5:魔物が!
土を均しただけの道路沿いには、広葉樹が青々と茂っていて、近くの畑には菜の花が大量に育てられている。
奥の方には、稲作用の田んぼがだんだんと作られていた。
その中、俺は腰には剣を、背にはバックパックを背負い歩いている。
「おい、どうした。学校へ行くぞ」
十歳になると近くの学校とやらに行かねばならんらしい。
二年ほど通うことになるようだ。その後三年中等部に行く。
だいたいそこで終わりだが、貴族はその上の高等部まで行くそうだ。
ようようと歩く俺の後ろを侍女たるミルウーダがとぼとぼとと着いてくる。
さも、行きたくないというのを表しているように見えた。
「坊ちゃん。勉強ですよ? えらい楽しそうですが。いや、そうか。確かに私もガキの一年生やってるときは勉強が楽しいかも、なんて思ってたもんですけどね……」
「何を言ってる。知識とは宝だぞ」
知識とは一切リスクのない財産だ。
知らなけらばしなかった失敗と、知らなくてしてしまった失敗では意味合いが全く変わる。
「ですがね~ 坊ちゃんが今学校に行って得るものなんてありますかねぇ」
俺は、ここ数年の間で文字の読み書きをマスターしていた。
算術の方は前世のころから苦手だったが何とかコツらしきものはマスターできた、と思う。
なんせ、教師がこの女であったのだ。不安で仕方ない。
がしかし、俺はその不安を無視してでも学校へ行く。
恐らく、高等算術を学ばせてくれるはずである。
魔方陣幾何学や魔術代数学など学べれば、俺の魔法への応用が開けるはずだ。
俺は剣術、槍術を鍛錬しながら同時並行で二年ほど魔術を独学していた。
何冊も魔術の本を読み、幾度となく魔術の練習を行った。
前世では物理だろうが魔法だろうが魔王様から古今無双の名をいただいた俺だったが、どれだけやっても魔術に関しては全くできなかった。
こればっかりは、教師のせいにもできない。なんせ剣術指南役を頼んでおいて専門以外ができないと馬鹿にするわけにもいかないのだ。
ちなみに、母上から学ぶ、というのは不可能だ。
それは、龍になぜ強いかを問うようなものである。あの人は、できない人の気持ちなど理解できないのだ。
父上曰く「見よう見まねで魔法を使う」という偉業を成し遂げたらしい。
訓練さえ積めば、よい魔法使いになれたであろうに。もったいない。
そこでふと思った。
実際のところミルウーダから剣術を学んだことはないわけだが。戦闘相手の専門家でしかない。
「お前さ、俺の戦闘訓練の相手くらいしかしてないけどいる意味あるのか?」
ミルウーダは、はたと止まった。そして、自らの身体を抱き寄せ身体をくねらせた。
「坊ちゃん。確かに坊ちゃんが熟れた身体に興味あるのはわかりますけど~ 戦闘訓練以外の“相手”はちょっとねぇ~ 坊ちゃんは私の守備範囲外かなぁ。あ、坊ちゃんのその気持ちはね、うれしいんですけどねぇ」
「熟れてるのは身体じゃなくて、脳みそじゃないか? しかもグジュグジュに熟れて身が崩れてんじゃないのか?」
こいつは何を勘違いしているのだ。
「お前、この前俺の入学が楽しみだって言ってたろ。なんでそんな嫌そうなんだよ」
「ああ、確かに言いましたね。言いましたけど、別に学校は嫌いなんで行きたくないです」
至極当然ときっぱりと言い放つ。
「じゃぁ何でついてきたんだよ」
「いやぁ、家庭教師とはいえ従者みたいなもんですし、来いと言われればついていくしかないじゃないですか~。魔物が出るならまだしもこんなところじゃ出ないだろうし」
俺は、腰に下がっている剣を抜きそうになるのを必死にこらえる。
いや、今なら緊急時における戦闘訓練とか言い訳つけていけるんじゃないか?
最近、結構やり合えてるし。
などという思考は、おくびにも出さない。
「なら何が楽しみだったんだよ」
「いえ、坊ちゃんがいなけりゃ、ワタシ、オうちデごーろごろ」
俺は大きく嘆息した。そして、眉の根に大きく寄ったしわを揉み込む。
こいつと一戦やってやろうかという、戦意がしわしわとしぼんでいくのが分かった。
そういえば、四天王ではないものの、四天王を含め軍を差配していた男が今の俺と同じ行動をとっていたな。
あの時はわからなかったが、こんな気持ちだったのだな。察してやれずすまんかった。
「わかったよ、母上にはお前からうまくいっておけ」
次の瞬間、ミルウーダはわ~いと飛んで踵を返した。
一人になった俺は、また、学校への道を歩き始めた。徒歩で三十分ほど歩く。
鍛錬がてら走るか。俺は、荷を確認する。
母上が持たせてくれたおにぎりが心配だ。特にその隣にある甘い卵焼きがつぶれてしまうと思うと恐怖すら覚える。
がしかし、この修練への欲求は押さえられるものではない。
揺らさずに走る。などという、新たな訓練方法を見出し数メートル走ったところで悲鳴が聞こえた。
「誰か! 魔物が!」
魔物。前世であれば俺の眷属だが、今世では違う。
魔王様がいないこの世界では魔族、というものはいないらしい。魔物とは、魔素が濃くなりすぎると現れるモンスターだ。
その辺の動物に取り付いたり植物に取り付いて暴れまわる。時には、何にも取りつかなくても現れて暴れるらしい。
以前の俺ってそんな感じだったのか、はた迷惑な野郎だ。いや、この世界の魔物とあの俺は違うはずだ。
など詮無きことが頭をぐるぐる回りだしたので、その思考を強引に断ち切る。
「大丈夫か?」
俺は、悲鳴のもとへ走った。そこにいたのは、銀色をした髪の少女であった。
俺は慌ててその少女に近寄る。
皮膚は下の毛細血管が透けて見えるほど白く、その怯えた瞳孔はほとんど赤と言っていい色をしていた。
髪の隙間からちらと見えた耳は人よりわずかにとがっているように見える。
そして、その上、容姿は今まで見たどの人族よりも美しい。
俺は思わず言葉をこぼす。
「あんたヴァンパイアか? 久しぶりに見たなぁ」
「へぇ?」
少女は、めいいっぱいのクエスチョンマークを頭部のわずか上空五センチのところに大量に浮かべる。
が、即座に視線を戻して、もう一度叫んだ。
「助けてください!」
俺もそこでやっとその悲鳴を上げるに至った原因に目をやる。
十メートル前方にいたのは、イノシシであった。雄々しく上を向いた牙がギラリと光る。
が、ただのイノシシではない。足の先から背中までが二メートルほどある。
目はらんらんと輝き、口から涎を垂らしている。
どういった進化をしたのか、四つ足すべてに蹴爪が生えていた。
そして、右前脚部が異常に発達している。
「えっと、イノシシの魔物は、なんだったっけなぁ。どす、どすふぁ――」
「名前なんていいから助けてください!」
魔物にも自身を誇るための名前がある。それをどうでもいいなどとは、何たる非情なことを。
などとも思うが、魔物の理屈は確かに理解しづらいものがあるだろう。
そして、俺は高揚していた。
あのミルウーダ以外との戦闘は初である。この身体では、だが。
俺は、少女を背にかばうように進み出ると、剣を抜き放つ。そして、そのイノシシの化け物と対峙する。
剣がギラリと太陽光を反射した。入学祝にと、父上が新調してくれたものだ。
修練で使っていたものより柄一個分長いのは俺の希望である。
本当はもう少し長い方がよかったがさすがにバランスが悪かったのであきらめた。
一方の化けイノシシは、地面を前足で何度も均し始める。突進の準備であろう。
俺は、それに備え身体の筋肉を一瞬で緊張させた。お互いの気が張り詰めあっていく。
そして、先に化けイノシシのそれが弾けた。
「んごぉぃぃぃぎひぃぃぃいいい」
雄たけびと共に突進。俺は、緊張していた筋肉を瞬時にほぐす。
全身の血液が脳みそに上がってくるのを、意志だけで必要な部分に再分配。
眼球にはうすらぼんやりと対象をとらえさせる。
鼓膜の内部では化けイノシシの動きに関する音のみが取捨選択される。
それをもとに脳が自動で必要な動きを計算し、瞬時に各筋肉に指令を出した。
化けイノシシとの衝突は瞬く時間で訪れる。
その刹那、最初に動いたのはわずかに前に構えていた右脚であった。
右脚がわずかに宙に浮くと、ついでそれに呼応し左脚が身体を前進させる。
化けイノシシが二メートル手前で飛びかかった。前脚で俺の顔面を踏み砕く気だ。
それに俺は応じるべく、今度は左腕に力が入る。それを右腕がコントロール。
剣の刃を化けイノシシの鼻っ柱に叩き込んだ。
ブチリという感覚。俺は、さらに両腕に力を籠める。
さらに、前進を突進へと変えるべく脚に指令が下る。
【我流剣術:初級乙】
《我流真空刃:初級乙》
《我流合気:初級甲》
《我流見切り:中級乙》
《 我流後の先:初級甲 》
ごお。
剣は頭蓋骨を両断し、背骨を二本に断ち割った。
バシャンという音と共に化けイノシシが血だまりに沈む。
俺は右腕を開いては握って見せた。問題はない。
「大丈夫か?」
俺は振り返ると少女に向かって手を伸ばした。
少女は座り込んでしまっていたからだ。
少女は、その手を見て少しだけ考えたような目をした。
「……き……こふぅ」
どうやら叫ぼうとして、失敗したようである。俺の身体に身を預けるように倒れるとそのまま気絶してしまった。
なぜだ、と、自身の全身をみやる。
化けイノシシの血を頭からかぶっており、その臓物が上半身にびっちりとこびりついている。
さらに、糞尿の匂いが辺りを漂っていた。
「……なぜ気絶した」
俺にはやはりわからなかったが、とりあえず今日の食事に持ち帰ろうと化けイノシシの解体を始めた。