第二話 螺鈿の小函
一
御園駅で汽車を降りた千鶴は、改札口で駅員に切符を渡して真新しい駅舎を出た途端、途方に暮れてしまった。
駅前には一本だけ瓦斯燈があり、ぼんやりとしたその明かりに虫たちが賑やかな羽音を立てて集まっている。
ここで汽車を降りたのは、御園駅までの切符しか買えなかったからだ。
すでに、財布の中はわずかばかりの小銭しか残っておらず、食堂に入って夕食にありつくこともできない。
取り敢えず、今夜はこの町で一泊することにしよう、と千鶴は腹を決めた。
現金はもう底を着いていたが、換金出来る物は持っている。これらの品々を質屋に持ち込めば、それなりの現金を得られるはずだ。
まずは今夜の宿を探さなければ、と考えたところで、千鶴はどうやって宿を探せば良いのだろうかと悩んだ。
大きな駅ならば、駅前には人力車の人足たちが客を待ちかまえていて、宿に案内して欲しいと一言伝えれば目的地まで俥で運んでくれるものだが、この駅前には人足どころか人影も途絶えている。
汽車が賑やかな汽笛と蒸気を吐き出すの音を立てて御園駅から去った後は、虫の羽音と街路樹の枝葉が風に揺れる音しか聞こえてこない。
そういえばこの駅で降りたのはわたくし一人だったわね、と閑散とした駅前の景色をぼんやりと眺めながら、二つ手前の駅で降りるべきだった、と後悔した。あそこなら千鶴も一度だけとはいえ降りたことがある駅だったし、確かここよりももう少し大きな町のはずだ。
「お客さん、これからどちらに行かれるので?」
茫然と駅舎前で立ちつくす千鶴の様子を心配したのか、白木の駅員室からまだ年若い駅員が出てきて千鶴に声をかけた。
「いくら田舎町とはいえ、あまり遅い時間帯に若いお嬢さんが一人歩きをするのは物騒ですよ」
大きな旅行鞄と風呂敷包みを抱えた千鶴の格好をどう解釈したのか、駅員は訝しげな目つきで千鶴を見つめる。
「この近くに、宿はありませんか?」
無遠慮な視線にたじろぎつつ、千鶴は尋ねた。
駅前の通りの両側に立ち並ぶ幾つもの店は、どれも暖簾を外し、ぴたりと戸が閉められている。
この駅員に尋ねなければ、今夜一晩は宿屋を探して町中を彷徨う羽目になりそうな気がした。
「宿、ですか? この町に、宿は一軒しかありませんよ。伊槻屋といって、この通りをずっと真っ直ぐに進んで行くと左手側に神社があるのですが、そこの角を左に曲がって、五軒目です。もうこの時間帯なら伊槻屋さんも暖簾を降ろしているでしょうけど、行って扉を叩けば誰か出てきます。頼めば泊めてくれるはずですよ」
「伊槻屋、ですね」
神社を左に曲がって五軒目、と千鶴は頭に叩き込んだ。
「有り難うございます。これから訪ねてみます」
町内に宿屋が一軒しかないなんて、とこの鄙びた田舎町の現状とそこに降り立ってしまった自分の状況に内心嘆きもしたが、ここまできた以上、躊躇している暇などないのだ。
もし部屋がいっぱいだったらどうしよう、という想像が一瞬だけ脳裏を過ぎったが、千鶴の表情からそんな彼女の心境を読み取ったらしい駅員が一言付け加えた。
「伊槻屋は満室になるということがない宿ですから、心配せずとも飛び込みでも大丈夫ですよ」
もし物凄く襤褸い宿だったり高級な宿だったりしたらどうしよう、とすぐさま千鶴は別の不安を覚えたが、それ以上駅員は何も言わずに駅員室へと戻って行ってしまった。
仕方なく、千鶴は荷物を抱え直して、教えてもらった伊槻屋へと向かうことにした。
所持金はないが、空腹だったし、布団の上でゆっくりと休みたかった。
明日は宿で質屋の場所を訊いて、手持ちの物の幾つかを現金に換えよう、と考えながら、千鶴は歩き出した。
伊槻屋へは、迷うことなく辿り着くことができた。
暖簾はまだ降ろされていなかったし、玄関先には火が灯された行灯があり、紙の覆いの部分には墨で黒々と「伊槻屋」と屋号が記されていた。
いらっしゃいまし、と千鶴を出迎えたのは、中年の女中だった。
日が暮れた時刻に十代半ばの千鶴が一人で泊めて欲しいと訪ねてきても驚いた様子も見せず、部屋に案内してくれた。
お食事はお済みですか、と尋ねられ、まだだと答えると、簡単なお膳で宜しければご用意出来ますが、と言うので、部屋に運んで貰うことにした。
伊槻屋は襤褸でも高級でもない、そこそこに立派な家屋の宿屋だった。
帳場には人の姿はなく、行灯だけがひっそりと仄かな明かりを放っている。
牡丹の間、と入り口に札が掛けられている部屋に通され、荷物を部屋の片隅に放り出して座布団の上に座り込んだところで、そういえば一泊の宿代がいくらなのか訊くのを忘れていた、ということに気づいた。
床の間に置かれた花瓶には真っ赤な牡丹の花が一輪、飾られている。
障子や畳、欄間を一通りぐるりと見回して、安宿というわけでもなさそうだ、と千鶴は判断した。
調度品はどれも立派な物が揃っているし、室内の行灯も油を惜しむこともなく煌煌と灯している。
「お待たせいたしました。お食事をお持ち致しました」
先程の女中の声が廊下から響いてきたかと思うと、襖が開いて、料理が載った膳と盆の上に湯飲みと茶瓶を乗せて、それを器用に片手ずつで持った女中が部屋に入ってきた。
待たせたとは言われたものの、千鶴は一息つく間もなかったように感じた。
蝶足の膳は漆塗りで、湯飲みと茶瓶を乗せた盆も漆塗りに金粉で模様が入っていたのには千鶴も驚いた。
湯飲みに茶を注ぐと、女中は茶托の上に乗せた湯飲みを座卓の上に置き、茶請けの菓子も並べる。
「お食事はこのままで宜しいでしょうか?」
女中に尋ねられ、千鶴はこくこくと頷きつつ、質屋の場所を訊いておかなければならないことを思い出した。このままでは明日の朝一番に質屋に出向いて現金を用立てなければ宿代が払えない。
「今日は、わたくし以外に何人くらい泊まっていらっしゃるんですか?」
取り敢えず世間話から始めてみよう、と考え、千鶴は女中に尋ねた。
「今夜のお泊まりはお客様お一人です」
にこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべて女中は答える。
「先月、この御園町にもようやく鉄道の駅が出来ましたが、まだ外からこの町においでになるという方は滅多にいらっしゃいません。旅の途中でお立ち寄り下さった方は、お客様が初めてですよ」
あの駅は先月出来たばかりだったのか、と千鶴は愕然とした。
どうりでやたらと建てたばかりの木の香りがする駅舎だと思った。
そんな駅に、財布の中の有り金で買える最長距離の切符を買って降りた自分は、なんの因果でこの宿に泊まる羽目になったのだろう、と妙な気分を覚えた。
「ここは、余所からおいでいただいても特に観るべき旧所名跡があるわけでも、有名な寺社があるわけでも、著名な人物が住んでいるわけでもないのですよ」
多分、あの御園駅で降りる客はこの町の住人か、住人を訪ねてくる客くらいなのだろう。
だからこそ、見かけない顔の千鶴に駅員は珍しそうに声を掛けてきたのだ。
御園駅を降りてどこへ向かうのだろう、と。
「あの、わたくし、明日質屋に行きたいのですが、この近くで質屋はありますか?」
もしかして質屋も町内に一軒しかなかったりして、と千鶴は考えた。
町内では見かけない顔の自分が物を持ち込んでも、足下を見られて大した金に換えられないかもしれない、という不安はあったが、現金がないことにはこの宿から出ることすら出来ないので仕方ない。
「質屋、ですか?」
突然の質問に困惑した表情を浮かべて女中が頬に手を当てて続けた。
「申し訳ありませんが、御園町には質屋はないんですよ」
「え?」
質屋がない町なんてあるとは考えもしなかった千鶴は、唖然として女中の顔を凝視した。
「そういうお商売をしているところは、この町内にはありませんのよ。質屋を必要とする人がこの町にはいないものですからねぇ。確か、隣町にはあったと思いますけど」
町の住人の誰もが質屋を必要としない、という事実に千鶴は更に驚いた。
そんなことがあるのだろうか。
「そんな……」
どうしよう、と千鶴は湯飲みに向かって伸ばした手を止め、硬直した。
二
「旦那様、ちょっとお邪魔しても宜しいでしょうか?」
廊下から嘉代の声が聞こえたかと思うと、返事をする間もなくすっと障子が開かれた。
「なんだい?」
読んでいた本から顔を上げた要は、読書の邪魔をされたことを別段気にする様子もなく、入ってきた嘉代に尋ねる。
部屋の隅で床の間の前に積まれた本の山の片づけをしていた珠紀も、黙って嘉代に視線を向けた。どうやら珠紀は要に本を借りるために部屋を訪れたようだが、目的の本を探すのに苦心している様子だ。
「ちょっとこれを見ていただきたいんですけどね」
そう告げると、嘉代は座卓の上に小さな函を置いた。
「おや。螺鈿の小函だね。上等な漆塗りだし、細工も凝ってる。これはなかなかの逸品だよ」
手には取らずに、要は横目で一瞥して軽い口調で評した。
「珠紀君も見てみたまえ」
珠紀を手招きすると、徳用燐寸箱くらいの大きさの小函を指した。
「年代物だと思わないかい?」
「そうですね。百二、三十年といったところでしょうか。造りも丁寧ですし、立派な物のようですね」
螺鈿で蝶を象り、金箔で草花を描いた漆塗りの小函は、かなり価値があるらしいことは珠紀もわかったが、それが一体幾らくらいするものなのかは判断のしようがなかった。
物の善し悪しや年代はわかるが、古道具屋や骨董商ではないので、市場の相場まではわからない。
「先程いらしたお客様が、現金の持ち合わせがないのでこれを宿代にして欲しい、とおっしゃっているんですけど」
顔を顰めた嘉代は、そう言って渡された小函はちらりと見ると溜息を一つ吐いた。
「一体幾らお釣りを渡せばいいのやら」
そういう問題ではないだろう、と要は思わず唸ったが、珠紀が物珍しそうに小函に顔を近づけて眺めだしたものだから、この小函には適当な値段を付けて一泊の宿代を差し引いて残りの金額を渡すのは容易いかもしれない、と考え直す。
問題は、この小函に一体幾らの値段を付けるか、だ。
「そうだねぇ」
腕組をして要が頭の中で算盤をはじいたときだった。
「駄目です」
唐突に、小函を見つめていた珠紀が珍しくきっぱりとした口調で言い切った。
「この小函は、お客様のお手元にお返しした方が良い物です。宿代としていただくことはできません」
「へぇ、そうなの?」
煙草盆から煙管を取り上げながら、要はのんびりとした口調で続ける。
「ま、うちだってそんなに現金の持ち合わせがあるわけでもないしね。これだけの品を受け取って釣りを渡そうと思ったら、ただでさえ傾いている私の身代が潰れてしまうだろうね」
一応は身代が傾いている自覚はあったのか、と嘉代は心の中で呟いた。
伊槻屋は世辞にも繁盛しているとは言い難い。
この御園町に宿屋が伊槻屋以外は一軒も存在していないのは需要がないからであって、その一軒しかない伊槻屋も滅多に客はなく閑古鳥がひっきりなしに鳴いている状態だ。
先月になってついに待望の鉄道駅が御園町にも出来たので、これで少しは泊まり客も増えるかとかすかな期待をしてみたが、一月が過ぎた現在も客足は伸びていない。
それでもこうやってたまに思い出したように客が姿を見せる。
元々伊槻屋は主人である伊槻要の酔狂と道楽によって営まれているようなものなので、商売っ気はほとんどない。
そもそもが街道から大きく外れた御園町で一晩宿を取ろうとする人そのものが珍しいのだから、繁盛するわけがないのだ。
伊槻屋がいまだ潰れずにいるのは、要の実家が裕福な資産家であり、本家から要にある程度の支援があるからこそ続いているのだ。
「牡丹の間のお客様なんですけどね。最初、お客様は質屋を紹介して欲しい、とおっしゃられたんです。それであたしがこの町には質屋は無いと答えると、自分には現金の持ち合わせがないのでこれを宿代として受け取って欲しいとおっしゃって、この小函を鞄の中から出されたんですよ」
「ふうん」
煙管に刻み煙草を詰めて燐寸で火を点けた要は、一口吸うとふーっと白い煙を吐き出した。
煙草の煙を嫌う珠紀は軽く顔を顰める。
「珠紀君が反対するなら、この小函は宿代としては受け取れないね。かといって、無銭宿泊ってわけにもいかないしね」
それはそうだろう、と嘉代も頷いた。
いくら酔狂と道楽の宿屋とはいえ、慈善事業ではないのだ。
宿代はきっちりと払って貰わなければ困る。
「珠紀君、なんとかしたまえ」
余程のことがない限り決して自分では動こうとしない要は、やんわりとではあるか珠紀に命じた。
小函から視線を上げてちらりと要を見た珠紀は、別段困った様子も見せずに、わかりました、と素っ気ない口調で答える。
「嘉代さん、この小函はお客様に返しておいて下さい。宿代の工面については、明日わたしがお客様と相談します」
「では、後は珠紀さんにお任せしますよ」
ほっと一安心した様子で顔を和ませた嘉代は、座卓の上に置いた小函を手に取ると、そそくさと部屋を後にした。
「あんな素晴らしい小函を質屋に入れようなんて、随分と物の価値を知らない客もいるもんだね」
煙管をくわえたまま読書を再開するために本を手に取った要は、閉められた障子の向こう側にある廊下を渡った表向きにある客室を見据えるように、呟いた。
「物の価値なんて、人によって異なるものですから」
本の探索を再開した珠紀は、淡々と答える。
「でも、あれはまだしばらくは今夜のお客さんの手元にあるべき物なのです。まだあの小函を手放す時期ではないのです」
「時期、ね」
一体どういう客なんだろうね、と要は独り言ちたが、その口調から客に対する興味や好奇心はまったくと言って良いほどに感じられなかった。
三
小函は宿代としていただくわけには参りません、と女中が小函を携えて部屋に戻ってきたものだから、千鶴はどうやってここの宿代を払えば良いのかわからないまま朝を迎えてしまった。
昨夜はあまり心休まることはなかったが、それでも身体は疲れ切っていたものだから、布団に入って横になっているうちに眠りに落ちていたらしい。
目覚めた時には、既に日は高く昇っていた。
「おはようございます。よくお休みになれましたか? 朝餉のお膳をこちらにお運びしてもよろしいでしょうか」
千鶴が起きたことにどうやって気づいたのか、布団から身を起こしてぼんやりとしていると、襖の向こう側の廊下から昨夜の女中の声が響いた。
お願いします、と答えると、女中が襖を開けて入ってきた。
朝食が載った膳を見つめながら、そういえば宿代をどうやって支払おう、と千鶴は昨夜から苦慮する難題に再び直面した。
宿代の工面も問題だったが、何よりも千鶴は現金を必要としていた。
現金がなければ宿を出て昨夜降りた駅まで行っても切符が買えない。
運賃が払えなければ汽車には乗せて貰えないし、目的地に辿り着くことも出来ない。
千鶴はどうしても、行かなければならなかった。
寝間着姿のまま黙々と千鶴が食事をしていると、配膳をしてくれていた女中がふと思い出したように告げた。
「お客様の宿代の件ですが」
ぴくっと身体を強張らせ、千鶴が動かしていた箸を止めると、女中は続けた。
「後で別の者がお客様の相談に乗りますので、お待ちいただいても宜しいでしょうか」
「……はい」
緊張した面持ちで千鶴が頷くと、女中はくすっと笑った。
「ご心配なさらずとも、大丈夫ですよ。お客様を騙して人買いに売ろうって魂胆じゃありませんから」
そう言われれば、ますます千鶴の不安は増した。
昨日の初めての慣れない一人旅に緊張しっぱなしだったこともあって、家を飛び出した際の勢いは一晩で萎み、今はすっかり気分が沈んでいた。
なんだって自分は考えなしに荷物を掴んで家を飛び出したりしたんだろう、と世間知らずで甘かった自分を反省もしたが、家に連絡をして迎えに来て欲しいなどとは口が裂けても言いたくはなかった。
家に連れ戻される方が、今の状況よりも辛いことのように思えてならなかった。
千鶴が朝食を済ませ、女中が膳を下げて部屋から出て行くと、千鶴が着替えをして身支度を調えた頃を見計らったように一人の青年が訪ねてきた。
白いシャツに黒いズボンという洋装がよく似合い、珠紀と名乗ったこの青年は、千鶴よりも二つ三つくらい年上に見えた。
身体の線が細く、整った容貌が中性的で、男なのか女なのかよくわからない。透けるように白い肌はどこか人間離れした雰囲気が周囲を漂っているようだったが、一方で千鶴を前にして喋るその様子は人間臭さもあった。
人を見る目に自信はなかったが、千鶴の珠紀に対する第一印象は人が良さそうな人、というものだった。
「この町には質屋はありませんけど、古着屋はありますので、そこでお手持ちのお着物などをお売りになられてはいかがでしょうか」
千鶴が着ている幾何学模様の着物と薔薇模様の銘仙の羽織を見ながら、珠紀は提案した。
「着物を、売る?」
古着屋という商売があることは千鶴も知らないわけではなかったが、利用したことはなかったので、思いつきもしなかった。
「何着か、お着物をお持ちではないですか?」
「持ってますけど」
気に入りの着物と洋服は何着か持って家を出たので、千鶴の鞄と風呂敷包みに入っている。
「質屋ではありませんが、古道具屋もありますので、そちらで何かお道具をお持ちであればお売りになられれば、幾ばくかのお金にはなります。昨日、お客様がお出しになられた小函と必要な着物だけ残して、後は売り払われれば必要な路銀が手に入るでしょう」
必要な路銀、と言われて、千鶴はまじまじとこの珠紀と名乗る青年を見つめた。
自分がなにやら訳ありらしい旅行者であることは誰の目にも明らかである自覚は千鶴にもあった。
女中なども付き添わせずに一人で若い娘が旅をするなんて、常識では有り得ないのだ。
けれども事情も話さないうちから、まるで誰かに聞いたような顔をしているこの珠紀の態度は、千鶴をなんとなく不安にさせた。
まさかもう父や兄に自分の居場所が突き止められてしまったのだろうか、と千鶴は自分の顔から音を立てて血が退くのを感じた。
「ご心配は要りません」
青ざめた千鶴の表情をどう解釈したのか、珠紀はかすかに笑みを浮かべて告げた。
「今から古着屋と古道具屋へ行って、お手持ちの物をお売りになれば、午後一番の汽車には間に合います」
それはどういう意味だろう、と尋ねたかったが、時間がありません、と珠紀に急かされればそれ以上質問している暇はなかった。
旅行鞄と風呂敷包みを手に取ると、珠紀の後に付いて千鶴も伊槻屋を出た。
珠紀に案内された古着屋は、これまた町で一軒しかないという古着屋だった。
この町には同じ商売をしている店が二軒以上はないのだろうか、と千鶴は考えずにはいられなかった。
多分、そう広い町でもないのだろう。
それでも住宅地ということで、板塀で囲まれた家々が立ち並び、通りには昨夜は見かけなかった人の姿を見ることが出来た。
誰もが珠紀が連れている千鶴を珍しそうに見てはいたが、珠紀に挨拶をした後で黙って千鶴に会釈をして通り過ぎていく。
古着屋はそう大きな店ではなかったが、帳場には棚や箪笥、長持が所狭しと並べられ、ぎっしりと着物や洋服が詰め込まれていた。
珠紀が案内してきた客ということもあってか、古着屋の店主は古着屋の客には似つかわしくない上等な着物に身を包んだ千鶴にも愛想良く対応してくれた。
「おや、これはまた立派な着物だ」
嬉しげに声を上げた古着屋の店主は、千鶴が次々と並べていく着物を検分しては算盤を弾いていく。
最後に、五枚の着物と二枚の羽織に合わせて拾圓という値段を付けた。
それが適正な相場なのかどうかは着物など売ったことがない千鶴には判断のしようがなかったが、珠紀が何も口を挟まなかったところを見ると、そう悪い値段でもないのだろうと妥協することにする。
「ところでお客さん、あんた、洋服はお持ちでないかい?」
銭函から壱圓札を十枚取り出して数えながら、店主は千鶴に尋ねた。
「洋服、ですか? ……持ってますけど」
ここに来る途中ですれ違った人は誰もが着物を着ていたので、この町ではまだ珠紀のような洋装は珍しいのだろうか、と考え出さなかったのだ。
それに、持っている洋服はどれも気に入っているので、できれば売りたくはなかった。
「それは是非、見せて貰えないだろうか。実は今、洋服が欲しいというお馴染みさんがいてね。注文が細かいものだから、探すのに苦労しているんだよ」
どう見ても店の棚には着物が大半を占め、洋服はどれも男物ばかりのように見えた。
「お馴染みさんって、椿茶寮の美鳥ですか」
それまで黙って店主の妻が運んできた茶を飲んでいた珠紀が尋ねる。
「そうさ」
店主が頷く。
どうやら美鳥という人物は珠紀の知人のらしい。
「そういえば、薔薇模様の洋服が欲しいので探していると先日聞きましたが」
「それだよ。その薔薇模様ってやつを探しているんだが、なかなか見当たらなくってね。かと言って女給の給金では、新品だと高くてなかなか買えない物らしいね」
「でしょうね」
答える珠紀が着ているシャツとズボンは高級品のフランネルだろうと千鶴は見当をつけた。
どうやら伊槻屋の使用人ではないらしい珠紀は、所作から育ちの良さを窺い知ることが出来る。
「薔薇模様の洋服――」
ある、と口にしそうになって、千鶴は言葉を飲み込んだ。
洋服の中では彼女が一番気に入っている物で、宗征もとてもよく似合っていると誉めてくれたのだ。
売るには惜しい。
できればこの洋服を着てもう一度宗征に会いたかった。
「お持ちなら、お売りになった方がよろしいですよ」
迷っている様子の千鶴の顔をうかがっていた珠紀が、ぼそっと囁いた。
「拾圓では、少し足りませんから」
何処まで行くのに足りないと言うのだろう、と千鶴はどこまで珠紀が気づいているのか聞きたくて仕方なかったが、足りないと言われれば折角の提案に従って出すより他になかった。
この後で古道具屋に行くとはいえ、珠紀はそれほど売って身軽になれるような道具は持っていなかった。
「これと、これと」
古着屋の店主が期待を込めた目で千鶴を見るものだから、渋々二枚のブラウスと一枚のスカートを出す。
薔薇模様のワンピースはそのまま出さないつもりでいたのに、スカートを出す際に一緒に生地を掴んでしまったらしく、裾が鞄から出てしまった。
それを店主は目敏く見つける。
「お、これはなかなか理想的な薔薇模様の洋服だ」
今にも自分で手を伸ばして鞄から引っ張り出しかねない勢いで店主が身を乗り出してきたので、千鶴は少しだけ躊躇った挙げ句に、薔薇模様のワンピースも出した。
色鮮やかな真っ赤な薔薇が一面に散るそのワンピースは、場違いなほどに帳場を彩った。
「これは素敵だ。是非、引き取らせていただきたい。この洋服に、五拾銭出しましょう」
そんな値段で手放せるようなものではない、と千鶴は思ったが、さっとワンピースを掴んで手元に引き寄せた店主は、シャツとスカートを合わせてまた算盤を弾きだしていた。
「これら全部を合わせて拾弐圓ということでいかがでしょう?」
どういうわけか、店主は千鶴と珠紀の両方の顔を見た。
どちらも渋い表情のまま返事をしなかったので、店主はうーんと指でこめかみを押さえて唸ると、もう一度算盤を弾いた。
「では、拾参圓ということで」
「えぇ、それで結構です」
さっと頷いたのは珠紀の方だった。
なんで珠紀が了承するのだろう、と千鶴が抗議をする間もなく店主との間で商談は成立してしまう。
結局、千鶴は拾参圓を受け取って、珠紀に連れられるようにして古着屋を去った。
気に入りの薔薇模様のワンピースには後ろ髪を引かれる思いがしたが、半分以下に減った旅行鞄は軽く、千鶴は不思議と足取りも軽くなったような気分を味わっていた。
その後、古道具屋へ連れて行かれ、手鏡と櫛を売り払ったが、ここでも小函は引き取ってもらうことが出来なかった。
四
出来た現金のうちの宿代だと言って提示された壱圓を珠紀に渡すと、珠紀は千鶴を御園駅まで送ってくれた上に、弁当だと言って小さな包みを渡してくれた。
「良い旅を」
切符を買って列車に乗り込む千鶴を見送る際に、珠紀は穏やかな口調でそう告げた。
「いつか、貴女があの小函を手放す時が来ることでしょう。でもそれは、今日明日ではないのです。貴女はあの小函をまだしばらくは大切にお持ちください」
「わたくしが何処へ行こうとしているのか、貴方は御存知なのですか?」
出発前の汽車の窓から顔を出して千鶴が尋ねると、珠紀は首を横に振った。
「わたしが知っていることは、貴女が遠くへ旅立とうとしていることと、まだあの小函を手放す時期ではないということだけです」
まるで将来を見通すような物言いに、千鶴は惹かれた。
「そういえばあの函、実は開かないの」
小さな声で恥ずかしそうにこっそりと告白すると、珠紀は微笑んだ。
「大丈夫。いつか、開きますから」
「それって、いつ?」
「いつか、ですよ。貴女にとって、あの小函の中身が必要となる、いつか。もしかしたら、貴女ではなく貴女の子供や孫が開けるかもしれませんけれど」
それはつまり自分は一生必要とならないかもしれないということだ、と千鶴は考えて、この小函の中身は一体何なんだろうという好奇心に駆られた。
小函の中身を知る日は来るかもしれないし、来ないかも知れない。
それを待つのもまた、面白いことだと考える。
「お元気で」
汽車が動き出すと、珠紀は車両から一歩下がり、窓から顔を出す千鶴に軽く片手を振った。
「素晴らしい人生の旅路を」
汽笛を上げて走り出した汽車に乗る千鶴には、珠紀の声が風に乗ってかすかに聞こえた。
駅舎が見えなくなるまで手を振った後、座席にきちんと座り直した千鶴は、珠紀から渡された弁当の包みを開いた。
中には竹の皮で包んだ握り飯が三つ、整然と並んでいた。
多分あの女中が作ってくれたものだろう。
現金の持ち合わせもない客にここまでしてくれるなんて、と握り飯を頬張りながら千鶴は感慨深い気持ちで胸がいっぱいになるのを感じた。
そういえばあの薔薇模様のワンピースをあの古着屋で買うことになるであろう美鳥という女給はどういう人なのだろう、と想像してみる。
きっと、洒落た人に違いない。
美鳥は自分で働いて得た給金であのワンピースを購入するのだ。
そう考えたところで、千鶴は今日売り払った自分の持ち物が全て父親の金で買った物ばかりであることに気づいた。
手元に残っているわずかばかりの荷物は、どういうわけか祖母や母が譲ってくれた物ばかりで、今着ている着物でさえ従姉が自分には似合わなかったからと言ってくれたものであったことを思い出す。
あんなに手放そうとした小函は、祖母が自分に譲ってくれた物だ。
いつか必要になる時が来るだろうから、それまで大切に持っていると良い、と言って渡されたが、以来ずっと箪笥にしまってあったのでこれまでずっと忘れていた。
今回の家出の際に着物や服を鞄に詰める際に、いつの間にか鞄の中に潜り込んでいたようだが、自分では鞄に入れたつもりがまったくなかったし、記憶もない。
いつか必要になる、と祖母は言った。
いつか開きますから、と珠紀は言った。
この『いつか』は訪れるかもしれないし、自分には訪れないかもしれない。
それでも所有する必要がある物であることに違いはないのだろう。
宗征に再会したら、あのワンピースを古着屋で売ってしまったことを話そう。
それから、住む場所が決まって落ち着いたら、自分も働くと告げよう。
自分で働いて得た給金で、欲しい服を買うのだ。
決意を込めて、千鶴は勢いよく握り飯を頬張る。
明日のことも見通しは立たず、期待と不安は果てしなく千鶴の中で渦巻いている。
それでも、不思議と家を出たことに関して、後悔だけは感じなかった。




