8 空の青と海の碧
上原くんがミニバンのバックドアをあけると、巨大なクーラーボックスまでもが口を開けた。中には保冷剤まで入っている。
「なんでクーラーボックスとか載ってるの――ってなんで、それに入れるの」
彼は次々に荷物を詰め込んでいくが、わたしの購入物すべてを入れても、まだ余裕があった。
「なんでって、チョコが溶けるだろ?」
「海って、釣りでもするの……?」
じゃないと、こんなもの持っている意味がわからない。勝手に理由をつけて尋ねると、上原くんは逆に不審そうな顔をした。
「いいや? あー、東京住んでたら、こういうの忘れちまうか」
彼は、クーラーボックスの蓋を閉めると、ぽんぽんと蓋を軽く叩く。
「スーパーも減ったしさ。車がないと買い物困るところじゃ、こういうの必需品だよ。かあちゃんに買い物頼まれること多いし、載せっぱなしにしてる」
なるほどと合点する。わたしが住んでいた頃に比べて、確かに近所に買い物ができる店は減ってきた。少し遠出をすれば大型のショッピングモールはあるけれど、夏の大量の買い出しとなると食べ物の傷みが怖い。確かにクーラーボックスは便利だろう。
上原くんは「どうぞ」とわたしを助手席に案内する。こだわりの感じられる革張りのシート、革張りのハンドル。男の人ならではのこだわりのある車に少しためらいつつも、行くと言ってしまった手前、おとなしく乗り込む。彼は嬉しそうに笑うと運転席に座る。
「じゃ、行くかー」
「どこまで?」
「穴場があるんだ」
彼がエンジンをかける。
「シートベルト」
彼の指示と同時に流れだすのは洋楽だ。表示を見るとカーラジオのFM局だった。わたしがシートベルトをするのを見届けた彼は、真剣な眼差しでミラーを確認し、サイドブレーキを外すと静かに車を発進させる。
あれ?
あまりの穏やかさに、知らず構えていた体が、急激にほぐれていく。昔、拓巳の運転する車に乗ったことがあるけれど、彼は助手席に乗っているわたしがびっくりするくらい性急に発進させたものだ。それに、思い返せば、先ほどのようにシートベルトの指示など出したことなどない。
発進時の印象通り、上原くんの運転はすごく丁寧だった。スピードの上げ方は緩やかで、ギアがいつ切り替わったかが分からないくらいだし、ブレーキの踏み方も体に重力がかからないくらいに慎重だ。お互い暇な者同士。急ぐ必要が無いからだろうけれど、全く無理のない運転、そう感じた。
運転は性格が出るって言うけど……これ、上原くんの本性? 丁寧で、優しい? ――って、まさかね。
そんなことを思いながら、まだまだ高いところにあるお日様に目を細めていると、上原くんは「眠いなら寝てていいよ」と言う。
「寝ません」
危ないから――なんて言えないけれど、よく考えるとそうだ。どうも上原くんはわたしの油断を誘う。
結局車に乗っちゃってるし! わたし、隙が多すぎない!? と今頃になって不安になる。だがすかさず上原くんは言った。
「心配しなくても襲ったりしないしー。なんなら、家に一報入れといたら?」
どうして心が読めるのだろうか。そんなに顔に出てるのだろうか。
気まずくて外の景色を見つめる。
住宅地を抜けた車は、青々とした田んぼの脇を通り過ぎると、川沿いの道へと出た。わたしでも知っている道だ。だから、彼がどこへ向かおうとしているのか、なんとなく目星がついた。
「宗像大社の方?」
それは福岡県民なら、大抵の人間が知っている大きな神社だ。宗像三女神という天照大神の娘神を祀る格式の高い神社で、正月などはこの道も尋常じゃない混み方をする。
「知ってる? 神湊からのびてる海岸」
神湊というのは小さな漁港だ。この辺りで魚が美味しいのはこの漁港のお陰だった。
「あー、小さい時よく行った。海の家とかないから静かだよね」
父に連れられた写真が家にもある。松林の間を抜けて行く、地元民しか行かない穴場だ。砂浜が広く、波が穏やか。子連れにも安心な海水浴場だけど、地元民しか行かないのは設備がない――そういう理由なのだ。子供の時はいつも大量の真水を持って行って、砂を落として帰ったものだ。
「この頃、駐車場も出来てさ。トイレと水道もあるんだ」
「え、すごい。砂利道しかなかったでしょ」
「道が舗装までされてる」
「うわあ」
どんなふうに変わったのかワクワクし始める。最後に来たのは高校生の時だから十年以上前だ。
車は川の河口まで来ると、大きな橋を右折し、脇道に入った。
思い出の中の砂利道はすごく狭くて、脇に生えていた松が覆いかぶさってきそうだったのだけれど、今はきちんと手が入れられていた。その昔、川に落ちそうだと恐怖したでこぼこ道は、歩道と柵まで整備済み。道に入ってすぐの右側には大きな建物があり、その駐車場は車で満杯だった。こんな田舎なのに――と看板を見る。
「あ、道の駅! もしかして、さっき言ってたところ?」
「いいや。ここは有名になりすぎて、観光客だらけ。地元民は穴場に行く」
からっと笑うと上原くんは黙る。そしてなにか促すように目配せをすると前を見た。
釣られて前に視線をやったわたしは思わず言葉を失う。
目の前に広がった大海原に目だけでなく心を持って行かれてしまう。混じり物を受け付けない空の青とすべてを受け入れるような深い海の碧。それぞれ同じ発音の色が、違う色だと主張するかのように上と下に広がっていた。
変わってしまった景色の中、海とその中に浮かぶ島の配置は変わらない。
懐かしさになんだか泣きそうになる。
アルバムにあった色あせたフィルム写真のようにくすんでいた思い出が、洗われて再現されたような気分だった。
「綺麗……」
思わず言葉が漏れる。
「今日は最高に天気がいいから、特別綺麗だ」
上原くんは満足そうに言うと、窓を開けて、舗装された道をぐんとスピードを上げていく。
カラッとした熱風と、磯の香りが勢い良く車内に流れ込む。車内の空気は瞬く間に入れ替わったけれど、ひどく心地よかった。
駐車場に停めてある車は数台。平日の昼間にふらふら出来る人はそう多くない。
平日が休みなのだろうか。小さな子どもを連れた親子連れが数組、浅瀬で遊んでいる。それでも、波に漂う浮き輪は二つだけ。
車を降りると、足元を海からやってきた冷たい風が走った。
「うわあ――焼けそう」
眩しいくらいの白い砂浜は、もしかしたら昔より綺麗になっているかもしれない。サンダルで来てよかったと思いながら足を踏み入れると、熱せられた砂に足が埋まる。
熱いけれど、気持ちいい。この感覚には覚えがある。遠い記憶がみるみる蘇り、足に力が入り、歩みが勢いづく。
波打ち際にたどり着くと、サンダルを脱ぎ、海に足を入れる。日中の熱を大量に取り込んだぬるい水がくるぶしを包んだ。
だが、足の裏に感じる砂は、ひんやりと冷たい。
ジーンズを膝までまくり上げると、ざぶ、ざぶと沖へと進む。遠浅の海だから、しばらく進んでようやくふくらはぎが海水に浸かる。
じんわり、じんわりと、何かが体に染みこんでいくような気持ちになる。
上を見ると青。下を見ても碧。どこまでもあおかった。
深く息を吸うと濁った体が洗われていく気がした。
「いい顔してる」
不意に響いたシャッター音に我に返る。驚いて振り返ると上原くんが一眼レフを構えていた。
「か、勝手に撮らないで!」
文句を言うが、彼はお構いないにもう一枚。かっとなって近づくと、彼は悪びれずにカメラを見せてくれた。表示された画像に文句も引っ込む。自分でもいい写真だと思ってしまったのだ。
空と海。二つの青の中にわたしが切り絵のように浮かんでいる。海風に流れる髪。お日様に目を細めているわたしは、自然体で無理のない子供のような顔をしていた。
「な? いい顔だろ」
上原くんの言葉を否定できず、わたしが沖を見て黙りこむと、
「ゆっくりしていけばいいんだよ」
彼はわたしと同じ方向を見てぽつんと言った。
「あんたがあんたらしくいられる場所でさ」
上原くんの言葉は、疲れた心に染みこんでいく。さっき海の水がわたしの体に染み込んだのと同じように。
「あんたが回復するまで、俺、いくらでも、付き合ってやるから」
わたしには拓巳がいる。だから断るべきのお誘いだ。だけど、それはあまりにも心地よく、抗いがたい誘いだった。
回復するまで――ここにいる間だけなら……。
わたしは期限を切りつつも、思わずうなずいてしまっていた。