第7話
私は知らない土地の知らない学校の前にいた。チャイムが鳴ると同時に学生服を着た子供たちが列をなして出てくる。
駐車場で泥を洗い流し、髪についた枯葉を落とした後、車の中で服を着替えた私はバドルにつれられて夫の浮気未遂相手のところへ来ていた。
会ったところで言いたいこともないし、ましてバドルの言うように一発殴りたい理由もないのだが、夫が私を騙して会っていた子がどんな子なのか興味があった。
「おい。何でこんな遠くからなんだよ。正面から行けばいいだろ」
学校の対面にあるコンビニの前で飲み物を飲みながら少女が出てくるのを待つ私の横でバドルが不満気に言った。
「嫌よ。ただの不審者じゃない。出てきたのを確認してから尾行して最終的に声をかければいいでしょ」
「逃げられたらどうするんだよ」
「バドルの魔法を使って追えばいいだけでしょ。それとも何? 協力しない気?」
「……チッ。人間はこれだから」
バドルはそう言ってフィルターに火をつけた。シナモンのスパイシーな香りが漂う。
「そうそう。私は顔を知らないから出てきたら教えて。面倒臭がって放っておいたら逃がしちゃうからね」
「はいはい」
やる気のない返事をしているが目は下校する学生たちを凝視している。人のことを言えた立場ではないが、素直じゃない。
やがてバドルは小さな声で呟いた。
「あいつだ。追うぞ」
「はいはい」
素早く立ち上がったバドルを追いかけて私も歩き出した。前を行くのは制服を着た学生三人組だ。
「あの三人? どれ?」
「右だ」
バドルが指差した少女をじっと観察した。三人とも歩みが遅く、時折大声で下品な笑い声を上げては尾行する私を驚かせる。
それでもどんな人物か見極めようと観察し続けていると、似たような後姿にも違いが見えてくる。
隣の二人は髪の色を一度抜いて再び染めたような色をしていて、校則違反か何かでもう一度黒に染め直したのだろう。太陽の光がその内側に隠れた派手な色を映し出す。
しかし、右を歩く彼女だけは自然な栗色がサラサラと揺れている。金髪や脱色にはできなかったのか、校則には触れない程度の染め方をしている。室内であれば黒髪にも見えるだろう。
カバンに着けた飾りも三人でお揃いにしているのだろうが、一か所に集められ、絡まって無秩序にぶら下がる他の子に対し、彼女のはすっきりと分けられている。
専ら聞き役に徹している彼女は歩きながらもよく喋る真ん中の子に視線を送り、大声で笑う程ではないときも話に合わせて白い歯を覗かせていた。
「悪い子じゃないみたい。よかった」
「よかった?」
私は頷いた。少女のことを観察しただけだが、仕草や持ち物から何となく性格がわかる。
「あの子は恋愛ごっこしてみたかっただけよ。彼氏がいる他の子と同じ立場になってみたくて、でも少しだけ優位に立ちたくて、他の子が手を出せないような大人の男性と付き合ってみたかっただけ」
「それがよかったのか?」
「うん。だって、悪いことをファッションみたいに思って男を唆してからかってるだけの子供に自分の旦那が捕まったら情けないじゃない」
「ふーん」
バドルは興味のない様子で欠伸を噛み殺した。
彼女は優しくされたことで純粋に恋をした。その相手が既に結婚している現実の重大さは若さの前では意味を持たないことだったのだろう。普通なら身を引くべきだと考えるところも頭にないくらい若いのだ。
知らないのであれば教えてあげなくては。妙な責任感に燃えている自分が可笑しかった。
前を行く三人は相変わらずダラダラと歩き続けている。駅へ向かっているようだが、本当に帰る気があるのか疑いたくなるほど遅い。
「まだ声かけないのか?」
「だって友達二人いるじゃない」
「一人になるまで待つつもりかよ?」
バドルは怒ったようにそう言って三人の少女たちに駆け寄っていった。止める間もないくらい素早い動きに私は追いかけるのを諦めた。若い美少年であるバドルだけなら他の二人もナンパか何かだと勘違いしてくれるだろう。
何と声をかけたのか、私の位置からは聞こえなかったが少女は大人しくついてきた。友人二人が再び歩き出すのを見送って戻ってきたバドルの背後には少し怯えた様子の少女がいた。
「こんにちは。お名前は?」
少女は困ったように私を見た。突然現れた男女が誰なのか理解しかねているのだろう。バドル一人であれば気分も浮かれるが、不釣り合いな謎の女が現れては警戒もするだろう。
この状況をどう説明しようか悩んでいるとバドルが言った。
「こいつはタマキ。お前の旦那を誘ったものの、結局捨てられた女だ。おい、タマキ。こっちの女はトモコ。お前が浮かれて恋人だと言いふらしていた男の嫁だよ」
「ちょっと……言い方ってものがあるでしょう」
「どんな紹介したって事実は変わらないだろ」
「そうだけど……」
横目でタマキを見る。タマキは眉を寄せて泣きそうな顔をしながらも、しっかりと光を宿した目で私を見ていた。臨戦状態で睨んでいるようにも見えるが、ツツリヒメという微笑みさえ凶器になりそうな人物に会った後では嫌悪の対象にすらならない。
私は溜息を吐いた。タマキの肩が驚いたように震えた。それでも気丈に私を見続ける。
「今聞いた通り、私はトモコ。タケヒコのことは知ってるよね?」
タマキは頷いた。
「タケヒコから話を聞いて、どんな子が相手なのか見に来たの。何か私に言いたいことは?」
「……何を言ってほしい訳?」
大人しくしているかと思えばなかなか生意気なことを言う。普段の私なら売られた喧嘩は買ってしまうだろうが、今日は朝から怒ってばかりで疲れているようだ。冷静に状況を分析できた。
タマキは夫と別れてから私が会いに来るかもしれないと予想していたのだろう。恋人を奪いに来たと思っているからこんなに喧嘩腰なのだ。私の様子から勝てる相手だと見ているに違いない。普段着に山登り後でただまとめ上げただけの髪型では、あまり威圧できる要素がないのだろう。
勘違いしているね。タケヒコは元々私の夫であって、あなたの恋人だったことはない。奪う必要なんてないのよ。だって彼はもう私の手元にいるんだから。
「言ってほしいことなんてあるわけないでしょ。あなたが何か言うことにそこまでの価値ないし。それとも何? 私がそう言えって言うことは何でも聞くって訳?」
高笑いしながらそう言うとタマキは悔しそうに顔を歪めた。バドルがタマキの横で腕を組んで見物している姿が視界に入ってくる。
「それなら今すぐにここで土下座して『二度と人の夫には手を出しません』って誓ってみてくれる? 一度見てみたかったの。人が私に土下座してる姿」
本当は夫が一度しているのを見ているのでそんな行動をさせることに意味はない。だが、タマキはしないだろう。ここは学校から駅へ向かう通学路だ。知り合いではなくても、同じ制服を着た人間が傍を通り過ぎていく。この場で土下座をすれば注目を浴びることになるだろう。
「……嫌だ」
案の定だ。私はほくそ笑んだ。
「そう。言う通りにするなら考えてあげたんだけど……あなた、既婚者との恋愛は罪になるってご存知?」
「いけないことだっていうのは知ってるよ」
「いけないなんてレベルじゃない。法律で決まってるの。不倫された妻は夫と不倫相手に慰謝料を請求できるって……慰謝料の意味はわかるわね? もう高校生だし」
タマキは少し青褪めた。僅かに頷く。
「ここまで話せば私がどうしてあなたのところへ来たかわかると思うんだけど……あなたにそれを請求しようと思ってるの。親にはもう話してあるかしら?」
「話してる訳ないでしょ……親は関係ないことなんだから」
「関係あるわよ。あなた未成年でしょう? 未成年が引き起こしたことは親の責任なの。それにあなた、慰謝料として私に支払えるお金があるの?」
「それはこれから貯めるよ」
「何百万もの慰謝料よ。稼ぐのに一体どのくらいかかるのかしら? どの道、公的な記録として残ることになる。親どころか学校にも知れ渡るし、これから就職するにも結婚するにも一生それを背負わなければならない。どこにも雇ってもらえないし、結婚もできなくなるかもね」
「ちょっと待ってよ! 私はただあなたの旦那さんとゲームで知り合って一緒に出掛けただけなのに、そんなのおかしい! 酷いよ!」
「でもホテルに行ったんでしょう? 夫からもそう聞いたし、証拠もある」
頭の中の冷静な部分が呟く。次から次へとよく嘘を並べ立てられるものだ。法律について勉強したことなんてない。聞きかじった知識しかないが、それでも夫から聞いた内容が全て真実なら何百万もの慰謝料は請求できない。そもそもタマキは学生なのだから現実的な金額を考えるともっと良心的な金額だろう。証拠があるというのも口から出まかせだが、タマキのような子供を脅すくらいの役には立つ。
タマキは明らかに怯えていた。恋人を取り合ったとしても喧嘩で済ませられる年齢だ。将来にまで関わってくる話になるとは想像もしてなかったに違いない。自分が軽い気持ちでしたことがどれだけ重大なことであったのか、やっと実感が湧いたらしい。
「どうしたの? 顔が真っ青」
私は挑発するように笑った。バドルはカメラを構えてシャッターを切っている。今そのカメラに映っているのはどんな魚なんだろう?
「とりあえず今すぐに夫の連絡先を携帯から消してくれる? あと接点がなくなるようにゲームもやめて。夫もやめさせるから、もう繋がりはなくなるわ」
「待ってください。最後にもう一度だけメールしてもいいですか?」
「ダメよ。それとも条件付きで許可しましょうか? その条件は親に同じメールを転送すること」
タマキは縋るような目で私を見たが、私はただ首を僅かに傾けただけでそれを受け流した。
諦めたようにカバンから携帯電話を取り出したタマキがアドレス帳から夫の名前を消す。それを見て確認した私は深く頷いた。
「ゲームはアプリを消せばいいの?」
「登録ごと抹消して」
その指示をこなすには少し時間がかかった。キャラクターを削除するという項目はあっても、ゲーム自体を退会するという項目が見つからないのだ。
「何これ? もう、どうなってんの?」
タマキがイライラして画面を乱暴に叩き始めた。
「バドル、何とかできないの?」
「無理だな。俺、携帯電話使ったことないし」
想像はしていた。バドルに携帯電話を使う必要があるとは思えない。メールや電話をする相手がいない上、直接会った方が早そうだ。
結局、私の携帯で退会方法を検索して調べて、それを見ながら退会処理を行った。
共同作業を行ったことで、何となく連帯感のようなものが生まれた私たちは初めて敵対心なしで顔を見合わせた。
「お腹すかない?」
「はあ……まぁ」
近くにファーストフード店を見つけて、私は迷わずそちらに歩き出した。タマキは何も言わなくてもついてきた。
メニューを見て適当に三人分を注文する。バドルが先に席を確保してタマキを座らせ、トレイを受け取りに寄ってきた。
「ありがとう」
「いや、なかなかいい仕事をさせてもらったからな」
機嫌がいい。かなりいい写真が撮れたのだろう。
席に着いて無言で食べ始めると、緊張と警戒で固まっていたタマキもトレイの上から好きなものを取って食べ始めた。残りをバドルが食べる。食料を必要としない割によく食べる天使だ。
小さな子供を連れた親子や周囲の目を気にせず大声で話す学生で賑わう店内では妙な組み合わせの私たちに注目する人などいない。話し声もBGMや他の声に掻き消されて聞かれる心配はない。
一頻り食べ終わり、手持ち無沙汰になった私はポツポツと夫のことを話し始めた。
職場で出会ったときのことから、交際中のこと、喧嘩した内容や結婚に至るまで、どうして結婚する気になったのか、結婚してからのことも全部話した。
タマキは最初、ほとんど無反応で聞いていたが、徐々に頷いたり、笑ったりするようになった。
心が溶けていくのを感じる。攻撃的だった私に対して防御しようと頑なになっていたタマキの態度が崩れていく。
やがて話し終えた私にタマキが言った。
「ねぇ、聞いてもいい? どうして私にそんな話を?」
「知ってほしかったの。あなたが浮かれた気持ちで踏み付けていたものが私にとってどれだけ大切か。あなたのしたことがどんなものを壊そうとしていたのかを」
私の言葉に対してタマキが何かいいかけて、止まった。視線が泳いでいる。何か考え事をしている様子だ。
今の子供たちは鈍感になるように育てられているように思う。限定され、偏った情報源のおかげで知識を奪われ、ただ流されるように目の前のことをこなさなければならない慌ただしさの中で思考を奪われ、偏ったものと掴み所のない世界に囲まれて身動き取れなくなっている。
きちんと必要なものを与え、道を示して手助けしてやれば、泡が弾けるように物事の真実を見られるようになる。考える力を身に着けられる。
でも大人たちは、きちんと考えろと叱るばかりで何も与えてはくれない。何の選択肢も教えずに選べという。
道筋はたくさんあるというのに、その中から適したものを選ぶ方法は誰も教えてくれない。制限と禁止事項の中で機械を生産するように成長させられてきた子供たちは自分の大きさを知ることができないまま、世間に放り出される。自分で自分に責任を取らなければならない世界へ投げ込まれる。
タマキもそういう立場の子なのだろうと思った。若さとは無知なのだ。大人たちは想像すればわかると馬鹿にするが、想像には下地というものが必要なのである。その下地とは経験だ。経験とは知識でもある。
私が今、話して聞かせたのは私という人間が培ってきた経験である。彼女は頭の中で私という人間が歩んできた時間を想像しながら聞いたはずだ。想像した上で考えているのだ。その話をした人間がどんな気持ちで目の前に座っているのかを。
触れられるくらいの距離で話すということは、言葉以上のものを伝える力を持っている。メールや電話でも要件は言葉さえあれば伝わるけど、感情を的確に伝えたいのなら直接話すしかない。
自分でもわからないこの気持ちを理解してくれなくていい。でも、私の思いや言葉を拒否せずに靄のようなものが記憶の片隅に残ってくれたらと願う。その靄はこれから先、確かな形になってくれる日がきっとくる。そのときになれば理解できるだろう。どうして私がこんなに祈るような気持ちで手を差し伸べているのか、怒ることができずにいるのか。
「私……何と言っていいか……とても悪いことをしてしまったんだって思ってるよ。もし、私の父が同じことをしたら絶対に許せないし、一生憎むと思う。でも私、頭悪いからどうやって謝ったらいいのかわからないんだよ。どうしたら許してくれるの?」
私は安心していた。伝えたかった気持ちがきちんと伝わった。深く頷いて言った。
「憎んだりしないけど、一生許さない。これはあなたが背負っていくべき罪なの。生きている限り、償ってくれる?」
タマキは最初に会ったときより力強い、しかし透き通った瞳で私をまっすぐに見て頷いた。私は微笑みたくなるのを堪えて言った。
「ただ、償わせる方も疲れるのよ。だから一つだけ許す方法をあげる。もしこの先、あなたと同じように許されない罪を犯して、そのことを理解していない人に出会ったら、その人に私と同じことをして。その人が理解して反省したら……あなたをこの罪から解放してあげる」
「……わかったよ、トモコさん」
子供が大人に成長するのに必要な時間は一瞬もあればいい。罪を背負うと決めたタマキは少女らしい幼さの残る顔に深い感謝と希望を宿し、大人びた表情で厳かに頷いた。




