黒に染まる前
午後だけはおやすみを貰った。
いつもはくたびれた労働者たちで詰まっている電車は空いていて、清々すると同時に、座れるのがとてもありがたかった。
妙に空が青いのが慣れなかった。いつも外は暗いものだったから。
周りの人の笑顔や、雑談の声がいつも耳障りで仕方がなかった。家の中にいても、外でこびりついてしまった喧騒が響いてしまうので、ずっと機械の歌姫の曲を流していた。誰かの独り言はまだ心地いい、その声に応えるやつなんていないから。
千畳の広さの部屋に放り投げられたように、落ち着くはずなのに落ち着けない。
ベッドの上に鞄と身体を放り投げて、目を瞑る。瞼の裏には虹色の粒が浮かんでは消えていく。ああ、あの色はいつから其処にいたのだろうか。
ふ、と気づけば夜だった。どうやら寝ていたらしい。一筋の白い光が空を切り裂いた。しばらく考えてから、流れ星だと気付いた。流れ星なんていつぶりだろうか。最近はまともに夜空なんて眺めていなかったから。ああ、流れ星は何処に行くのだろう? 誰かに幸せを運びに行くのだろうか。少なくとも、私の方へはやって来ないらしい。
胃の中に、ぽとぽとと塊が溜まっていく。水が注ぎこまれていく。
目を瞑った。また、あの虹色。
私は、いつか世界が壊れてしまう予感に蝕まれていた。
「意外に、聡いのですね」
「……どちらさまでしょうか」
紺色のドレス、赤色の長い髪。コスプレかなにかだろうか、それとも、危ない人だろうか。どちらにせよ、不審人物には違いない。
警察に電話するか、と伸ばした手は鞄を掴むことはできなかった。身を起こしてみれば、そこは見慣れた私の部屋ではなく、狭い船の中だった。テレビで見たようなクルーザーの一室のような。G線上のアリアが流れていて、テーブルの上にはシャンパングラスが置かれている。外には黒い海が広がり、光る水母が空を飛んでいた。
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿じゃあ、ないですよ。私は馬鹿ではなく、救世主です」
「馬鹿でしょう」
「救世主です」
微笑む誰かは、頭がイカれてしまっているらしい。しかしイカれているのは私も同じだ。水母が空を飛ぶわけなどないじゃあないか。なぜ兎が海の中で牙をむいて獅子を狩っているのだろう。
「部屋に返してはもらえませんか」
「せめて私の話を聞きませんか」
「救世主だなんて」
「夢だと否定しないあたり、貴女には素質があると思うのです」
ああ。
そうか、どうして私は最初に、「どうやら、いつのまにか眠ってしまっていたらしい」と思わなかったのだろうか。
「いや、夢みているときって、夢を見ていると自覚するのは稀ですし」
「それもそうですね。まぁ、そんなのは些細な問題です。世界が崩壊するのに比べれば、些細な問題です」
「世界なんてもう一億年以上頑張っているんですし、そう簡単には滅ばないでしょう」
「それが滅んでしまうのです。なので、滅ばないように足掻くのが我々です。ようこそ、我が同士」
「いいえ、同士ではありません」
「なぜ?」
「世界なんて、滅んでしまえばいいからです」
世界が簡単に瓦解してしまうと言うのならば、都合がいい。滅んでもらおう。とくにこれといって神様を恨むわけでも、これといって憎い人がいるわけでも、辛い出来事があったと言うわけでもないけれど。滅んでもらおう。
女は微笑んだ。
女は三日月を三つ浮かべた。
「同士。同士、これは勧誘ではありません。もはや貴女は我々の仲間のほかないのです。覚えていないのでしょうか? 貴女はベッドに倒れこみました。その後の行動を、覚えていないのでしょうか?」
「……私はなにかしましたか」
「些細な事でも思い出してみてはいかがでしょうか?」
「……世界が滅ぶ予感しか」
「ええ、それは予感ではありません。たしかに世界は滅びました。貴女の世界は滅びました」
たぷたぷと、お腹の中が回る。ざらざらと薬が音を立てる。
大量の水と、千錠の薬。
そうだった、私はもう、すでに。
「世界は滅びました。しかしまだ貴女は滅びてはいません。だからといって安心してはいけません。滅亡は貴女のすぐ後ろへと迫っています」
私は弾かれるように後方見た。船の後ろ、海が盛り上がっていた。海面ごと盛り上がったそれは、私の方へと迫ってくる。それは私を飲み込もうとしている。滅亡がすぐそこまで、迫っている。
「死ぬの……?」
「でしょうね。同士ではないのでしょう?」
「……そう、でした」
自ら選んだ。
自ら選んだ。
自ら選んだ。
だから――仕方がない。仕方がないのだろう。
きっと、きっと、きっと…………ああ。
「実は、同士だったりしたら、どうなるんでしょうか」
「世界は滅べども、世界は滅ばない。矛盾の存在は理を変えれる。貴女の存在は書き換えられる。つまりは、我々と同じように不思議な存在となるのです」
「同士だったら……同士だったら、なにをしなければならないとかは」
「ありますよ。世界の滅亡を防ぐことです」
「どの、世界を? どうやって?」
「世界の集合体たる世界を。各々の方法で。……私は、人を間引いています。私の判断で、私の思う最大の方法で、人を間引いています。そうすれば、無駄に食い散らかす人が減って、世界も生きながらえるのではないかと考えたからです。でも、そうですね、人の子を大量に産む同士もいるようです。誰も、正しい方法など分かっていないのです」
唸り声が背後から響いてきた。
黄色い目がちらりと視界の端に移った。
「ああ、そういえば」
女が艶美に微笑んだ。
「貴女は我々の同士だったかしら?」
私は――――
「センジョウ、逃亡、午後だけ、流れ星は何処に行くの?」
を使用しました。
閑話休題。過去話。