切符を拝見
ちょっと痛い話
電車は走る。
私を乗せて走っている。
私は座席に座っている。特急や新幹線によくあるタイプの、窓に平行に座るタイプではない座席だ。
後ろには誰がいるんだろう、前には誰がいるんだろう。しかし私は立つことができない。何故だろう。
「ここは夢か、それとも真か」
眼球をぐるりと動かして、横目で通路を挟んだ隣を見る。
そこにいるのは黒い女性。
彼女はマナーの悪いことに座席二つ分に寝転がっている。にたにたと笑っているのがどことなく不気味だ。
「きっと夢」
「夢かな?」
「だって私は電車ではなく、いつも車だもの」
私は常に車通勤で定期なんて持っていない。電車に乗ることなんて滅多にない。そもそも、駅に行くまでに車がいるのだし。
「ふむ、実は僕は誘拐犯なんだ」
「嘘。私を攫ってなんの益が?」
「確かにね」
「肯定しないでよ、悲しくなる」
価値がないと言われたようで。
「じゃあ僕は誰でしょう」
「知らない」
「即答かい? 少しは考えてくれてもいいのに」
「考えたってどうにもできないのでは、考えるだけ無駄でしょう。貴方から教えてもらった方が早いわ」
「つまらない」
「喜ばせるための私ではないもの」
「じゃあなんのための?」
「なんのためでも」
「生きている意味すらないようだ」
「生きているのに意味なんて求めるの?」
「それもそうだ。じゃあ、君は、生きていたい?」
「どうだろう、別に死んでもいいのかもしれないわ」
そう言った途端、しまった、と後悔の念に襲われる。黒い女が、けらけら笑ったから。不吉の象徴のような黒い女がさも楽しげに笑うのだ。これはきっとベターと言えない回答だったのだろう。
「よかったねぇ、死んでもいいのならちょっとは心持も楽だろう」
「それはどういう……これから私、死ぬの?」
『次はぁ、刺身ぃ、刺身ぃ』
美味しそうなアナウンス……に寒気がした。私は、このアナウンスを知って、いる。いや実際に聞いたのは、これが初めてだけれども、私は知っている。これは……。
「猿夢」
私の背後、少し遠くで断末魔があがる。甲高くて、耳障りな、まだ若い少女だったのだろう。ぼとぼとと重いものが落ちる音もした。ぎぃぎぃびちゃびちゃと粘着質な液体と、歯の軋むような声が電車の中に響く。
しかし、私の目の前に座っている青年は身じろぎひとつしない。私もしない。いや、できないのだ。逃げ出したいのに、固定されたように動かない。眼球だけが素直だ。声、そう、私は叫べない。犬のだらしない呼吸のように、短く、心臓の鼓動と同じ速さで息をする。
「ふふふ、さぁてそれはどうだろうか」
「馬鹿、なこと言わないで……猿夢よ、猿夢に決まっている。前の人だって、私と同じように動けず震えているはずよ」
「えぇ? だって、この電車がそのまま拷問電車かもしれないよ?」
「違うわ! 夢だから動けないの、嘘よ。後ろを振り向けない、列車の中……今は電車だけど、不気味なアナウンス、それ通りに殺される乗客! ……猿夢よ」
覚めろ――覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ!!
固く目を瞑り、唇を噛みしめる。一心不乱に夢から逃げれるようにと願い続ける。唇が切れたのだろう、血の味がする。けれどそれも少しずつ感じなくなってくる。そして……。
『ジリリリリリリリ』
目覚ましの音に目を開ければ、そこは電車の中だった。
「どうし……」
「簡単な物まねに縋っちゃうぐらいには追いつめられてるんだねぇ。最初のころのクールガールはどこにいったのやら」
魔女がけらけらと嗤っていた。それにかぶせるように、次はぁ、ミンチィ、ミンチィと平坦なイントネーションのアナウンスが響く。
まさか私の番では、と肩を跳ねさせると、魔女が笑って親切にも教えてくれた。
「大丈夫、君のすぐ後ろの人だから」
床を響く、きっと機械が運ばれてきたのだろう。重低音がして、私の座席までも震える。ああ、擦り潰すために作動されて、音はゆっくりと、ゆっくりと下がって、下がって、下がって――。
あ゛ぁあ゛あ゛あ゛ぁあ゛っ!!
「お願い助けて! 誰か助けて! 夢なら覚めるでしょ?! 夢だから、これは夢だから! 私は助かる! 私は助かる側の人間だから!!」
聞きたくない、見たくない!! 目を開けず、絶叫を絶叫でかき消す。叫び続けないと、後ろの声を聴きたくないから、泣かないと、鳴かないと、覚めて、お願いだから――っ!!
「やぁっと本音が出ましたね。甘ちゃんの本音が」
魔女の声はやけに通った。
気付けば音はなくなっていた。目を開ければ、にこやかな女。手には切符を持っている。私の名前が書いてあった。
「君の切符さ」
「助か、る?」
「助かるよ。はい」
口の中に、女は切符を滑り込ませた。どうしたらいいのか分からずに、私は唇で挟み込んだ。
「切符を拝見~」
そしてすぐに抜かれた。右斜め正面、車掌の格好の誰かが立っていた。アナウンスと同じ声の持ち主……。女の姿はない。足元には血が垂れている。後ろから流れてきたものだろう。あのままだったら私もこうなっていたのだろう。けれど私の切符で助かるって、彼女は言っていたから――
「おや、もう既にスタンプが」
「……え?」
「ほぅら、これこれ」
血が、私の唇の跡が、ついていた。
「それでは早速、出発進行ぉ。次はぁ、抉りだしぃ、抉りだしぃ」
使用お題は
『甘い本音と甘い嘘、夢と嘘とのパレードへ こんにちは、電車』
でした。
猿夢は見たことありません。