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橙色の蓋を

 むせ返るような金木犀の香りの下で、女は座り込んでいた。女の足元には、一つの死体が転がっていた。

 暑さもすぎ、冷えかかる秋の夕暮れ時である。

 女はまったく動かない。

 そばに置いてある大きな鞄の中には、麓のコンビニで購入したのであろう、大量の食糧とペットボトルが入っている。食べ散らかしたごみは、そこらに打ち捨てられている。弁当はまだ残っており、彼女はまだしばらく、ここに留まるつもりなのだろう。

 濃厚な臭いの、橙色の小さな花が周囲に敷き詰められた山の中で、女はただ、死体を眺め続けている。

 死体は人間の男性であった。

 女と同年代ほどであろうか。長袖長ズボン、水筒を携えて、まさにハイキング途中といった様子だった。休憩中だったのだろうか、リュックは投げられた様子もなく静かに傍に鎮座していた。

 男性の背中には包丁が刺さっている。

 ただの他殺体であった。

 しかし女に、これは死体だ、もう動かない、諦めろ、そう声をかけるとするならば、彼女は烈火のごとく怒り出すだろう。


「彼はもうすぐ生き返る!」


 彼女がこう言うには理由がある。

 その死体には魔法が掛けられたのだ。死者が蘇る魔法である。それをかけたのは一人の魔女であった。

 黒いローブに身を包んだ、チェシャー州の猫のような魔女であった。魔女は、男を殺して呆然としている彼女の元に唐突に現れたのだ。


「殺しちゃったねェ」

「違う……違うの……」

「なにが違うんだい? 君が刺し殺した、君が、だよ。だって、その包丁を家からこんな山奥にまで持ってきたのは間違いなく、君だ」

「違うの、こんな、こんなはず、じゃあ」

「殺意の塊持参でこの結末が予想できなかったなんて、ねぇ?」


 あ、ああ、と言葉にならない言葉を垂れ流す彼女を魔女は嘲り笑った。魔女は容易に見通す。

 彼女と恋人の男が些細なことで口論続きだったことも、彼女が包丁で脅してやろうとそれを家から持ち出したことも、横柄な上から目線に我慢できずにハイキングの途中に後ろから刺してしまったことも。


 すべてを、見通す。


「あんたが現れなかったら、うまくいったのよ!」

「おいおい、僕は君が刺してからの登場なのに」

「嘘つき!! 知ってるってことは見てたんでしょ?! だったら止めなさいよ! こんなはずじゃなかった! 好きだった! 愛していたのよ!! ねぇ!! なにか言いなさいよ!!」

「ずっと返事をちゃんと返しているじゃないか。都合のいいことだけ通す頭はずいぶんと利便性がよさそうだけれど、君みたいになるなら僕はごめんだね。せいぜい出頭でもしたら?」

「そしたら私はどうなるのよ!! 幸せに生きられないじゃない!! こんな男のためにどうして私の人生が狂わせられなきゃいけないの?!」


 先ほどまでは好きだの愛だののたまっていたくせに、こんな男ときたものだ。魔女はせせら笑う。しばらく理不尽なこの現実に対して喚き散らしていたが、魔女が何も言わないのを見て、女は急にしおらしくなる。両の腕を組み、体をくねらせ、さも自分は悲劇のヒロインであるかのように、魔女を上目づかいで見るのだ。


「ああ、ごめんなさい、つい気が立ってしまったの、殺人なんて初めてで……」


 おやまぁ、認めた。自分が殺したと認めた。殺人経験あります、なんて人はそこらを探しているわけがない。

 くるくると変わる態度のメリーゴーランド。次は憤怒が来るだろうか。

 さめざめと泣くようなふりをして、彼女は魔女から同情を買おうとしている。だがしかし少し考えてもみてほしい。リュックも持たず、黒いローブで笑うような女が、ただの観光客やハイキングを嗜む女性だろうか?


「分かってくれるわよね? だってあなたも同罪なんだから」

「えぇ? 君だけだよ、君が刺したんだから。なんなら、僕が警察に口添えしてあげようか」

「はぁっ?! フザけないでよ! あんたが黙ってたら捕まらなくていいの! これは事故なの!! なにもなかったら私は彼と仲直りして幸せになれたの!! あんたが止めなかったからでしょ?!」


 魔女が警察への出頭の際に目撃証言をすることを提案すると、予想通り、火山を噴火させて怒り狂う。その顔の赤みは溶岩の赤だろう。

 なにもなかったら、なんて起こってから言われても。あとの祭りを踊れと言うのか。止めようとしたら、魔女を刺そうとしたかもしれない。たらればは、とても美味しいものなのだ。

 しかしながら、いいかげん、魔女も彼女のきゃんきゃん高音を聞くのにも飽きてきたようで、大声を出して遮った。


「あーっ、あー、はいはい。まったく……こんなにも姦しいのは久しぶりだねぇ。僕ももう少しお客さん選ぶべきだよ。それでもがんばっちゃうのは偉いよねェ」


 自身の肩を揉んで、頑張ってます、疲れてますアピールを行う。彼女はちっともこちらに注意を向けない。私が、私が、の彼女である。

 パン、と一つ手を鳴らすと、ようやっと彼女は魔女の方を見た。彼女は怪訝で、不愉快が現れた、眉を顰めた表情である。魔女は呆れるような表情から、一気に営業用の微笑みを張り付ける。


「一つ、手がある。僕はこれでも魔法が使えてねェ。君の彼氏を生き返らせてあげよう」

「ほん、と……? できるの? 早く言いなさいよ!!」

「これで生計を立ててるから、ただとは言いづらいなぁ」

「はぁ?! 何言ってんのよ、あんたも同罪なんだからただ働きするのが義務でしょ?!」

「これだから脳みそ腐れ女は」


 魔女は気分を害したようで、舌打ちを我慢するようなそぶりを見せた。しかしすぐに、まぁいいさ、と浅くため息をついて女へ説明を始める。


「この魔法はね、正確には生き返らせるんじゃない。『もとの運命に戻す』魔法だ。捩れてしまった運命の鎖を捻って元に戻してやるのさ」

「じゃあ、じゃあ、彼は私のうっかりではなくて、ちゃんと生きて死ぬのね!」

「そうともかぎらないのさ。もしも『今生き返っても、いずれ君が彼を殺す』ならば、彼は生き返らない。だって鎖は捩れていないから」

「いき、いきかえる。……そうよ、生き返る。だって、彼と私は愛し合ってて! だから! 彼は生き返る! ほら、早く! 早くかけなさいよ! その魔法ってやつ!!」


 ずっと見ていてご覧。

 いずれ君の彼氏は起き上がって、何事もなかったように喋りはじめるから。

 もしも生き返らなかったらそのときは、警察のせいで君の人生が狂うだけさ。


 魔女の残した最後の言葉をなんとしてでも否定するべく、一心不乱に死体を眺め続けるのだ。もうすぐ、きっともうすぐ運命は元通りだ。私たちも元通り、恋人になって、仕事に行って、結婚して、家事は旦那に任せて、私はいつまでもずっと綺麗に、悠々自適に暮らして……。彼女なりの「本来の運命」に想いを寄せて、ただひたすらに魔女の魔法が効くのを待つ。


 ああ、もう何日経っただろうか。


 むせ返るような金木犀が、死体の腐臭を覆い隠す。


『金木犀、かえる、縺れた鎖』を使いました。


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