次は一度目の春
「ずっと貴方のことを見ていました。貴方のことが好きでした」
「どうして過去形なの、君も何処かへ行ってしまうの?」
長い間泣き腫らしていたため、少年の目は赤く腫れていた。蕾すら膨らんでいない桜の木の下で、少年はぼんやりとしていた。冬の寒い日に、屋外でぼんやりしているのは全身を細かく震わせているためなかなかに辛そうではあったが、彼は動こうとはしない。
そんななか、唐突に現れた少女。ベージュのダッフルコートに赤いマフラー。黒髪猫目の女の子。少年は彼女に心当たりはなかった。誰だろう、と思ったが退けるだけの悪態をつく元気もなかった。それに――似ていたのだ。彼が失った家族の一員と。にゃあ、と鳴いては膝に擦り寄ってくる彼女と目がよく似ていたのだ。
「そうです。遠くへ行ってしまうのです。私は貴方に寄り添うことはできません。今日はワガママを言って、数時間だけここに来させてもらったのです」
「奇特だね。僕なんかにかまわないでよ。面倒だ」
そう言いながら、少年が少女の方を見ると、少女は眉を下げてゆっくりと語りかけてくる。そんなことは言わないで、と。なんか、って言わないで。私はずっと貴方のことを見ていたから知っているの。貴方がいつも頑張ってきたこと、毎朝直らない寝癖と格闘していたこと、貴方がどれだけ周りの人のために心を砕いてきたかを、貴方が猫のために初めて「友だち」からの誘いを断ったこと、貴方がずっと小さい黒猫のお墓の前で泣いていたこと……知っているから、僕なんか、って自虐的にならないで。自暴自棄にならないで。そう語った。
なんで知ってるの、と聞こうと思ったが、少年はそうすることはできなかった。少女がぽろぽろと涙を流していたからだ。
「……なんで、泣いているの」
「私が泣くのは、病気のせいよ」
悲しくないことと嘘をつく。零した涙を、流した雫を気のせいだと諭した。少年がポケットからハンカチを取り出して少女に渡そうと手を伸ばした。しかし少女は一方後ろへ下がって、それを固辞する。曰く、もう返せないから。
「私は、遠い遠い病院へ入院するの。だからここでさようなら」
少女は少年の答えを聞く気などない。一方的に伝えるだけ伝えて、勝手に泣いて、そして別れを告げるのだ。自由気ままに尻尾を振るように。
少女は踵を返して、振り返らない。
赤くない涙を零して、どんどんどんどん歩調は速くなっていく。最後には駆け出していく。身長が縮んでいく。誰もいない道をひたすら駆ける。細くなる腰にずれるスカート。裾を踏んづけてこけそうになって、そのまま少女は四足で走り始める。猫目は黄色、生える髭。まどろこしいコートもマフラーもするりと脱いで、小さな黒猫は走りゆく。
猫が小さく泣いた。
いや、本当はずっと泣いていた。
「お別れは済んだ?」
「ええ、済んだわ」
木に腰かけるは黒衣の女。知っているくせに、と猫が思えば赤い舌をぺろりと出しておどけてみせる。小さな猫は、ぐ、と見上げる。黒衣の女は目を細めて猫に問う。
「本当に、ずっと一緒に居なくていいのかい?」
「貴方に永遠を求めると、二人して生ける屍にでも化しそうだわ」
「おやおや、そこまで非道ではない。ただほんの少し、重い病気と永遠ランデブーするだけさ」
「酷い人」
吐き捨てるように言えば、女はくすくすと笑いだす。
電気の消えた家の中、命の灯をまさに消そうとしている黒猫のもとへ女は現れた。最期の願いでも叶えてあげよう。なにがいい、なにを望む? 己を守れなかった飼い主へ? それともあの酔っ払いへ? トラックを徹底的に壊すかい? あの獣医を働けなくするかい? くすくすと笑う女へ向けて、それならば、と黒猫は望んだのだ。
数分でいいから、愛しき主へ言葉を。
「私は人かな」
「人型なのだから人でいいでしょう?」
「君は賢いね。老婆なのだから仕方ないか」
「あら、女性の年をバラすのは野暮でしょう?」
「そうだったね。それじゃあ……まぁ、さようなら。つまらなかったよ」
「だって貴方を喜ばせるためにやっているんじゃないもの」
猫の体はぼろぼろになっていく。毛が落ち、皮膚が剥がれ、黄色かった目は濁る。痛々しい傷痕と、手術痕。あの事故で誰も傷つかなかった。人は誰も傷つかなかった。心は大いに傷ついても、いつかはきっと訪れる。にゃおんと猫は鳴いてみせた。貴方の望む絶望は訪れなかったわ、残念ね。
そして猫は死んだ時と同じ傷だらけになり果て、塵となった。
あの桜の下へ塵は還りゆく。
彼は春になったら訪れてくれるだろうか。
『泣いたことさえ嘘にした、寝ぐせが直らない、猫の涙』
以上三つで書きました。