21 婚約破棄の理由
ホテルを探して新宿に戻る。だけど、結局は近くにあったネットカフェへと入った。女性専用フロアという文字に誘われたのだ。そこなら拓巳も追ってこれない。安心感を求めていたのだ。
ネットカフェに入ったのは実ははじめて。思っていたよりもブースは広く、清潔で、化粧室にはアメニティまでそろっていた。
それでもまんじりとも出来ないまま迎えた翌朝、薄暗いネットカフェのブースの中で、わたしは意を決して拓巳にメールを打った。
『昨日の新宿のスタバで待ってる』
だが、すぐに返ってきたメールはわたしの提案を拒絶した。
『ふざけんな。あんな人目のあるところで話なんか出来ねえよ。場所はこっちで指定する。そうじゃないと家の前でずっと張ってるからな』
家の前で張っているという言葉にやっぱりと思う。あのまま追いかけないわけがないのだ。戻らなくてよかったと心底思う。
それにしても、これは拓巳の本性なのだろうか。もしあのときに実家に帰らなければ、結婚していたことを思うと血の気が引く。あの時失業して良かったのかもしれないとまで思えた。
指定された場所を見て、心底肝が冷える。下手したら乱暴されるかもしれない。だけど、ここで逃げたらわたしはいつまでも逃げ続けなければならないのだろう。
ぎりぎりと締め付けられる胸に手を当て、落ち着こうと深呼吸をする。そして、トイレで化粧を直し、口紅を引き直すと、ネットカフェを飛び出した。
指定されたのは新宿のホテルだった。ロビーは平日の昼間だけあって、人はまばら。打ち合わせをしているビジネスマンがいるだけで、落ち着いた雰囲気だった。
そんな中、ソファに深く腰掛け、足を投げ出している拓巳だけが上品な空間で妙に浮いていた。
部屋に連れ込まれてもおかしくない。警戒していたので、ロビーでくつろいでいる拓巳を見て少しホッとする。
だけど――拓巳の血走った目と目が合うなり、わたしは足が震え出すのがわかった。
家の前で張っているという言葉通り、本当に自宅には帰っていないのだろう。スーツは縒れているし、ネクタイも曲がっている。いつも磨かれている時計も曇っている。誰もが認めるイケメンのはずなのに全くそう見えず、いつも彼が背負っている華やいだ空気は全く感じられなかった。
代わりに感じるのは尖った、それでいてねっとりとまとわりつくような空気。蜘蛛の糸のような罠を張られているような気分がして、わたしは思わず後ずさる。
「なあ、説明して」
静かに言うと、拓巳は目の前のソファを指差す。そのままむっつりと黙りこんだ拓巳に、わたしは立ったまま告げた。
「昨日言ったとおり。ごめんなさい。好きな人がいる。だからどうしてもあなたと一緒にはなれないと思ったの」
拓巳は大きくため息を吐いた。そして苛立たしげに髪をかきむしる。
「何が不満? 俺、出来る範囲で直すつもり」
好きな人がいるという言葉は聞こえなかったかのよう。自分に都合が悪いことは無視するのだろうか。
わたしはそういうところがだめだと言ってしまいたかった。
出来る範囲で直せたら、わたしが戻ってくるとでも思っている?
わたしはなんだか笑いたくなる。今までのことを考えると、拓巳が許容する範囲なんてたかが知れているのだ。残りの範囲はわたしの領域。わたしはその領域を減らしていいことを上原くんに教えられてしまった。だからこそ、もうその広い領域を背負いきれないのだ。
わたしが言葉を選んでいると、せっかちな拓巳は待ちきれないように言葉を重ねた。
「あのさ。結婚ってさ、全部理想通りに行かないものなわけ。妥協も必要なんだよ」
わたしは悲しくなる。つまり、拓巳は、妥協してわたしに決めたと言っているのだろうか。愛などなかったと告白しているのだろうか。
彼の優しさを愛だと信じていたわたしは、どれだけ見る目がなかったのだろう。
自己嫌悪と虚しさを飲み込んで、わたしは拓巳に向き合う。
「わかってる。だけど、わたしにはやっぱり無理なの。あなたと歩く未来が全く想像できなくなった」
再三頭を下げた時だった。お腹に響く低い声がロビーに響き渡った。
「加奈子。おまえさあ、俺に恥かかせる気なの?」
この俺に。とでも付け加えたそうな様子だった。
わたしはビクリと体を震わせる。これからが本番だと直感したのだ。
きっと今までの穏やかな態度は、わたしの気を変えさせるための飴だったのだろう。
「は、じ?」
「一生に一度のプロポーズだぞ? 全部ぶち壊しだし、俺、もう親にも紹介するって言ったし、同僚にも、友達にも、結婚式の日は空けておけって言ったんだよ」
「…………ごめん、なさい」
「指輪だって相当高かった。断るつもりなら、先に言えって。だったらあんなブランド物、絶対買わなかったし。レストランも、ホテルもいくらかかったと思ってる? 全額返せよ?」
拓巳の主張したいことがすぐには理解できずに、わたしは呆然とする。
ウエイトレスがコーヒーを運んでくる。拓巳が人目を気にして黙ると少しだけ頭が働き出した。
わたしだって、もちろん拓巳のご両親には申し訳ないと思っている。全身全霊で謝らなければいけないと思っている。だけど、どこか腑に落ちない。
だって、拓巳が怒っているのは、彼らが悲しんでいるからではなく――自分がプロポーズを断られて恥をかいたからなのだ。
そして、指輪だって、受け取ったわたしが喜ぶからではなく、最高のプロポーズを演出したという自分に酔いたいから。それが失敗したのがわたしのせいだから――返せと、プロポーズをまるごと弁償しろと、言うのだ。
理解して、拓巳という男の薄っぺらさに、小ささに。そして彼に恋をしていたわたしに、だんだん吐き気がしてきた。
「どうしても別れるって言うんならさ。こっちから断らせてくれない? おまえのせいで結婚がダメになったんなら、俺の顔もまだ立つだろ?」
わたしのせいで、というフレーズにビクリとする。上原くんと寝てしまった以上、それは紛れも無い事実であり、すべての非はわたしにあるから。
「俺、おまえに騙されたって言うからさ」
あることないことを吹聴されても仕方がないと思う。だけど、共通の友人達の顔を思い浮かべると、涙が出そうになった。きっとわたしは彼らの中では悪女になり、軽蔑の眼差しを一生向けられるのだ。
それでも、わたしには手に取りたいものがある――と顔を上げた時だった。
拓巳がわたしを通り越して、後ろを見ていた。
背中に覚えのある気配を感じて、まさか、とわたしは思う。
振り向くと、そこには目に怒りを湛えた上原くんが立っていたのだった。