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16 ふさわしくなるために

 東京の人の多さは、人を殺せるような気がする。

 わたしは自分に与えられたスペースの少なさに驚き、縮こまる。慣れていたはずなのに、久々に味わうとこの人口密度は恐怖でしかなかった。

 福岡で過ごしたひと月の間に、体質まで変わってしまったような気さえする。

 わたしはきょろきょろと落ち着きなく駅をさまよう。Suicaを手にした楽なはずの乗り換えにも、すでに自信を失いかけていた。羽田から京急で品川へ。品川からJR山手線で渋谷へ。そして渋谷から井の頭いのかしら線に乗り換える。停まっていたのは薄紫色のラインの入った丸いフォルムの電車だ。二車線あるホームの反対側には黄緑色の色違いの車体が停車中だが、帰宅ラッシュの時間帯、発車間際の混雑した急行に乗るのには体力も気力も足りなそうだった。わたしは各駅停車の電車に乗り込むと、杉並にあるアパートへと向かう。

 中心地から離れると高層ビルは減ってくる。だが、東京ではどこまでいっても住宅地しか見えない。田舎だと市街地を抜けると田んぼや、山などが目に入りだすというのに、ここには人工的に作られた自然がポツポツと散在するだけ。見ていると青々とした田や、こんもりと茂った林、そして地平線に連なる山――それから輝く海が懐かしくて仕方がなくなった。

 アパートのある地区は、京王線と京王井の頭線の間に広がる閑静な住宅地だった。この辺りは都内にしては家賃が安く、職場があった渋谷区にも電車一本で行けるので便利なのだ。

 駅から少し離れた場所にある二階建ての古いアパート。独身者向けに作られていて、同じサイズのドアが五つ横並びに並んでいる。階段を登っておおよそ一月ぶりに部屋に戻る。

 自分の部屋なのに他人の部屋のようにも感じた。

 カーテンを開けて光を呼び込む。一月分の淀んでしまった空気を追いだそうと窓を開ける。目下には神田川が流れている。横を走る遊歩道沿いには様々な木々が植えられていて、わたしはここをぶらりと散歩するのが好きなはずだった。だが今はなぜかコンクリートばかりが目についた。木々までもが造りものに見えて、不思議だった。吉祥寺辺りまで行けばまだ土手なども残っているのだけれどと考えて、どうやらわたしはこの土地で『土』を探しているらしいと気がついた。

 窓から流れ込む空気はぬるく濁っていて、わたしはすぐに窓を閉めた。

 ブレーカーを上げてエアコンのスイッチを入れる。人工的な尖った風は身体を芯から冷やしていく気がした。

 母が打ち水をする音が懐かしい。柔らかい涼風が懐かしい。

 なんだか泣きたくなっているところで、ぶうん、という音が響く。バッグから携帯を取り出す。薄暗い部屋でも存在感を示す表示を見ると、メッセージが一件。

 美砂ちゃんから《瑞生さんに言ったよ》と一言だけのメールだった。


「美砂ちゃんには悪い事しちゃったな」


 わたしはため息を吐いた。

 彼女にわたしは頼んだのだ。もし上原くんから連絡を取り次いでほしいと言われても取り次がないでくれと。携帯を変えたからと言ってくれと。さすがに理由をいろいろ聞かれたけれど、わたしは喧嘩したとだけ伝えた。

 というか、あんなこと、恥ずかしくて誰にも言えないと思った。酔った勢いで男の人と寝ちゃった美砂ちゃんのこと、呆れたくせに。結局、同じことをしてしまったのだから。いや、泥酔していない分、よっぽど愚かだと思うし、その上わたしには拓巳がいるのだ。

 もし美砂ちゃんが年上だったら、相談できたかもしれない。年上として、だらしない姿を見られたくないというプライドはあった。

 美砂ちゃんは納得行かない様子だったけれど、結局はうなずいてくれた。


 あの夜の事を思い出すと、今でも体が燃え上がるような心地がする。あの時わたしはどうかしていた。お酒が入っていたから? いや、わたしはきっと、あの時、上原くんに酔っていたのだ。


『好きだ――好きだった、ずっと。どうしても忘れられなかった』


 彼の声は、あれから時と場所を選ばずに蘇る。その度にわたしはひゃっと小さな悲鳴を漏らす。鏡を見るとわたしの顔は、夕焼けに染められたかのように真っ赤だった。

 頭を冷やしたくなって、コンビニで買ってきた水の封を開ける。半分残した水を冷蔵庫に入れようと、中を見てげんなりした。家を開ける前に処分したから当然だけれど、冷蔵庫は空っぽだった。


「あー……買いもの行かないと……億劫だな……」


 駅前のスーパーは決して高くはないけれど、地元で散々新鮮で安い野菜や魚を見てきたせいで、全く手が伸びなかったのだ。


「あと、失業保険の認定も……。新宿人多そう。行きたくないな」


 求職活動をしているかを証明するため、ひと月に一度ハローワークに手続きに行かねばならないのだった。と言っても、求職活動はここひと月全くしていない。次にどんな仕事をするのかも思い浮かばない。

 だが失業保険を貰わないと、生活は苦しい。家賃だけでも随分持っていかれるのだ。資料を見直すと、求職活動になる活動をリストアップする。企業の面接、民間合同説明会、ハローワークでの職業紹介、講習会、資格取得……いろいろあって頭が煮えてくる。わたしはひとまず職業紹介をしてもらうことに決めると、一息つくためにお茶を淹れる。


「めんどくさいな……」


 呟くけれど、面倒なのはお茶を淹れることでも、買い物でも、失業保険の認定についてでもなかった。なぜなら、それ以上に億劫なのは――


「けじめ、つけないとね……」


 かばんの中からビロードのケースを出すとわたしは蓋をあける。

 罪のない光が部屋に落ちるけれど、照らされたわたしのほうは、もうこの光を受け取る資格が無いのだ。

 それに――


「ちゃんとしないと」


 逃げるように福岡を飛び出したけれど、わたしは逃げたつもりはなかった。むしろ、戦おうと思ったから東京に出てきたのだ。

 今のわたしは、上原くんにはふさわしくない。

 でも、わたしは、あの人が好きだと気づいてしまった。

 もし離れなければ、あのままずるずると関係を続けてしまうと思った。そのくらいにわたしは弱い人間だという自覚はあった。そんなのは嫌だった。わたしだけが汚れるならまだしも、上原くんを巻き込むのだけは絶対ダメだ。


 開けっ放しのカーテンを締める前に、神田川を見つめる。コンクリートに囲まれた水は下流に流れるしかない。今までのわたしは、あの水と同じく流されていた。楽な方に、楽な方に。だけどそれでは本当に欲しいものは手に入らない。


 わたしは、上原くんにふさわしくなりたかった。手遅れかもしれない。だけど、諦められそうにないから、少しでも、ふさわしくありたかったのだ。


「もう、流されるのは止めるよ」


 怖くて声が震えた。だけど、それでもやっぱり欲しいと思った。上原くんの腕の中に堂々と飛び込みたい。だからわたしは今度こそ流れに逆らう。戦うのだ。


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