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第6話

 山をただ歩くだけならば、絶え間なく襲い来る自らの思考に足を掬われていただろう。が、この山ではそうはいかない。

 どこに足をかけ、どこに手を伸ばすか。足にかける体重のバランスや重心の位置。それらをきちんと考えてしっかりと力を入れて登らなければ足を滑らせて落ちてしまう。

 ロッククライミングであれば落ちることは危険に繋がるかもしれないが、ここでは少し下の柔らかい土の上に腰を打ちつけて終わりだ。汚れることを気にしなければ痛くはない。木に衝突しそうになって本当に危ないときはバドルが引き上げてくれる。

 しばらく登った先にある小川で水を汲み、冷たい水に足をさらしながら水分補給をしつつ、私はふと疑問に思ったことを聞いた。

「バドルは不幸を集めてるんじゃないの? 不幸にするなら私を助ける必要はないのに」

「……言っただろ。お前がおかしいんだ」

「私のせい?」

「普通の人間なら、天使や神と聞けば万物の力を想像する。それを利用してどれだけ楽な方に逃げられるかを計算して、願いを言うんだ。少なくとも俺が今まで見てきた奴らはそうだった。俺は誘うだけでいい。手を出さなくても人間は堕落して、自ら不幸の連鎖に陥っていく。それをこのカメラに収めて俺の仕事は終わりだ」

「でも、バドルって何もできないじゃない。魔法は使えないんでしょ?」

「そう。俺たちは本人の意思と関係ない事象は引き起こせない。俺ができるのは誘うことだけだ。どれだけ綿密に計画を練って誘ったところで本人が望まなければその思考を操ることまではできないんだ」

「ふーん……バドルの予定では私はどんな風になる予定だったの?」

「計画はいくつかあった。まず一つは出会った場所で絶望を味合わせるパターンだ。だが、お前は浮気相手に会うという俺の誘いに乗らなかった。次にタケヒコとの喧嘩だな。あれはなかなかよかった。だが、俺としてはもっと取り返しのつかないところまでやりあって欲しかった」

「へぇ? 例えば?」

「二度とこの家に戻るつもりはない、とか言ってくれれば最高だったな。夫婦をやめることを匂わせるだけでもよかったし、折角俺が出てやったんだから俺を浮気相手に仕立ててもよかった。だが、お前はあいつが立ち直ることを望んでいた。また戻ってくるつもりだった。だからその計画も諦めた」

 私は少し驚いていた。私としてはあのときかなり酷いことを言ったし、夫婦の仲を裂く可能性もあるほど大事だった。そこまで言う必要はなかったと今も後悔している。でもバドルにとってはそうではないらしい。彼がこれまで見てきた夫婦とはどんな姿なのだろうと恐怖と共に疑問に感じた。

「トモコがタケヒコの母親に会うと言ったから、母親を焚き付けて夫婦関係の破綻を実感させようとも思ったが……」

「どうしてそうしなかったの?」

「マリはダメだ。あいつはまだファニの……アルセレノス様の加護を受けてる。俺が手を出すのはルール違反だ」

 バドルが苦虫を噛み潰したような顔をした。

「ファニとかって誰? 知り合い?」

「アルセレノス様は月の女神だ。幸福を食べて生きる美しい方で、男神だけでなく天使もその美しさに魅了されてる。ファニはアルセレノス様に仕える天使の一人で、こっちによくいるから会うことも多い。俺が仕事をした後を引き継いでくれるんだが、ルールに厳しい。俺がマリを唆せば、あいつはお前を奪いに来るだろう。アルセレノス様は神殿からいつもこちらの世界を見ていて、特に人間を気にかけている。あいつに知られないのは無理な話だ」

 天使の世界も苦労が絶えないようだ。しかし、どうせ天使が来るのなら幸福を集めるファニという天使に来て欲しかった。私は小さく溜息を吐く。

「で? マリさんを焚き付ける計画は失敗した。次のプランは?」

「お前がどうすれば夫婦関係について思い悩んで泥沼になるかを考えている。が、その表情から察するにそれは難しいだろうと思っている」

「ちょっと待ちなさい。私が何も考えてないような言い方はやめてよね。一応、今だってタケヒコをどうやって反省させるか考えてるの。それに、相手の子にも何か制裁を加えないといけない。このままにしておけないのはわかってるんだから」

「俺は匙を投げた。どうせお前が望むことを手助けするしかないんだ。惑わせて操る力があればいいが、都合のいい魔法は使えないんだしな」

 怒って唇を尖らせ、睨む私にバドルが肩を竦めた。不意に木々を渡る風の音が笑い声に聞こえてきて、私は驚いてバドルにしがみついた。

 気のせいではない。木の葉の隙間を縫うように笑い声が聞こえてくるのだ。

「何? やまびこ?」

「んな訳ねぇだろ。この山を治めるツツリヒメ様だ。お邪魔してます」

 ヒメということは女性なのだろうが、聞こえる声は女性なのか男性なのかわからない。怯えてバドルから離れない私を嘲笑うように笑い声は響き続ける。

 バドルは地面に跪いて頭を下げた。騎士が主に対してする礼のような重々しさを感じる。私もバドルにしがみついたまま頭を下げた。

「こ、こんにちは……」

 どこにいるかわからない相手に頭を下げるのは難しいが、バドルが向いている方向にすれば間違いはないだろう。

 私が顔を上げようとすると目の前に誰か立っている。が、頭が重くて上がらず顔までは見えない。

「ふん、私の或る土地に女を連れてくるとはいい度胸だな。ベイヘルに従う者よ」

「寛大なるツツリヒメ様であれば、この程度の戯れはお許しいただけるかと」

「世辞が上手いな。だが、そちらの者はどうだ。私の前で頭も上げられぬほど小物ではないか」

 頭にとても重い何かを乗せられたかのように、下げた頭を戻すことができない。そのまま地面に額をつけて平伏してしまいたいが、元々が礼をする姿勢ではない。このまま頭を地面に下ろすのは無理がある。

 バドルが私の耳元に囁いた。

「ツツリヒメに礼を言え」

 無理、という二文字すら口から出ない。それほど苦しい姿勢だった。呼吸もままならない。首を振ろうとするが、それも叶わず固まっているとバドルは続けて言った。

「いいから言え。早くしないと命に関わる」

 深刻そうな声に本気を覚った私は焦っていた。だが、言葉が出ない。心の中で何と言えばいいのか考えていた。

 ありがとうございます。何に? この山の神様なんだから山を守って下さって……とはいえ、私はこの山に今日初めて来たのだ。そんなことに感謝する必要がない。

 バドルが言っていたことを思い出した。神様は人間の信仰心を召し上がるのだ。

 だとすれば、神を信じたことのなかった私の前に姿を現してくれてありがとうございます。これだ。眼球を精いっぱい回しても爪先しか見えてないけど。

 私がそんなことを考えているとツツリヒメは喉を鳴らして笑った。

「面白い娘だ。どれ、顔を見せてみよ」

 そう言葉をかけられた瞬間、体が軽くなった。息ができる。ゆっくり頭を上げると、淡い緑色の着物を羽織った女性の姿が目に入った。長い黒髪を大きなかんざしでまとめ、ふくよかな体からは野性味が感じられる。

 長い指の爪で上を向かされた私の顔をツツリヒメが覗き込んだ。

「なるほど、ベイヘルの好みそうな女だ。名は?」

「トモコ……です」

「お前、神に嫁ぐ気はあるのか?」

「はっ?」

 言われたことが理解できずに私は間抜けな顔で口を開けたまま驚きの声を漏らした。

「嫁ぐって結婚のことですよね? 私には既に夫がいますけど……」

「こちらの決まりは我らに関わりがない。お前が嫁ぐ気になればそれでいい」

「困ります……」

「そうか? お前はベイヘルという力のある神の妻の一人になれるかもしれぬのだぞ? それは人という生き物にとって身に余る光栄だ。それでも断るか?」

「今いる夫で十分です。他の方の妻になる気はありません」

 そう答えるのが正しいのかどうか迷った。機嫌を損ねるようなことはするべきじゃないと本能が感じていた。でも、嘘はつけなかった。ツツリヒメは心を読むようだし、言葉を偽っても仕方ない。

 心配する私を余所にツツリヒメは身を反らして大声で笑った。木々が笑い声に共鳴するように木の葉を鳴らした。

「ベイヘルが会わずして求婚を断られた。まったくいい気味だ。のう、ベイヘルに従う者よ。今の返事を聞いたベイヘルをお前の道具で写し取ればしばらくは食うに困らぬのではないか?」

「……はぁ、神様は写し取れないのが残念で」

 心の底から愉快な様子のツツリヒメにバドルは苦笑いして応えた。

「お前、先程から計画を語っておったが、この者にそれは無駄だ。お前が考えているほど浅はかではない。その夫やら、そやつに手を出した女に矛先を向ければいくらか食い扶持を稼げるだろうが、それも自然には望めぬ。この者は上手く立ち回り、八方丸くおさめるであろう。良き仕事を得たいのであればこの者に協力を頼むことだな。ここでやれ。私が証人になってやる」

 ツツリヒメはそう言って地面に胡坐をかいて座った。バドルは困ったように眉を寄せて頭を掻き、私を見て首を傾げた。

 期待に目を輝かせるツツリヒメに向かって私は言った。

「お言葉ですが、悪趣味じゃないですか? 人が困っている姿を見て楽しむなんて」

「ではお前、此奴の思うままに動く気があるのか? それとも此奴が仕事もままならず飢えて行くのを楽しむ趣味でも?」

「そういうのが悪趣味だって言ってるんです。私が協力したってこれから会う相手がそれを受け入れなければ結局意味がないのに、バドルが頭を下げる姿を見たいからそんなこと言ってるだけなんでしょう?」

「だとすれば何の問題がある? 天使とは神に従う者。神である私が暇を持て余しているなら、余興を見せるくらいのことはするべきなのだ。例え別の……あのベイヘルに仕える天使であったとしてもな」

 ベイヘルという名を口にしたツツリヒメは口に含んだ毒でも吐き出すかのように舌を突き出した。

 バドルが私の肩にそっと触れる。冷たい体温が私に頭を冷やせと伝えてくる。

 ああ、無理だよ。そんなことができるくらいなら家を飛び出してこんなところまで来てないよ。

「神様なんて偉そうなこと言ってるけど、ただ性格が悪いだけで大したことないじゃない。人のこと踏みつけるようなことばっかりして、信じられない。こんな人の命令聞いたり、頭下げたりしなきゃいけないなんてがっかりよ」

 怒りに任せて随分なことを言ってしまった。相手の力は身を以て理解している。機嫌が良さそうなときでさえ逆らうことは許されないというのに、神経を逆なでするようなことをしたらどうなるのか。想像もしたくない。

 震えて歯が鳴りそうになるのを噛みしめて堪える。腰に上手く力が入らない。膝が抜けて体が崩れ落ちそうだ。

 恐怖と闘う私をツツリヒメは鋭く睨みつけた。ツツリヒメはそこに座ったまま動いていないし、私もバドルの隣にいる。それなのに深い藍色の目がずっと近いところで私を見ているように感じた。

「飽きた」

「え?」

「お前、つまらんな。さっさとどこかへ連れていけ」

 ツツリヒメはそう言って手を払うように振った。バドルは僅かに頷いて私の手を引き、立ち上がった。

 早足で歩くバドルの後姿から先刻までいた場所を振り返ると、ツツリヒメは姫君らしい静かな立ち姿で私たちを見送っていた。先程までの野蛮な雰囲気が消え失せている。

「おい。よそ見するな。転ぶぞ」

 バドルが一層強く私の手を引くと、体が一番大きな木の陰に飛び込んで目が眩んだ。再び陰から出て周囲を確認できるようになったときにはまた元の駐車場へと戻ってきていた。

「どうなってんの? これ」

「魔法だ」

「私、あの人のこと怒らせた?」

「いいや。ツツリヒメ様は名のある神だ。怒らせたらまず無事ではいられない。今こうやっていられるということは単純に興味を失くしたか、放っておいた方が面白いと思ったんだろう」

 一気に体から力が抜けた。その場で地面に座り込む。

「バドルって普段、あんな人たちを相手にしてるの?」

「ベイヘル様はあそこまで酷くない。ツツリヒメ様はベイヘル様を特別嫌ってる。俺がベイヘル様に仕える天使だからあんな態度なんだ」

「何でそんなに嫌われてるの?」

 私は何気ない気持ちで聞いたのだが、それはとても答えにくい話だったようだ。バドルは苦々しい表情で空を仰ぎ、首を傾げた。やがて真面目な顔をして首を振った。

「痴情のもつれ、とでも言っておく。あとツツリヒメ様は若い女もあまり好きじゃない」

「何で私をそこまで相性の悪い相手のところへ連れて行ったの? 危うく死ぬかと思ったじゃない」

「神に殺されることはまずない。気に入られれば数年くらい姿を消すことになったかもしれないが、トモコくらいの年頃の女なら気に入られることもない。木を切るとか川流れを変えるとか、土地の気に障るようなことをしなければ神地は安全なんだ」

「どこが安全なのよ。押し潰されかけたじゃない」

「だが、お前があの恐怖を味わった後であんな大口を叩いたのはツツリヒメ様がお力をお貸し下さったからだ。それにあの山はツツリヒメ様の住まう土地で普通は足を踏み入れることも許されない。それでも一度入山を許されれば土地の気を受けて力が満ちる。あれだけ登った割に体は楽なはずだが」

 そう言われてみれば、確かに運動後とは思えないほど体が軽い。気分もすっきりしていて、今なら谷底へのバンジージャンプも迷わず飛び込めそうだ。

「どうだ? 勝負をしに行きたくなったんじゃないか?」

 バドルが生意気な笑みを浮かべた。私は挑むように微笑み返した。

「別にバドルに誘われたから行くって訳じゃないけど、顔くらい見に行ってもいいかもね」

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