第一話 伊槻屋の客
一
もうし御免下さいませ、とか細い声が布団の中で微睡んでいた珠紀の耳に響いた。
寝惚け眼を手でこすりながらゆっくりとした動作で起き上がると、ぼんやりと辺りを見回す。
人の気配らしきものは感じられなかった。
空耳だろうか、ともう一度布団に潜り込もうとした珠紀は、再び、どなたかいらっしゃいませんか、と若い娘の声がかすかに聞こえてきたものだから、慌てて布団の上に掛けてあった上着を羽織り障子戸を開けると、裸足のまま廊下へと出る。
縁側の雨戸はいつもの通りきっちりと閉められていたが、薄墨を流したように暗い廊下も歩き慣れていればそう不便はない。
なんとか店の玄関に辿り着くと、手探りで備え付けられてあるはずの洋燈と燐寸を探し、すぐに明かりを灯した。
曇り硝子を填め込んだ引き戸の向こう側に黒い人影がぼんやりと見える。
夕方までは鉛色をした雪雲が空を覆っていたが、いつの間にか雲の切れ間から月の光が零れて夜空をわずかに照らしていた。
そういえば布団に入った時分から強い風に揺すられて硝子戸ががたがたとうるさかったことを珠紀は思い出す。いつの間にか賑やかな戸が揺れる音すら子守歌のように聴きながら寝入っていたようだが、まだ風は激しく吹き続けているらしく、冷たい風音が響いているのが聞こえる。
「どちら様でしょうか」
珠紀は自分よりも幾分背が低くほっそりとした人影に警戒心を解きつつも、まだ玄関の鍵は開けずに声を掛けた。
「夜分遅くに大変申し訳ありませんが、今宵一晩だけ泊まらせていただきたいのです」
声は若いが、口調はしっかりしていた。
「わたくし、北への旅の途中の者でございます。今夜は休まず旅程を進むつもりでおりましたが、慣れぬ道中の思わぬ強い空っ風に難儀致しております。丁度、こちらに伊槻屋さんなる旅籠があると聞き及びましたので、泊めていただけないものかとお訪ねしたした次第でございます」
伊槻屋とは、この旅籠の屋号だ。
既に日暮れと同時に番頭が暖簾は降ろしていたが、珠紀は構わず錠を外して玄関戸を開けた。
洋燈を外へ向けて翳すと、旅装束に身を包んだまだ十四、五の少女が暗がりの中を身体を震わせて立っているのが見えた。声は若いものの口調が随分と大人びていたので、妙齢の女性を想像していた珠紀は、一瞬だけ奇妙な違和感を感じたが、深くは考えなかった。
この御園町に旅籠は伊槻屋一軒きりだ。
鉄道の駅がある隣町まで行けば旅籠も安いのやら高いのやらが数軒あるが、御園町にはそもそも宿を利用するような客が滅多に来ない。たった一軒しかない伊槻屋でさえ常に閑古鳥が盛大に鳴いている状態だ。
どんなに夜遅くに飛び込みでやってくる客であろうと、客ならば断る理由はなかった。
すぐさま珠紀は戸を大きく開けると、客を迎え入れた。
「もう竈の火も落としてしまいましたので、お食事は用意できませんが、明日は朝食を用意させていただきます。お部屋はこちらの椿の間をお使い下さい。寒いようでしたら、火鉢を……」
「お気遣い有り難うございます」
珠紀の手元にある洋燈の明かりだけで椿の間に案内された客は、部屋に入ると深々と頭を下げた。
「このような時刻に無理を言って押し掛けましたのに。わたくしは、こちらのお部屋に通していただけただけで充分です」
そう言うと、客は手にしていた荷物をそそくさと解き始めた。
くつろいで休もうとしているところを邪魔してはいけない、と珠紀は手水処の場所だけは説明すると、部屋に戻ることにした。
そういえば宿台帳に記帳してもらわなければいけなかったんだっけか、という事に気づいたのは冷え始めていた布団に入ってすぐだったが、明日の朝書いて貰えばそれで済むことだからとすぐに気にしなくなった。
二
「珠紀君、起きたまえ」
ぺちん、と扇子のようなもので布団の上から何度か叩かれる感触で珠紀は目を覚ました。
もそもそと亀のごとく布団から顔だけ覗かせると、目の前には要の不機嫌そうな顰め面があった。
「……おはようございます」
珠紀がぼそぼそと挨拶をすると、おはよう、と要も挨拶を返してはくれた。
今何時だろう、と枕元に放り出してあった懐中時計の鎖に手を伸ばして引き寄せると、時刻を確認する。まだ午前七時丁度だった。
「どうしたんですか? 要さん、いやに早起きですね」
普段なら午前八時過ぎになって、女中の嘉代に食事が冷えるから早く召し上がって下さいと起こされて半時間以上経ってようやく自室から出てくるのが常だというのに。
しかも、きっちりと寝間着から日常着の着物に着替えている。
番頭の小五郎なら天変地異の前触れだと言うに違いない。
「珠紀君、まずは布団から出てきたまえ。それから着替えて髪に櫛を入れたまえ。そんな身なりでは、人とは話なんて出来たものではないだろう」
朝からいきなり部屋に押し掛けてきて叩き起こした上に、身なりが整っていないと叱られるのは理不尽な気がしたが、珠紀は「はぁ」と曖昧に受け流した。
この伊槻屋の主人である伊槻要は、半分道楽、半分は酔狂でこの旅籠を営んでいるのだと常々自分で言うくらい、商売っ気に乏しい店主だ。
そもそもは、親から譲られたこの屋敷が一人で済むにはあまりにも広く部屋数が多く勿体ないので、この屋敷の空いている部屋を旅籠にすれば有効利用できる、とほとんど勤労意欲の欠片もないのに始めたのが伊槻屋だ。下宿にしなかったのは、この御園町では下宿屋などをしても部屋を借りる者などほとんどいないことと、既に一軒下宿屋を営む家があったからだ。
旅籠は周囲の予想通り、儲かるどころか客がいないことの方が多く、今のところ番頭の小五郎、女中の嘉代、居候の珠紀の三人で充分過ぎるくらいの接客が可能な客足だ。
「何かあったんですか?」
大抵の場合、小五郎や珠紀では要を朝食の時間までに起こすことは難しい。
たまに要が朝早く起きていることもあるが、それは十中八九は早起きをしたのではなく夜眠らなかったから朝まで起きているだけなのだ。
そんな要を起こしたい時に起こすことが出来るのはただ一人、嘉代だ。
この時間帯に要が起きているということは、すなわち何かがこの伊槻屋の中で起き、嘉代によって要は問答無用で起こされたということを意味する。
「昨夜、皆が寝静まった後で椿の間に客を通したかね?」
要が顔を顰めたまま、改まった口調で尋ねた。
一瞬、何を言われているのかすぐには理解できなかったが、椿の間と聞いて珠紀は昨夜訪ねてきた客があったことを思い出した。
「あぁ、はい、夜遅くにお客を一人お通ししました」
珠紀は布団から這い出ると、畳の上に正座をして答えた。
「そのお客から、宿代は貰ったのかい?」
「まだです。随分と遅かったですし、お客もお疲れのご様子でしたので、朝になってから頂けばいいかな、と思って」
なんとなく厭な予感がしてきたが、珠紀は正直に答えた。
「そうかい。それは失敗だったね。実は椿の間は今朝はもぬけの殻でね。お嘉代さんが各部屋の雨戸を開けに回っていたところ、椿の間は誰かが寝具を使った形跡はあるのだけれど、姿は見えなかったものだから不審に思ってね。午前六時半だというのに、私を叩き起こしてくれたよ」
どうやら要が不機嫌な理由は嘉代に問答無用で叩き起こされたことにあるらしい。
旅籠の主である自覚がほとんど無い要ではあるが、家事の一切を担っている嘉代には逆らえないのだ。
「え? もうお客さんは出て行かれてしまったのですか?」
「無銭宿泊でね」
刺刺しい口調で要は答えたが、珠紀は布団の上に座って呆然とするばかりだった。
「昨夜はとてもお疲れのご様子だったのに、こんなに朝早くに出て行かれるなんて」
そういう問題じゃないだろう、とぼそぼそと要はぼやいていたが、珠紀には聞こえていなかった。
「とにかく、すぐに着替えて椿の間を見に行きなさい。お嘉代さんが怒っていたよ。布団が濡れているって。こんな天気じゃ干しても乾かないっていうのにね」
「こんな天気?」
首を傾げつつ珠紀が障子窓を開けて外を見ると、庭は眩しい一面の銀世界だった。
「昨夜は、全然降っていなかったのに」
朝日を浴びてきらきらと輝く新雪に、珠紀は目を細めた。
三
「どうやら、雪娘が泊まったみたいだね」
着替えて髪も整えた珠紀が椿の間へ行くと、布団やら敷布を片づけていた嘉代が珠紀の顔を見て言った。
「雪娘?」
「この部屋のお客だよ。あんた、会ったんだろう?」
嘉代の口調はぶっきらぼうではあるが、さばさばしていてきつい印象は無い。
「はい。でも、普通の若いお嬢さんに見えましたけど」
思い返して見れば、薄暗い玄関で会った昨夜の客の顔はぼんやりとしか思い出せない。それでも、異形には見えなかった。
布団を乾し場まで運ぶ手伝いをしつつ珠紀が答えると、そりゃ近頃は雪娘だって人と変わらない格好をしているよ、と嘉代はまるで雪娘なんて珍しくもなんともないような口調で答えた。
「昨夜は風がきつかっただろう? きっと雪娘は何処かへ雪を降らせに行く途中で、風が強くて先に進めないものだから風を凌ぐ場所を探していたんだろうね」
「そういえば、それに似た話をしていましたよ。でも、あのお客さん、伊槻屋を知っている口ぶりでしたよ。まるで誰かに紹介されたような」
なんで雪を降らせる雪娘がこんな旅籠を知っているのかが珠紀には不思議だった。
「旅をする者は、それなりにこういった宿のことは知っているんだろうね」
訳知り顔で嘉代は一人頷く。
そういうものだろうか、と珠紀は納得できずにはいたが、それ以上は特に訊かなかった。
「雪娘が一泊していってくれたお陰で、町内は一面が雪だよ。店の前にも雪だるまが出来てるしね」
「雪だるま?」
「さっき、旦那さんがその辺りの子供と一緒になって作っていたよ」
どうやら要は早起きをし過ぎて時間が余っていたらしい。かといって寝直すつもりはなかったのだろう。
「ま、たまにはこんな沢山の雪も悪くはないね。布団さえ濡れていなければ」
「……以後、雪娘には気を付けます」
珠紀は首を竦めた。
「別にいいさ。あんたが悪い訳じゃないんだし。あたしは最初、旦那の悪戯かと思って怒って部屋に行ったんだけどね。よく考えたら、旦那があんな手の込んだ悪戯をする訳ないんだよね。わざわざ椿の間に布団を敷いて、敷物の上に雪の固まりを置くなんてことはさ。何しろ、雪が降り出したのはあたしたちが寝た後だからね。あの旦那は、あたしが起こさない限りはそう簡単に起きるようなお人じゃないし」
なんでそこで要の悪戯になるのだろう、と珠紀は首を傾げたが、話が長くなりそうだったので、詳しく聞くのはやめておくことにした。
要が生まれた時から要の世話をしているという嘉代は、この屋敷の中では一番偉いと決まっている。
嘉代が白といえば全ては白なのだ、と要がぼやいていたことを思い出しつつ、珠紀は黙って嘉代の手伝いをした。
四
「珠紀さんも難儀だね。耳敏くて、雪娘が玄関で呼ぶ声が聞こえてしまうんだから」
嘉代は土間で朝食の洗い物をしながら番頭の小五郎に向かって言った。
番頭とは呼ばれているものの、力仕事と名の付くものは全てこなしているので、時には下男のような仕事もこなす。
今も薪割りをすませ、土間に薪を運び込んだところだ。
表や庭を掃くのは珠紀の仕事だが、これも大抵は小五郎が朝起きるとさっさとすませてしまう。
嘉代と小五郎さえいれば、伊槻屋は上手く回っていくのだ。
たまに嘉代は心配になる。
嘉代と小五郎の給金は毎月滞りなく要から支払われているが、伊槻屋には二人の給金を賄う程の利用客はないのだ。
いくら酔狂で始めた商売とはいえ、要は他に何ら仕事をしておらず、収入源らしきものといえば要が父親から貰い受けた財産だけだが、それだってそう大したものではない筈だ。
珠紀は使用人としてではなく要の客としてこの伊槻屋で暮らしているようなものだから給金は要らないとはいえ、生活費はかかるし、要は時々珠紀に小遣いと称して少額の金を渡しているようだ。
「だからこそ、親からは半分放り出されるような形で伊槻屋に預けられることになったんだろうよ」
薪を運び終えて一服することにしたのか、土間の片隅に腰を掛けた小五郎は煙管を取り出すと、煙草を詰め始めた。独り身でこれといった趣味を持たず酒も嗜まない小五郎は、煙草だけが唯一の嗜好品だ。
「望んだ訳でもないのに、この世に在らざる者の声や物音を耳敏く聴き、それらを目敏く見てしまうなんて、本人にも周囲の人間にとっても厄介なことだよ。それでも、あの人はまだ救われている方だと儂は思うよ。家に閉じ籠められるのではなく、伊槻屋に預けられたのだから」
「それだって、厄介払いみたいなもんじゃないか」
あんなに人が良いのにね、と嘉代は溜息を付く。
「妖しや幽霊なんて呼ばれるものが見えず、聞こえない人間にとっては、あの人が自分には見えないものが見えて、聞こえない筈の声や物音が聞こえるのは薄気味悪いもんなんだよ。うちの旦那みたいに、自分は見えも聞こえもしないけど、見えたり聞こえたりする人を邪険にしない人の方が珍しいくらいだよ」
小五郎がくわえていた煙管を口から離して白い煙を吐き出しながら言うと、本当にねぇ、と嘉代は頷いた。
「うちの旦那は変わってるけど、そういう自分とはちょっと違う人を否定しないってところだけは悪くはないよ。だからこそ、珠紀さんみたいな人だって安心してここに居られるんだろうけどね」
商売っ気が無い部分はあたしらとしては困りもんだけどね、と嘉代が付け加えると、小五郎は苦笑した。
「商売っ気が無くて悪かったね」
ぼそぼそと低い声が聞こえて二人が振り向くと、のっそりと要が立っていた。
「おや、そんなところにいらしたんですか」
嘉代は要に聞かれても悪びれた様子も見せず、しゃあしゃあと何のご用でしょうか、と尋ねた。
「喉が渇いたんで、水でも飲もうと思ったんだが」
「はいはい。どうぞ」
水瓶の蓋を開けて、嘉代は柄杓で湯飲みに水を注ぐと、要に渡した。
「後で、お茶でもお持ちしましょうか?」
「そうだな。頼むよ」
一気に水を仰ぐように飲み干すと、要は頷いた。
「ところで、昨夜のことだけど」
要は竈の火の暖かさが残る土間が心地良いのか、床に座り込むと嘉代と小五郎の顔を見た。
「君たちは客が玄関で呼んでいる声が聞こえたのかい?」
「いいえ」
嘉代と小五郎は同時に首を横に振った。
「珠紀君の方が奥向きの部屋で休んでいるのに――」
「そりゃ、珠紀さんの方が耳が良いからに決まっているじゃないですか」
当然のことのように嘉代が言い切ったので、要は一瞬言葉に詰まった。
「そうなんだけど、ね」
「別に、あたしは珠紀さんが雪娘を泊めたってことには怒っちゃいません。布団が濡れていたのだって、珠紀さんが悪いんじゃありません。雪娘が自分は雪娘だって珠紀さんに言わなかったのがいけないんですから、珠紀さんを責めるのはお門違いってもんです」
「――そういう問題じゃないような気もするんだけど」
「そういう問題ですよ。それに、別にあたしらは雪娘が泊まろうが、雪男が泊まろうが、お客があるのは良いことだと思っていますから。出来れば、きちんと宿代をお金で払ってくれるお客の方が良いんですけどね」
「それはまぁ……そのうち、取り立て方を考えておくことにするよ。ただ、昨夜みたいな客が増えて君たちが困るというのなら」
「雪娘が伊槻屋の評判を聞いて尋ねて来たのは珠紀さんのせいじゃありませんから、あたしらは別に気にしちゃいませんって」
きっぱりと、嘉代が言い切る。
「そもそもは、旦那さんがあんな約束をしたのが事の発端じゃあないですか」
「それを言われると、返す言葉も無いけどねぇ」
要は嘉代に反論出来ずに、早々に土間から退散した。
旦那さんがあんな約束を、と言われて、要はそもそも雪娘がどこから伊槻屋の評判を聞いたのかがなんとなく推測できた。
半年程前の出来事になるが、要は夜道を一人で歩いている最中に物盗りに襲われたことがあった。
瓦斯燈などほとんど無い暗い夜道で、ひたひたと背後を付けてくるような妙な足音に気づいた時には既に遅かった。
わずかばかりの月明かりが反射した光で、相手が剥きだしの刃物を握っていることに振り返った一瞬で気づくことが出来たのは幸運だったのか不運だったのか。
これは拙い、と慌てて駆け出したが、元来運動などほとんどしない生活の上に、少し酒を飲んでいて足取りはかなり危うかった。
周囲には家々があったが、どの家も雨戸を閉じ、灯りは隙間からも全く漏れてきていない。 どこか家に飛び込もうにも、板塀ばかりが続いていて、門扉もきっちりと閉ざされている。
焦る気持ちを抑えつつ、ふと見れば道端に鳥居が見えた。
こうなると普段は信心など全く持たない要でも、神仏に縋るより他なかった。
鳥居を潜り、参道をこけつまろびつ走り抜け、社務所に駆け寄る。しかし、社務所の格子戸には南京錠が掛かっていた。
すぐさま本殿に向かいわずかばかりの階段を駆け上がり格子戸を引くと、今度はするりと開いた。そのまま本殿に飛び込み、内側から閂をかけ、月明かりも届かない本殿の隅へと身を寄せる。
物盗りが参道の石を敷き詰めた砂利道走る足音は聞こえたものの、しばらく辺りを探し回った挙げ句に要の姿を見つけられずにいると、参道の両側の木々が風でざわめく音におびえた様子で去っていった。
結局、朝まで本殿の中で過ごし、陽が昇りきってから伊槻屋へ戻った要は、物盗りに遭遇した話を嘉代と小五郎にした。
すると二人は、花媛様の御加護に違いないからきちんとお礼にうかがった方が良いと言い出した。
花媛様というのは要が飛び込んだ此花神社で祀られている女神を、親しみを込めて呼ぶ際の名だ。本来は神社の名前も異なるのだが、古くからある神社を人々は此花さん、もしくは此花神社と呼び、ご神体である女神も花媛様や花媛さんといった呼び方をする。
普段は神仏などといった姿が見えないものなど、と言ってないがしろにする要も、今回ばかりは嘉代に引きずられるようにして神社に礼がてらに参拝した。
その際に、本殿前である約束をしてしまったのだ。
「こちらのお陰で私は命拾いを致しました。お礼と言ってはなんですが、私は伊槻屋という旅籠を営んでおりますので、いつでもお泊まりにいらして下さい。御眷属の皆様も歓迎致します」
しっかりと、花媛には要の言葉が聞こえていたらしい。
翌日から、ちょくちょく伊槻屋で奇妙なことが起きるようになった。
客間に誰かが泊まったような形跡があったり、用意されていた宿泊客の膳がいつの間にか何者かによって食べられてしまったりしていたのだ。
どうやら、目に見えない何かが伊槻屋に泊まりに来ているらしい、ということに気づいたのは、一月くらい経った頃に泊まった客が、廊下で妙な格好の客とすれ違ったと言い出したからだった。
異形のものが見えるというその客は、自分が泊まっていた部屋の隣の部屋に、奇天烈な格好をしたものが泊まっているというのだ。
約束した以上、花媛の眷属が伊槻屋を利用することそのものには要は異存はなかった。
ただ、姿を見えないものが黙って入ってこられた上に、勝手に部屋を使い、用意してあった膳を食い散らかし、また黙って去っていくという行為に対しては、客の世話をする嘉代から抗議がきた。
どう対処するべきかと悩んでいたところに異形が見えて声や物音も聞こえるという珠紀が伊槻屋にやってきた。
それ以来、伊槻屋にやってくる異形たちもどうやら行儀良くなったらしい。
というのも、珠紀という異形の姿が見える者が常に伊槻屋にいるかららしい。
「人だって、誰かに見られていると思えば少しは人目を気にして立ち居振る舞いに気を付けるじゃないですか。異形だって、珠紀さんに見られることで少しは人目を意識するようになったってことでしょうね」
嘉代はそう言って、珠紀を歓迎した。
つまりは、伊槻屋にとって珠紀は居てくれるだけで助けとなる存在なのだ。
そういえば、あの約束は伊槻屋が在る限り続く約束なのだろうか、と要は考えてみたが、すぐに考えることを放棄した。
いくら町内に一軒しかない旅籠とはいえ、明日をも知れぬ経営状態だ。
「泊まって頂けるのは嬉しいんですけどねぇ。やはり宿代はいただけませんと、うちとしても店を続けられないんですよ。約束を守りたいのは山々ですが、いくら酔狂で始めた旅籠とはいえ、慈善事業でやっている訳ではないんでねぇ。勿論、花媛様の御眷属の皆様には格安でお部屋をご提供致しますが」
誰に聞かせる訳ともなく、要は廊下でぼそりと呟いた。
五
数日後、降り積もった雪はほとんど溶けたものの、まだまだ寒さ厳しい日が続いていた。
要は自室に籠もり、火鉢を抱きかかえるようにして読書に勤しんでいた。
生来が出不精である要は、寒い冬は嫌いで、余程の用事でも無い限り伊槻屋から出ることはほとんどない。大抵の用事は珠紀がこなしてくれるので、不便はなかった。
そろそろ遣いに出した珠紀が帰ってくる頃だろう、と壁の掛け時計を見ながら要は火鉢にへばり付いた。
廊下をぱたぱたと走る軽快な足音が聞こえる。
珠紀であることは要もわかったが、あの普段から年齢以上に落ち着き払っている珠紀が廊下を走るなど珍しい、と要はふと訝しんだ。
けれど、その疑問を解く前に、要は珠紀が障子戸を開ける瞬間流れ込んでくる廊下の冷気から身を庇う様に、火鉢にますますしがみついた。
「要さん、凄いです!」
ぱっと障子戸が開くと、珠紀はここまで走ってきたのかほんのり頬を紅く染めていた。
「庭に、宿代が届いているんです」
「宿代?」
一瞬、珠紀が何を言わんとしているのか、要にはわからなかった。
「雪娘からの宿代です。ほら、一晩だけ泊まっていったじゃないですか」
「そういえば、そんなこともあったねぇ」
早く障子を閉めて欲しい、と内心思いつつ、要は頷いた。
「で、何が届いたって?」
「それは今から一緒に見に来て下さい」
珠紀は火鉢の側から離れようとしない要の羽織を引っ張った。
「どこへ行くんだい?」
「お庭です」
仕方なく、要は側に放り出してあった襟巻をぐるぐると首に巻いて立ち上がった。
要が珠紀に引っ張られるようにして庭の縁側まで行くと、嘉代と小五郎が庭の隅を熱心に見つめているところだった。
「何があるって言うんだい?」
三人の様子があまりにも珍しいので、要は寒いのを我慢しながら尋ねた。
「蕗の薹ですよ。雪の下から、蕗の薹が沢山顔を出しているんですよ。まだまだ蕗の薹には早い時期だっていうのに」
「これはきっと、雪娘からの宿代だろうね」
嘉代の言葉に小五郎も頷く。
確かに、蕗の薹が出回るにはまだ一月以上は早かった。
それを雪娘の宿代と解釈するのはどうかと要は思ったが、珍しいことには違いない。
「どうします? 摘んで、八百屋にでも売りにいきましょうか? 明日は朝市の日ですから、露天でも開けば良い値段で売れると思いますけど」
嘉代の言葉に、要は顔を顰めた。
「なんでこの時期には珍しい貴重な蕗の薹を、わざわざ余所の連中に食べさせてやらなきゃいけないんだい? うちで食べてしまうに決まってるだろ。雪娘の宿代だ。うちで食べなくてどうするって言うんだ」
「おや、そうですか? それなら早速、今日の夕飯に塩茹でにしてお出ししましょうか」
「天ぷらで食べたい気分だ」
要が返事をすると「はいはい、わかりました」と嘉代は軽い口調で請け負う。
手元に笊を用意していた小五郎は、すぐさま蕗の薹を摘み始めた。
「良かった。ちゃんと宿代を払ってくれて」
縁側で下駄を履いて庭に降りながら呟く珠紀の声は、しっかりと要の耳に届いた。
口を開いて声を掛けようとしたものの、寒さを我慢出来ずに身を震わせた要は、首を竦め背を丸めると黙って自室の暖かな火鉢の側へと戻ることにした。
「宿代払えって言ったの、花媛にしっかり聞こえていたみたいだな」
夕食に好物の蕗の薹が出るとなると、花媛とあんな約束を交わしたのも、雪娘が旅の途中で泊まっていったのも悪くはなかった。
そそくさとした足取りで廊下を歩きながら、酔狂で旅籠を営む主人は、満足げに微笑んだ。




