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3 プロ野球とヒラメの刺し身

 その日、慌ただしく荷造りをしたわたしは、福岡へと飛び立った。七月の初旬はこどもの夏休みもまだ始まっていないせいで、家族連れの旅行者は殆ど見かけなかった。連休である海の日以外であればまだまだ航空券も安くて助かった。


 午後10時に空港に着き、地下鉄で博多駅へ。博多駅からローカル線で三十分ほど揺られるとわたしの故郷に到着した。


 駅近だというのにどこもここも田んぼだらけで真っ暗。民家の灯りがちらほら見えるだけ。昔イノシシが線路を横断して、JRが止まるという騒ぎがあったくらいの田舎だった。


 逃げるように帰ってきてしまったけれど、約二週間早まった帰省をどう説明しようかと悩みまくった。


 タクシーしか停まっていない駅のロータリーに、ぽつんと明るい色の車が止まっている。母のオレンジのデミオだ。実家までは徒歩で三十分もあるため、出迎えをお願いしたのだった。バスは通っているけれど、一時間に一本くらいしか走っていない。東京に慣れているととんでもないと思うけれど、これがここでは普通なのだ。


 母は開口一番尋ねた。


「あんた、痩やせんかったね?」


 なんがあったんね? そんなふうに聞こえた。窺うような視線が痛くて、わたしはすぐに話を変えた。


「なんかビルがなくなってない? ここ、スーパーあったよね?」


 指を差した先には昔は大きな建物があったはずなのだ。


「正月明けに潰れたんよ。何が入っても潰れよったけど、とうとう建物がなくなったんよねえ。でも、すっきりしてよかろうが」


 母は苦笑いだ。


「ご飯は?」


「軽いものつまんだだけ」


「なら、お刺身とってあるけん、食べとき。あんたヒラメ好いとうやろ」


「ありがと。こっちのとあっちのは味がぜんぜん違うんよね」


 ささくれだっていた心に母の方言が染みこんで、なんだか和んだ。それにヒラメは大好物。この辺りは漁港が近いため、魚が美味しいのだ。


 荷物をトランクに積み、助手席に乗り込む。扉を閉めると、外部からの音が遮断され、母の息遣いまでが急に気になった。母がエンジンをかけると、ヘッドライトが暗がりを照らす。母は発進せずに物言いたげにわたしを見つめる。わたしが話す気になるのを待っているようだった。


 だけどわたしは、母の視線を無視して別の話題を振った。どうせ、父にも同じ話をせねばならないのだ。気力は節約したかった。


「……ところで、みさちゃんの旦那さんってどんな人なん?」


 結婚する母方の従妹は青山美砂あおやまみさちゃんという。彼女の実家は佐賀だけれど、相手の人――たしか上原さんという人だ――が福岡の人で、職場も福岡だから、博多で結婚式をあげるそうだ。


 昔からハイスペックな男を捕まえてみせると豪語するような豪快な女の子だったので、きっと相手の人は目の保養になるようなイケメンだろう。想像するわたしに、母は苦笑いをした。


「あー、なんていうか……うーん、大きい人やったね」


 母の滑舌が良くない。これは、どこを褒めたらいいのかと悩んでいる口調だ。


「大きいん?」


「一回だけ会ったんやけど、185センチっていいよったよ。みさちゃんがえらい小さく見えた。あの子もともと小柄やけん、余計に」


「へえ……イケメンやった?」


 母は頷かない。どうやら母の好みではないのだろう。ちなみに母の好みは韓流ドラマに出てくるような爽やかなイケメン俳優である。


「なんかねえ、面白い人やった。暇さえあれば喧嘩しとったんやけど、聞いとったら笑いが出たよ。仲がいいんよね。いい人捕まえとるよ」


「へえ」


 どうやらぱっと見てわかるようなイケメンではないらしい。だけど、みさちゃんが選んだ人なのだから、きっと素敵な人なのだろう。

 外見ばかり素敵な拓巳とは大違いだ。ドロドロとした感情が浮かび上がった拍子に「あんたはどうなんね?」わたしから話すのを待ちきれなかったのか、しびれを切らしたように母が急に攻撃を仕掛けてきた。


「前に彼氏がおるって言ったろうが? 結婚はせんとね?」


 歯に衣着せない言葉に胸がズシンと重くなったけれど、わたしはなんとか笑った。

 もう駄目かもしれません、そんな言葉を押し込めて、小さな嘘を吐く。


「うーん、まだそういう話、出ない」


「もう29なんやけんね、ふらふらするのもたいがいにせんと」


「……はあい」


 変に逆らうと追及が倍になるのはよくわかっていた。かといって、相談はできない。あまりにも自分の中で消化出来ていない。せめて、進む方向だけでも自分で見つけたい。


 わたしが素直に返事をすると母はウインカーを出す。陽気な色をしたデミオは、真っ暗な道を走り始めた。



 *



「ただいま」


 実家に着くと、父がプロ野球を肴に酒を飲んでいた。テレビを覗き込むと、延長11回の表の攻撃があっていた。こんな時間まで行われるならば、白熱した試合なのだろう。


 座卓の上には山盛りの枝豆に、赤魚の煮付け、きんぴらごぼう、焼き茄子に冷奴。父は休みの前日、母の作ったたくさんの好物を前に、延々と晩酌をする。それが当たり前で育っていたけれど、そのことを他所で話すとたいていは驚かれる。いつまでも片付かないテーブルに、妻側の負担を憂うのだそうだ。


 改めて親を見て、夫婦について考える。こんな父だけれど、母はさほど無理はしていない。父が自分の晩酌を楽しむ代わりに、片付かない家に文句を言わないからだ。晩酌を終えてから完璧に片付けをしろなんて言う夫だったら、妻は逃げ出すに決まっている。互いのための譲り合いがあるからこそ、夫婦関係が成り立っているのだと思う。


 わたしと拓巳はどうだろうか。

 考え始めると、やはり息が苦しくなる。考えたくないと、頭が拒絶反応を示す。


「ビール飲むか」


 父は野球中継から目を離さないまま、わたしにビールを勧めた。そしてわたしがそれを飲み干すと、静かに切り出した。


「どうしたんか。なんかあったんやろ」


 野球の試合は延長11回裏の攻撃で、ワンナウト三塁というサヨナラの場面だった。だが、父は構わずテレビを消した。沈黙が、わたしに口を割れと迫った。


「……仕事が、駄目になりました」


 ひどく口の中が苦い。ビールのそれとはまた違う苦さだった。

 転職することは伝えていた。わたしの激務を心配していて、転職を喜んでくれていた父と母は、お互いに顔を見合わせた。


「なので、次の仕事が決まるまで、ちょっとここで休んでいいですか」


 頭を下げる。

 わたしは、東京の大学に通っていたのだけれど、戻って来いという親の反対を押し切って東京で就職をした。当時付き合っていた彼が遠距離が無理だと言ったから。だから、苦しくても仕事にかじりついてきた。

 その恋はその後ダメになったけれど、拓巳と出会って、離れたくないと願い、願われた。わたしは怯えていた。恋を手放すどんな原因でも作りたくなかった。


 いままで散々帰って来いと言われたのに無視をしておいて、調子がいいと自分でも思う。

 父と母の沈黙が怖くて、わたしは顔を上げられないまま、静かに裁定が降りるのを待った。


 やがて、ことん、という音とこぽこぽという音に顔を上げる。

 わたしの前にはヒラメの刺し身と注がれたビールがあった。

 父は無言でテレビをつける。試合は今の間に決着が着いてしまっていたようだが、父は涼しい顔で手酌でビールを注ぐと、ちびちびと口に運ぶ。


 何も言わない父に「あんたには悪いけど、おとうさん、ちょっと嬉しいんよ」と母が苦笑い。そして、


「あんたの家やろ」


 そっけなく言うと、小皿に醤油を差した。実家の近くの醤油屋さんで売っている、濃くて甘い、刺し身醤油。胸が詰まって何も言えず無言で箸を取ると、わたしはヒラメを頬張った。

 口の中の苦さはヒラメと醤油の甘さで消えていた。

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