さな動物の毛皮が飾ってあった。全部、見事なまでにボロボロだ。もう何年も使っていないのだろう。ここの持ち主が帰ってくる心配はないはずだ。男は床の上に座り、ゆっくりと深呼吸した。そして持っていた包丁に目を向ける。肉を突き破る感覚、そして包丁が抜けるたびに飛びちる赤い、真っ赤な血。男は、笑っていた。
男がこの小屋に住んでから、一年が経っていた。あれからずっと、キャンプ場に来る人を攫っては殺している。今日で何人目だろうか?わからない。唯々衝動的に、人を殺したくなるのだ。警察がこの小屋に来たこともあった。キャンプ場で行方不明者が多数出ているのだから、辺りを捜索するのは当然だろう。まだ若い、あどけない感じの男だった。私は小屋に彼を招き入れ、殺した。私の殺しの邪魔をするものは、許さない。絶対にだ。
私は獲物を見つけるために、キャンプ場へ向かった。ところどころに、警官が数名いる。『森に入るな。行方不明者多数』などと書かれた看板が置いてあった。私は警官から見えにくい場所を考え、その近くで遊んでいた一人の子供に目をつけた。後ろから近づき、口に手を当てる。暴れたので頬を軽く殴り、「おとなしくしろ…」と低い声で脅した。子供は涙目になり、おとなしくなった。男は子供を連れ、住んでいる小屋へと向かった。
男は子供を小屋の中に突き飛ばす。そして近くに置いてある少し錆び付いた包丁を手に取り、子供へと突き刺した。子供の体が痙攣し、悲鳴が小屋の中に響く。男は耳障りだというように子供の喉へ向かい包丁を突き刺した。一際大きく体が震えた後、子供は目を見開いたまま死んでいた。男は子供が死んだ後も包丁を突き刺すのをやめなかった。
あれからどのくらい経ったのだろう。時間の感覚がない。小屋は一面血だらけで、男の前には先ほどの子供の面影すらない肉塊があった。それを見つめながらぼ〜っとしていると、いきなり小屋の扉が開けられ、明るい光が男と肉塊を映し出した。
「ひっ!?なんだこれは!!」
侵入者は、警官だった。私は彼を殺そうとしたが、彼の後ろに何名かの話し声が聞こえ、足音が近づいてきていた。顔を見られたが、しかたがない。逃げなければ。私は手に持っていた包丁を警官に投げつけた。男が投げた包丁は警官の腕に刺さり、その手に持っていた懐中電灯が地面へと落ちる。私はその警官を殴り、小屋から森の中へと逃げ出した。背後で警官が何か叫んでいるが、その声を無視して私は走った。
パァン…
大きな音が森に響き渡った。胸が痛い。私は胸に手を当てた。ヌル…。手に血が付いていた。先ほどの警官が持っていた銃で打ったのだろう。血の匂いが辺りに漂う。体が重い。私は近くにあった木にもたれ、目を閉じた。体から何かが失われていく感覚がする…。ふ、と昔のことがまるで走馬灯のように思い出された。妻と出会い、結婚し、子供が生まれ、成長していった…。そう、あの頃は、確かに幸せだった。いつからあんな風に思い始めたのだろう。思い出せない。幸せだった日々は色あせていくと何かの本に書いてあったな…。
ああ、目が霞んできた。頭に霧がかかったようだ。私はここで死ぬのだろう。不思議と、死ぬのは怖くなかった。なぜだろう。
息を吸うのが辛い。目を閉じ、終わりが来るのを待つ。
ガサリ、と目の前から音がした。なぜかこの時、私は目を開けなければいけないと思った。ゆっくり、ゆっくりと目を開ける。ぼやけた視界の先にいたのは、普通の狼より一際大きな狼だった。私はその狼の瞳を見た瞬間、あの時の狼だと気がついた。目が合わさった。男はじっと見ていたその瞳の奥に何かを見つけ、悟ったかのように笑い、ゆっくりと目を閉じた。
「ああ、そうか…」
そう呟くと、男は息を引き取った。狼は死んだ男を見て、やがてゆっくりと牙をむいた。
男の血の跡を追い、森を捜索していた警官が見つけたのは地面に染み込んだ、おびただしい量の血の跡だった。男の姿はなく、森に住む獣に食われたのだろう。警察はそう結論づけた。
そしてまた、夏が来た。暑く、とても静かな満月の夜。今日も、人とも獣ともつかない哭き声は森に響き、やがてゆっくりと消えていった。