15 計算違いもいいところ
上原くんの指は、わたしの体に的確に触れた。
まるでスイッチを押すように、確実に丁寧に。
わたしはこういうところまで上原くんらしい――そんなことを頭の隅で考えながらも、いつしか夢中になりかけていた。
わたしの体に熱が入ると、彼は遠慮を脱ぎ捨てた。後部座席を倒した上原くんは、フロントガラスにサンシェードを引いて外界と車内を切り離す。
浴衣をはだけられる。座席に咲く朝顔の花の上。執拗に優しくなぶられ、わたしは乱れ狂う。
今までこんな風にされたことはなかった。皆、愛撫もそこそこに、最後の線を超えたがった。だが上原くんはどこまでも丁寧にわたしの体を愛した。時に怯えながら。わたしの意志を探るように。
もしわたしに少しでも拒絶の意思表示があれば、彼はきっとやめていたのだろう。
だけど――わたしは彼を受け入れる。いつしか、受け入れないという選択肢がないくらいに、わたしは切実に彼を欲していた。
ただし、それも一瞬のことだった。
体に重みが加わり、上原くんはとうとう理性を手放した。
「好きだ――好きだった、ずっと。どうしても忘れられなかった」
そう告げられるのと同時だった。携帯がぶうん、と鳴った。まるでわたしに目を覚ませとでも言うように。
拓巳?
その名が頭をよぎったとたん、左手の薬指がしびれていく。頭の何処かが冷えていくのがわかった。それでも体は熱に浮かされたまま、流されていく。
わたしは絶望する。
婚約者がいるのに、こうして他の男と寝ているわたし。
こんなだらしない女が幸せになっていいわけがない。なれるわけがない――そう思ったのだった。
*
瑞生の実家は古い日本家屋だ。昔ながらの縁側には、母親の作ったグリーンカーテンで日陰が作られている。ゴーヤの葉の隙間を、夕日と共に僅かに冷えた風がふき込む夕暮れ時。
瑞生の隣には麦茶とスイカ。そして目の前には将棋盤が置かれ、挟んで向かい側には弟の良平がいた。
ぱちん、と駒を動かした直後、瑞生は「しくった」と小さくつぶやいた。目の前でにやりと笑う良平がすかさず瑞生の《角》をとる。
幼いころはこうしてよく遊んだが、大人になってからは将棋盤をはさむことも減った。新妻とともに実家に寄った良平が久々に一局どうだと声をかけてきたのだった。そしてその目的は将棋ではなく、兄の腹を探るためだろうと思えた。
「一昨日の花火からぼうっとしてるらしいけど、なあにをしくじったんだろうなぁ」
瑞生は小さく舌打ちをする。これはどうやら母親から話がいっているらしい。隠していたつもりだったのに、ダダ漏れだったようだ。
母に似た良平は昔から人の心を読むのに長けている。瑞生も比較的得意な方だけれども、未だに敵わないでいる。
あと少しだけ、読みきれていたなら。――瑞生は後悔していた。
「どうせ加奈子さんだろ」
「……」
花火大会の時に瑞生が策を講じたのをあっさり見破ったのだろう。図星だけれども瑞生は淡々と歩を打った。まだ形勢逆転とまでは行かない。作戦を練り直せば、まだ。挽回のチャンスは残っている。
そう言い聞かせるのだけれども、いかんせん、連絡先を手に入れていないのは痛かった。一昨日の出来事は、アドレス入手のあとの手順だったはずだったのだ。まさか、あの場で、あの真面目な彼女が瑞生を受け入れるとは思いもしなかった。計算違いもいいところだったのだ。
あのあと彼女とはごく普通に別れた。だが彼女は相変わらず個人の連絡先を渡してくれなかった。さすがに瑞生も浮かれていて、失念してしまっていた。それが致命的だった気がして仕方がないのは――
彼女が突然東京へと戻ってしまったからだった。
「美砂が心配してたんだよ。突然帰るって連絡してきて、電話番号とメルアド変えたらしいし。……兄貴と何かあったんじゃないかって。まあ普通はそう読むよなあ」
瑞生はそのことを義妹のメールで知った。
なにか言ってませんでしたか? という、義妹にしては遠慮がちなメールには、疑いが見え隠れしていた。
瑞生は奥歯を噛みしめる。
「なにもない」
あったけれど、とてもじゃないが口にできないと思った。何の約束もないまま、恋人のいる女性と関係してしまったなど。瑞生が悪者になるのはいいとしても、彼女の名誉のためには絶対言えない。彼女にはそんなのは似合わない。
(どうしてなんだ)
恋人がいると言っていた。なのに、どうして拒まなかったのか。拒まなかったくせに、どうして何も言わずに東京に戻ったのか。
瑞生にはわけがわからなかった。彼女という人間を知った気になっていたけれど、全く知らない女に思えて途方に暮れる。
「このままでいいと思ってる?」
良平はこちらを見ずに将棋盤を睨んでいる。
「いつまでも裏ばっかりかいててもな。策士策に溺れるっていうし」
玉を逃すと、良平は飛車で瑞生の陣まで鋭く攻め入った。駒が成り、龍になる。
「最後は直球のほうがいいと思うけど――ほら、王手」
直球でいける相手ならばどれほど楽だったことか。
「…………」
なんだかんだで兄想いの弟だ。そう思いながらも、瑞生は詰んだ棋譜を見て途方に暮れる。
(……やっぱり、俺、詰んだんじゃないか?)