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第5話

 車を走らせて、普段はあまり通らない山道を目指した。

 橋やバイパス道路ができる前までは主要な道路として利用されてきたこの道も、今ではすっかり利用者が少なくなって、若者たちが肝試しをするために集まるか、バイク乗りたちの暴走ルートとなっている。

 どちらも深夜に活動するグループなので、日中は静かなものである。

 うねった道路の上を、普通では迷惑になるくらい遅い速度で走っていると、バドルが窓を開けて車の外に身を乗り出した。

「犬みたい」

「はぁ?」

「何でもない」

 私が喉を鳴らして小さく笑っているとバドルは言った。

「それで? どこに行くつもりなんだ」

「どこがいいかな」

「まだ決めてないのか。それなら浮気相手に会ってみたらどうだ?」

 今朝からバドルがしきりに夫の浮気相手に会うことを勧めてくる。その度に不安と怒りの入り混じった黒いものが蛇のように鎌首をもたげて私の心を飲み込もうとする。

 深くに眠らせようとしている感情を強い力が抉り出し、胸を引きちぎって叫び出したい衝動に駆られる。

 ここで感情に流されて欲望に従うのは簡単だ。何も考えずに導く手を取ってしまえばいい。でも、その先の未来には何が起こるの? 私に得られるものは何? 自問自答しても正解は見えない。

 跳ねるように脈打つ心臓を深呼吸で抑えこんで自分の気持ちを確認する。間違いを犯した人間に間違いで対抗してはいけないと自制する。

「急いで決めなきゃいけないものでもないでしょう。それとも急がなきゃいけない理由があるの? 用事?」

 私が誘いを叩きつけるように問うとバドルは聞こえよがしに舌打ちをして呆れた顔で首を振った。

「折角俺がどこでも連れて行くって言ってやってるのに」

「せっかちな男はモテないよ」

 バドルの呟きに答えてから、その言葉に既視感を覚えた。同じ言葉を以前、誰かに言ったことがあるのだ。

 結婚してからは男性とそんな軽口を言い合った覚えがない。独身時代のことだろう。

 記憶を巡らせているうちに、夫のタケヒコがまだ恋人だった頃のことだと思い出した。

 人の多いところが苦手な私は、ある夏、祭りに行こうというタケヒコの誘いを断った。それは大きな打ち上げ花火があることで有名な祭りだった。地元の人間はもちろん、遠くからわざわざ見物しに来る人も多く、そのため夜店も様々な種類があって賑やかだ。花火や夜店に興味があっても、具合が悪くなって早く帰ることになってしまうと申し訳ないので、別の人を誘ってくれるように言った。

 最初から無理だと思いながら誘っていたのか、彼はあっさり引き下がったが、しばらくするとまた誘ってきた。

 今度は祭りではなかった。

「食事でも行かないか?」

 タケヒコは祭り好きだ。打ち上げ花火もあるような大きな祭りがある日にじっとしていられないであろうことは理解していた。

 その上、ここ数か月はまともに休みが合わず、約束してもキャンセルになったり、やっとのことで二時間ほど空けて食事だけして別れるといった日が続いていた。

 まだしばらくこの忙しさが続くことは容易に想像できる。そう考えるとこの誘いを断る気にはなれなかった。

 祭りに行くことを諦めて、人が多い場所を避けるというのなら断る理由もない。

「わかった。いいよ。どこに行く?」

「僕が決めておくよ。楽しみにしていて」

 仕事の合間を縫って約束を取り付けたタケヒコはそう言って慌ただしく電話を切った。

 当日、仕事を終えた私はメールで指定されている待ち合わせ場所へ向かった。歩く道は祭りに向かう人々で混雑していた。遅刻はしないだろうが、一応今向かっている最中であることと、道が混んでいてなかなか前に進めないことをメールで報告しておいた。

 待ち合わせ場所に着いた頃、返事が届いた。

『今、仕事が終わった。これから向かう』

 慌てているのだろう。顔文字も絵文字もなく、素っ気ないメールだ。画面の隅に表示された時計を見て、これはもう予定には間に合わないだろうと思った。

 溜息をつき、近くのカフェに足を向ける。店内に入ると外のベタつく暑さが遠のき、人工の風が肌を冷やす。

 食事の前なのであまり重くならないようアイスティーを注文し、蜂蜜を少しだけ入れる。ほんのり甘みを感じるアイスティーで喉を潤しながら、外を行き交う人々を眺めて時間を潰した。

 結露で濡れたグラスがそろそろ空になるかという頃、息を切らしたタケヒコが店に飛び込んできた。少し見回して私の姿に気付くと、足音を立てて寄ってきた。

「お疲れ様」

「ああ……うん。店の予約があるんだ。早く行こう」

 落ち着かない様子で私を急かすタケヒコに戸惑いながら店を出る。余程焦っているのか、遅刻を謝るのも忘れた様子で人混みをかき分け、私を置いて行きそうなくらい早く歩くその背中に向かって拗ねたように言った。

「せっかちな男はモテないよ」

 独り言のつもりだったが、思いの外よく響いてしまったようだ。タケヒコは勢いよく振り返った。

「ごめん」

 そう呟いたタケヒコが手を差し出し、私はそれを握った。

 その後は二人で手を繋いで歩いた。それでもなるべく大急ぎで向かった先は展望台のようにガラス張りになったレストランだった。

 高台にあるその建物は階段を上ったところに店の入口があり、先程までの喧騒とは別世界のように静かで、案内された席からは明るい街の光が一望できる。

 高級感溢れる店内に緊張して黙り込んでいたが、ワインを飲みながら食事を始めると、自然と口数が増えてきた。店の雰囲気に合った料理は肩に力の入らない程度に上品で、味もシンプルに仕上げてあり、食べると安心した。

 やがてメインディッシュが終わり、少し飲み過ぎた火照りを水で醒ましていると、テーブルの真上から照らしていた照明が突然消えた。

 元々夜景を楽しめる程度の明かりしかついていなかったため、恐怖を感じるほど驚きはしなかったが、取り残されたように光る出入り口の明かりと床下に設置されて滲むように光る照明だけになったことに首を傾げた。

 何が起きるのかと店内を見回していると、一瞬だけ強い光が飛び込んできて、消えた。それに続いて低く響く爆発音が聞こえてきた。驚いて光の方へ視線をやると、大きな花火が夜空を裂くように打ち上がり、閃光と共に花開いたところだった。

 遠くから見る花火は会場で見上げるより迫力は劣るが、障害物が少ない分、美しいと思うには十分なものだった。

「花火は見てみたいって言ってたから、店に詳しい人から教えてもらってここを予約したんだ」

「ありがとう……嬉しい」

 私は窓の外に広がる光の花から目を逸らさずに言った。タケヒコは満足したように笑って再び花火を眺めた。

 やがて最後の見せ場である連続打ち上げ花火が終わると、店内の照明が元に戻った。それでもまだ夢見心地のままでいると、食後のデザートが運ばれてきた。

 サービスでほんの少し豪華に盛り付けられたシャーベットは口の中に入れるとすぐに溶けて、爽やかな後味を残して消えて行った。

 それから毎年、その時期になると同じ店を予約して食事に行く。夏祭りの日だけではなく、プロポーズもその店だったし、結婚記念日もそこで過ごした。

 夫はそういうことも忘れてしまったのだろうか。私は溜息をついた。

 彼がしたことは最低だと思うし、今も怒りが腹の底で音を立てて煮えているのがわかる。

 それなのに思い出すのは優しかった頃の記憶や、楽しかったときのことばかりだ。自分でも呆れてしまう。

 私の思考が途切れるタイミングでバドルが声をかけた。

「浮気相手のところには行かないのか?」

「は? 何のために?」

「お前の夫に手を出した女だぞ。言ってやりたいことくらいあるだろう。文句を言うなり、一発殴ってやるなりすればいい。相手はそれに対して何も言える立場にないんだ。思いの丈をぶつけてやれよ」

 緩やかなカーブを曲がりながら私は夫が会っていた謎の女性のことを考えた。制服姿で三つ編みおさげ髪の子供と夫がこの車に乗っている様子を想像してみたが、相手の女性に怒りが湧いてこないのは学生時代の自分自身をベースに想像しているからだろうか。

 感情が黒い渦を巻いて私を誘っている。だが、私はそれを他人事のように傍観していた。

 まだ実感がないのだ。夫が私を騙してまで会って、裏切りに値する行為をしようとしていた相手がいるということを理屈ではわかっていても、事実として理解できずにいるから目の前で裏切りを告白した夫に対する怒りはあっても、相手にまで届かずにいる。

 それに相手はまだ子供だ。不倫が悪いことだと知ってはいても、それがどういう危険をはらんでいるのかまで理解できているはずがない。

 そこまで考えている自分に呆れた。どこまでお人好しなのか。悪は悪、それを犯した人は悪人なのだと認めなければ今回のことは何も解決しないというのに。

 私はバドルに言った。

「そんなことより思い切り体を動かしたいな……余計なことを考えられなくなるくらい疲れるようなところに行きたい。どこか思いつく?」

「運動場にでも行けばいいだろう。ジムとか」

「そういう単純なものじゃなくて、やっていることだけで頭がいっぱいになるような運動がしたいの」

 私の提案にバドルはうんざりした表情をした。それでも捻くれたことを言わないところを見ると真面目に考えてくれているのだろう。窓の外を眺めながら頬杖をついて黙っていたが、やがて口を開いた。

「わかった。山と海、どっちがいい?」

「水着持ってきてないし、山かな」

「わかった。どこか人目につかないところで車止めろ。長く停車してもいいところだぞ」

「え? 車で行かないの?」

「車で行くなんて時間の無駄だ。魔法が見たいんだろ。見せてやる」

 そう言われてしまっては従う他にない。山の中腹にある休憩所の駐車場に車を止めた。ここは山の散策路を利用する人が利用するため、一日中車を置いていても怒られない場所である。バスなどなく、タクシーも呼ばないと来ないため、ここから山以外の場所へ行くにはかなりの労力を必要とする。だから無料駐車場としておいても利用者はほとんどいない。時折、犬の散歩や仕事の途中に仮眠する人が訪れるくらいだ。

 車のエンジンを切って降りるとバドルが大きく伸びをしながら言った。

「さて、体力に自信はあるか?」

「それなりに……」

 そう言って頷くとバドルは美しい顔に蠱惑的な笑みを浮かべて私の手を取った。冷たいけれど強い手に逆らえず、私はその手を握り返した。

「少し目を閉じておけ」

「え、魔法を見せてくれるんじゃないの?」

「目じゃないところで感じろ」

 あっさりそう言われ、私は渋々目を閉じた。手を引かれるままにまっすぐ歩いて行く。駐車場の出口は右に曲がったところにあるはずだ。このまま進んでも道沿いに長く作られた駐車場の中を移動するだけのように思えたが、一筋の風を感じた瞬間、足下の感触が変わった。コンクリートの固い地面から柔らかい土の感触になったのだ。

 柔らかい落ち葉がクッションのように私の足を受け止める。涼しい風がさらさらと木の葉を揺らす音がする。

「もういいぞ」

 そう言われて目を開くと、私は深い森の中にいた。人の手によって整備されたことのない木々が乱雑に生えていて圧倒される力強さを放っていた。

 ここの山はこんなに逞しい場所だっただろうか。そう思って後ろを振り返ると、先程までいたはずの駐車場がない。

「ここ、どこ?」

 私は驚いて間抜けな声を出した。バドルは笑って肩を竦めた。

「さぁな? お前の知らないどこかだよ。さて、体を動かしに行くぞ」

 車の中に荷物が、とか、舗装されてない山道を歩くには服装や靴が場違いだ、とか、言いたいことはあったが、バドルは土の上に張り出した太い木の根につま先を引っかけてどんどん登っていく。文句は後から言おうと決めて私もその後を追った。

 子供の頃から遠足や部活の合宿で登山をしたことはあったが、あれは舗装されていなくても人の手によって道を作られ、踏み固められたものだ。それとは比較にならないくらい険しい道はまるで崖のようで、これまでの登山はただの『山歩き』だったと実感し、これこそが『山を登る』ことなのだと体と心に刻み込まれた気分だった。

「ちょ……ちょっと待って……ストップ……」

 息を切らしながら声をかけるとかなり離れたところにいたバドルは軽々と私のところへ降りてきた。

「どうした?」

「休憩したい……」

「早いだろ。まだ頂上まで半分もいってないぞ」

「……死ぬ……」

 服が汚れることも気にせず、私が地面に寝転ぶとバドルはポケットからペットボトルを差し出した。水だった。ありがたく受け取って口をつけると、一気に半分以上を飲み干してしまった。

「あ……ごめん。飲んじゃった」

「飲め。やるよ。俺は水なんか飲まなくても死なない。それを飲み干しても少し登れば川がある。その水を汲んで飲めばいいから心配ない」

 私は頷いてもう少し水を飲んだ。たっぷり深呼吸をしながら今登ってきた道を見ると眩暈がした。それでも木々の隙間からカーテンのように漏れる太陽の光は美しく、土の匂いは街では味わえない優しさを持っている。

 ふと視線を感じて横を見るとバドルがつまらなそうな顔をしていた。

「何?」

「いや。お前は変な奴だと思っていた」

「失礼ね。どういう意味?」

 神妙な顔をするバドルに私は笑いながら応える。バドルは首を振った。

「相手の女を探すのは俺がいれば簡単だ。会って殴るとはいかなくても、何か話したいとは思わないのか?」

「わからない。タケヒコに関しては色々考えるけど、相手の子には何も思わないの。ただ少し……」

 私が言葉を途切れさせるとバドルは身を乗り出してその続きを促した。

「少し、何だよ?」

「可哀想だなって思うだけ。彼女はまだ世の中を知らない。それは正しく導いてくれる大人が近くにいないからよ。善悪の区別がつかないのは悪いことを大人になるための一歩だと思っているから。背伸びしたところで結局、自分の大きさは変わらないのに」

 見ず知らずの人間に対して、何という思い上がりだろう。生意気もいいところだ。

 だが、自分の昔を思い返してみればわかる。厳しいことを言われ、理不尽を押し付けられながらも育ってきた。そのおかげで自分にできることを知ることができたし、人としてできないことを学べた。今の自分がきちんと地に足をつけていられるのは、与えられてきた要求と抑圧、周囲の人々が差し出す救いの手のおかげだ。

「さて、行こう。頂上までまだあるんでしょう?」

 私は立ち上がった。余計なことを考えないためにここへ来たのに、また思考の渦にはまるところだった。

 バドルは小さく舌打ちをしたが、大人しく先導した。

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