嫁(カッパ)にキュウリを与えないでください。
ナツメちゃんが憧れのキュウリを食します。
あくまでキュウリです。キュウリを食べています。
「ただいまー」
「ただいま戻りました」
「おかえり。思ったより早かったわね」
買い物袋を下げた士郎とナツメを士郎の母親、千里が出迎える。
「外暑いから、さっさと買い物終わらせて帰ってきた」
「私も何度か干上がりそうになりました」
「一度だけじゃなかったの!? 命に関わるから早めに言って?」
士郎の真剣な物言いにナツメはテヘペロして誤魔化す。
千里は自分の息子とナツメの距離感が二人が出かける前と微妙に違うことに気が付いた。
「ふ~ん。まあ、警戒がちょっとは緩んだって感じかー」
「何の話?」
「こっちの話~。とりあえず晩御飯までゆっくりしなさい。なんだったら先にお風呂にするとか。当然、お風呂は洗ってないから士郎が洗ってからだけどね」
「何で僕が~。母さん家にいたじゃん」
「養われてるくせに文句言わない。家の手伝いは?」
「家族の務め」
「お母さんには?」
「絶大な感謝を」
「お父さんには?」
「ほんの少しの思いやりを。息子には?」
「惜しみない愛情を」
千里はきっぱりと言い切る。これも天上家のお約束。
一人息子に捧げる両親の愛だった。
「じゃあ。私は晩御飯の準備でもしようかね」
「私も手伝います。手伝わせてください。お母様」
「いい子ね~。じゃあ、手を洗って台所に来てね~」
千里はナツメににっこりと微笑み洗面所を指差した。
ナツメは姿勢を正してびしっと千里に敬礼する。
「行って参ります!」
とたとたとリビングを出ていったナツメの背中を見ながら、
「……母さん。ナツメをいいように使ってない?」
「そんなことあるわけないでしょ。うちの息子のお嫁さんになるかもしれないのに。あんた同様に愛情注ぐわよ。ほらほら、あんたもさっさとお風呂洗ってくる」
「へーい」
士郎は渋々自分の務めを果たしに風呂場へと向かう。
その姿を笑顔で見送る千里。
士郎の姿が通路から消えると、小さな溜息をついた。
「……やれやれ。河童さんたちもどういうつもりなんだか。こっちの事情も知らない子をこっちの世界に寄こすだなんて。……まあ、近いうちに誰かしらご挨拶に来るってところかしら? さーて。晩御飯。晩御飯。可愛い息子と嫁のためにがんばっちゃおーっと」
☆
風呂洗いを終えて士郎がリビングに戻ってくると、千里がナツメに対し厳しい視線を送っていて、ナツメがぶるぶると身を震わせていた。
「――お母様、申し訳ありません。私には……できません」
「何言ってるの。そんなことでどうするの?」
もしかして、まだ、一日も経ってないのに嫁姑問題勃発?
朝はあんなに仲が良かったじゃないかと士郎は目を疑った。
「キュウリをスライスするなんてもったいないことできません!」
「その方が食べやすいから!」
「……ああ、そういうこと」
ナツメはどんだけキュウリを過大評価してるんだろう。
好物とはいえ河童にとってはキュウリはそれほどの物なのだろうか。
士郎にある疑問が浮かぶ。
「なあ、ナツメ。キュウリって妖怪界にはないの?」
「滅多に入荷しません。だから高級食品なんです」
「キュウリを好んで食べる妖怪が河童さんしかいないからじゃないの?」
多分、千里が言ったことが正解なのだろうと士郎も思った。
需要があれば供給量は増えるはず。つまりは需要がないのだろう。妖怪界に滅多に入荷しないということは妖怪の需要がない証拠なのだ。少量しかないものは高額で販売せねば利益が出せない。市場主義の典型である。河童にとってキュウリは喉から手が出るほど食べたい物なのだろうけれど。どうしても欲しければ出すものを出せと市場が示しているのだろう。
「うちも裕福ではないので、食卓にキュウリが出たことなんてないし……一度、お金持ちの親戚のおじさんが食べてて私も欲しいって言ったら、子供の食べるものじゃないって怒られて」
「おじさん、子供相手にちょっと心狭すぎだろ」
「いつか……いつかお金を貯めてキュウリを丸かぶりするのが夢だったんです!」
ナツメは拳をぎゅっと固めて吼えた。
その気持ちは士郎も共感できる。士郎も幼い頃、スイカを一玉買って全部食べるのが夢だった。
「じゃあ、ちょっと待ってなさい」
千里もナツメの想いに共感したのか、キュウリを一本手にすると、水で表面を流し洗ったキュウリの水気を拭きとると、ナツメの手を取ってそっとキュウリを手渡した。
「はい、ナツメちゃん。夢を叶えなさい」
「い、いいんですか? 夢を叶えちゃっていいんですか?」
「思いっきりかぶりつきなさい」
妖怪界では庶民であるナツメの夢だったキュウリが手の中にある。
ナツメは小さな口を大きく開けてキュウリを咥え込む。
一気に噛み切るかと思いきや、にゅるんと滑らせる。
「ぷはぁっ! もったいなくて噛めないです。こんなに太くて長いの駄目。お口に入りきらない!」
「――この子、天然でエロいわね」
千里はナツメの様子を見て、士郎の背中に回り士郎の目を塞いだ。
「ちょっと母さん、何で目を塞ぐの?」
「いいから、あんたにはちょっと刺激が強いのよ。いい、ナツメちゃん。私がレクチャーしてあげる。まず軽くキスをするように先端に口をつけて」
「えと、これでいいですか?」
ナツメは千里の言葉に従いキュウリの先端に口をつける。
「そんな感じ。今度はキュウリを下から上まで舐め上げる」
「こ、こうでしゅか?」
「そうそう。ちょっと手がお留守だわ。しっかりと根元を掴んでもう一方の手で先端をつまんで」
「こうですか?」
「先っちょは刺激に弱いから優しくね。それから先端を口で包み込んで、端の部分を舌先でつんつんって軽く刺激するの。それから口に包み込んだまま舌で全周を舐め上げるのもテクニックの一つよ」
「ふぁい。わかりまひた」
「母さん? 何教えてんの!?」
士郎は目を塞がれていて声しか聞こえない。
聞こえてくるナツメの吐息と淫猥な音が士郎の妄想を掻き立てる。
「キュウリの正しい食べ方よ。ただし、ちょっと大人のだけどね。ナツメちゃん。そろそろいいかしら?」
「ふぁい!」
「口の中を真空にするつもりで強く吸い上げなさい。かつ、先端には舌を絡めるようにして顔全体を使って抜き差しするの」
ナツメが頬張っているのは紛れもなくキュウリなのだが、士郎の脳内では別のものが映し出されている。
ナツメの荒ぶる息と時折こぼれる吐息に士郎の妄想は止まらない。
「いいスピードよ。ふふ、いやらしい子ね。とても覚えるのが早いわ。そこから、スピードアップして」
「ふぁい!」
士郎の脳内でも別の映像が加速する。
ナツメの吐息に合わせるように士郎の呼吸も加速する。
「絞り込んで、絞り込んで、張りが出たところでー」
「んー!」
「一気に噛み切る!」
「がり!」
「ぎゃあああああっ!」
「……あれ、士郎? やりすぎちゃったかしら?」
士郎は自分の股間を押さえてぴくぴくと引きつっていた。
「これがキュウリ……夢にまで見たキュウリ。歯応えもあって、瑞々しくて……癖になりそう」
ポリポリとキュウリをかじりながら悦に浸るナツメだった。
☆
「ナツメがキュウリを食べるのは一日一本まで!」
ナツメが三本目のキュウリを食べ終わったところで士郎が言い放つ。
えーっ! と大きな口をあげてナツメが食い下がる。
「どうしてですか!?」
「僕がもたない!」
千里の教えがナツメにしっかりとインプットされ、キュウリを食べるたびにまずキュウリに口づけをする。千里が教えた通りの食べ方を士郎の目の前でも繰り返したのである。
その食べ方は思春期でもある士郎には目の毒で、立て続けにやられた日には過ちを犯しかねない。
「……そうですよね。贅沢は敵ですよね。実家では食卓に上ることさえない高級食品なのに……。一日に一本食べれるだけでも贅沢なのに……。士郎様、ナツメのことを考えてくれてありがとうございます」
「そういうつもりで言ってないけど?」
「士郎様の心遣いに感謝です。お母様、私がキュウリの誘惑に負けるようならぜひ叱ってください」
「あら、そう? ナツメちゃんがそう言うならそうするけど」
そう言って、千里はナツメの目の前にキュウリをぶら下げる。
ナツメは身体をガクガクと震わせる。どうやら葛藤しているようだ。
「……」
無言でぶらぶらとキュウリを揺らす千里。ナツメの視線はキュウリにくぎ付けで口が少しずつだらしなくなって開いていく。
「……」
千里はさらに無言で、ナツメの鼻先にキュウリをぶらぶらさせながら近づける。
「やっぱむりー!」
欲望に負け、ぶら下げられたキュウリにむしゃぶりつくナツメだった。
そのナツメの姿を見て涙を流すほどに高笑いして喜ぶ千里だった。
「あははははははは。見て士郎、釣れたわ! 河童がキュウリで釣れたわ!」
「母さん。あんた鬼だろ?」
☆
「――という訳で、今後ナツメにキュウリを与えるのは僕だけとします」
母の千里と自称嫁のナツメは士郎の命令で正座させられていた。
士郎が二人に説教したのである。
「ちょっと悪ふざけしたくらいで、そんなに怒らなくてもいいじゃない」
「母さん。何か言った?」
「何もないです――ちっ」
ナツメは千里と違い、本当に反省していた。
欲望に負けた自分が情けないのである。
「士郎様に言われたばっかりなのに……自分が情けないです」
「ナツメも反省してるみたいだから、そんなにしょげなくていいよ。もうこの話は終わり。それよか、ご飯にしようよ。僕お腹すいちゃったよ」
千里はさっと立ち上がり、手早く準備にかかる。
なかなか立ち上がらないナツメが気になった士郎はナツメの顔を覗き込む。
「ナツメどうしたの?」
「は、恥ずかしながら足が痺れてしまいました」
「ありゃりゃ、立てる? 手を貸そうか?」
士郎は両手を差し出す。
ナツメはその両手に自分の手を重ねた。
「すいません。ゆっくりでお願いします」
「よいしょ」
士郎は立ち上がろうとするナツメの手をさらに引っ張り勢いをつける。
立ち上がったナツメは足にじわじわじわと大きく波打つ痺れに「うきゃう」と悲鳴を上げる。
――と、ナツメの悲鳴の直後、士郎の目の前に巨大な甲羅の腹が現れた。
「――え?」
甲羅はゆっくりと士郎に向かって倒れてくる。
時間がとてもゆっくり流れているかのように、目前に甲羅が迫ってくるのを士郎は感じた。
甲羅はそのまま倒れて士郎はその下敷きとなる。
「――お、おもっ! ちょっとナツメ。マジで重い。早くどいて!」
『すみません。すみません。勝手に出ちゃったみたいです。戻そうとしてるんですけど、戻らないんです。すみません。すみません。すみません』
甲羅の中からくぐもったナツメの声が聞こえる。
甲羅の下敷きになってもがいている姿を見た千里は、腹を抱えて笑っていた。
「あはははははははは。うちの息子が巨大な甲羅の下敷きにされてもがいてる! なんて必死な顔してんの。駄目、お腹痛い! あはははははははははは!」
僕、本当に母さんから愛されてるのかな。
母の笑い声を聞きながら甲羅の重みに苦しむ士郎はそう思ったのだった。
お読みいただきましてありがとうございます。
一回は甲羅を出さねば気が済まない。
色々なシーンを考えても甲羅の活躍が可能かどうか考えてしまう。