68:犬
マイは、音もなく、しかし、恐ろしい速度で洞窟内を踏破していく。
通りすがりの賊を躊躇なく潰しながら。
喉を、目を、口を、腕を、足を。
速度重視。
手っ取り早ければ殺し、手っ取り早ければ気絶させる。
誰も見ていない。誰にも見られない。
鞭の先に槍先のついた特殊な鞭を振るいながら走る。
鞭術上級。そして、隠密術上級。
暗殺者として育てられたマイにとっては何の苦もない――難易度的な意味で――行為。
例えいるとわかっていても、静かに仕留める術を持った少女。
◇◇◇
ハンドブルグ家現当主であるライムの父ミザライドにはマーゴールという兄がいる。
当時の当主の長男であったが放浪癖がひどく、本人も家は継がない、
と宣言した結果、次男であったミザライドが継ぐことになった。
さて、そのマーゴールが2年ほど――いつもに比べれば短い期間だ――家を空け帰ってきたことがある。
その時につれてきたのが、レイとマイの姉妹である。
『誰なんだ? こいつらは』
『俺のこと殺しにきた。ちゃんと躾けたから大丈夫だ。もう暴れないから。頼むぜ』
『その念押しが逆に怖ぇよ……』
そういって、ゲラゲラと笑うマーゴールと、頭を抱え首を振るミザライド。
殺し屋の子供をどうするのか、ミザライドは悩んだ。
放逐、いや、処断してしかるべき案件だが……
殺されかけた本人が、珍しく事後処理をした上で、頼むと言ったのだ。
それを無視してよいものか……
ふと思い出すのは、野犬のような二人の嫌な眼。
マーゴールのいう躾とは大方、無暗に噛みつかない、程度のものだったのだろう。
数日考え、ミザライドは、家の仕事を与えてみた。
二人のことはそこで働いていたメイド達――と言ってもある程度の荒事ならこなせる――に任せた。
ミザライドはことなかれ主義であった。
そこでわかったのは、二人の過去。
殺し屋として育てられた妹と、その補佐役として育てられた姉。
妹には殺し屋としての天賦の才があったのだ。
殺ししか知らない二人であったが、マーゴールの躾がよかったのか、メイド達の熱心さが人間性を育てたのか。
数年後には、普通に育てられたかのような少女になっていた。
ミザライドは、錬金術スキルの高い姉を三男ファルムの侍女に、隠密術の強い妹マイをライムの侍女にした。
家臣の中にはそれに反対するものもいたが、ミザライドはよい決断だと思っていた。
そして、レイもマイも、ハンドブルグ家の面々に感謝していた。
犬畜生以下であった自分達を一等ましなモノにしてもらったのだから。
マイもレイも、ハンドブルグ家に忠誠を誓った。
◇◇◇
マイにとってライムの命令は絶対である。
ちらと、視線の端に小部屋が見えた。
わずかにその速度が落ちる。
自分もこうやって捕らえられ、そして、このような人間にさせられてしまったのだろうか。
しかし、マイはグッと歯を噛みしめ、速度を上げる。
マイにとってライムの命令は、絶対なのだ。
社会一般における正義、例えば人質の命と天秤にかけたとしても。
そして、その卓越したスキルで敵を屠り、痕跡を探る。
――近い。
確かに今、オトの声が聞こえた。
まだ、距離はある。
しかし、例え洞窟のなかであろうとも、マイには十分であった。
るーるといった気がして、それの意味を図っていると、マイの耳がわずかな違和を感じ取った。
背後。
――バカな。
マイは身体をコマのように回しながら姿勢を低くし、その気配に正体する。
赤褐色の派手なスーツをした男。
「まだ何もしてない。いや、しようとは思ったんだけどさ。よく気がついたな」
どこか嬉しそうにマイを見ながら、右眉の上を右中指でトントンと叩いている。
と、その瞬間にさらなる気配――殺気。
低い姿勢のまま後ろへ跳ねた。
空気を圧し潰しながらマイのいた場所に鉄球が降ってきた。
そのまま地面に叩きつけられる。
地面は陥没し、砕かれた地面は砂塵と石塊をぶちまけた。
鉄の棒の先についた球にトゲのついた武器、モーニングスターだ。
破壊力に重きを置いており、防いだ武器や防具をそのまま砕いてしまうような武器である。
しかし、その分、鈍重だ。
一方のマイの武器、鞭は鞭は剣のように鍔迫り合いができない故に、敵の攻撃は躱し捌く必要がある。
故に近距離は不得手で、中近距離で戦うこととなる。
モーニングスターのような槌はどちらかと言えば相手にしやすい。
マラカスを片手にタコ躍りを決めるバカを遠くから打ち据えればよいのだから。
しかし、そうはならなかった。
マイが開けた距離を男は一瞬で詰めると、勢いそのまま顔面に向けてモーニングスターを突きだした。
相当な重量のモーニングスターを右手一本で操っているにも関わらず、軽めの剣の剣速にも劣らない速度の攻撃。
マイは後退する身体を左足一本で制御し、男の右手側に身体を移す。
片手で武器を操る場合、持っている腕側へは即座に対応できない。
追撃するためには、手打ちするか、身体を入れ替える必要がある。
マイは、側面を取るとその右腕を取るべく鞭を振るおうとした。
しかし、次の瞬間重心を乗せていた足に衝撃。
バカな――男に動きはなかった。
視線だけで足元を確認する。
ヒトの頭ほどある巨大なダンゴムシ。
「気持ち悪いの」
あまりにも突拍子なさすぎて、マイは思わず感想を漏らすが、即座に意識を引き戻す。
衝撃を受け止めず、側転するように身体を浮かせて、男の持つモーニングスターに向けて鞭を放った。
ヒュッと鋭い音と共に鞭の先がモーニングスターに絡み付く。
モーニングスターの動きが阻害された。
ただし、一瞬。
男はモーニングスターを無遠慮に振りかぶると、力任せに壁に叩きつける。
――しまったの。
体勢が整っていないと舐めていた。
空中にいるとはいえ、マイはバランスを取れていた。
ゆえに、男を御せると考えたが、男のほうが一枚上手だ。
マイはすぐに鞭をほどくと、空中のままでバランスを取り壁に足から着地する。
と、そこへさらなモーニングスターが叩きつけられる。
マイは空中へ逃れるが、それは失敗であった。
子犬ほどもある、巨大な蟹が、どうやってか、天井に張り付いていた。
そして、その巨大な鋏を振り上げている。
「どうなってるの!?」
マイは壁の突起に鞭を巻き付けるべく振るう。
が、しかしわずかに遅かった。
金属にも似た外殻がギラリと煌めき、マイの腹部に叩きつけられる。
――グボォ。
胃が、肝臓が、腎臓が。
逃げ場を失った臓器が、マイの小さな身体の中で居場所を求めて跳ね回る。
浮き上がった胃に追いやられ、肺にあった空気がすべておい出された。
そして、それを吸う余裕もなく地面にぶち当たる。
受け身などとる暇もなく、背中を強かに打ち付けた。
喉が空気を求め、奇妙な音を鳴らす。
目の前がキラキラと煌めくが、その中に鈍く輝くものが近づく。
マイはほぼ、反射で鞭を振るった。
鞭は蛇が這うように地面をいくと、壁から飛び出ていた岩に巻き付き、
マイはそれを起点に転がるように身体をずらす。
そのすぐそばにモーニングスターが叩きつけられた。
地面が破裂し、その勢いでマイに身体は壁まで吹き飛ぶ。
「おんやぁ? まだ生きてんのか」
マイは歯を噛みしめながら、身体を起こす。
頭からも口からも血を流しながら。
「最初見たときは、迷い混んだ貴族の雌猫かと思ったが、存外やるじゃあないか。
その目、ずいぶんと悪辣な目。あれだ、お前犬だな」




