第4話
更にしばらく車を走らせているとバドルが窓の外を眺めながら言った。
「ところで、どこに向かってる?」
「夫の実家。多分、私がいなくなって母親に助けを求めるだろうから先に行って報告しておこうと思って」
「味方を増やして逃げ道を塞ぐってわけか」
私は首を振った。姑はいい人だ。わざわざ根回しなどしなくても、夫から私が出て行ったことを聞いたら、理由も聞かずに夫を叱るだろう。
それも有難いが、今の夫に必要なのは正論を突き付けられ、何が正しいかを教えられることではない。
家族だ。
残念なことに今の私ではその役目を果たせないようだ。昨夜と今朝でそれがよくわかった。
すっきりした頭で考えていたのは、今の彼が私を必要としていないのではないということだ。結婚によって家庭を作ったこと、自分が守るべき家族になった人間がいることを忘れてしまっている。
恐らくその原因は、身近にいなかったタイプの女性と出会い、家庭のことを気にせず遊べる時間を持ってしまったことにあるだろう。解放感と日常にはない刺激が快感になって、私を騙していることへの後ろめたさを上回ってしまったに違いない。
それに私はあまり泣き言をいうタイプではない。身近にいないタイプからわかりやすく頼りにされたというのも嬉しかったのだと思う。同時に、頼ってこない私が自分を必要としていないとも感じていた可能性もある。
だが、夫を頼りにしていなかった訳ではないし、必要だったからこそ気遣いもしていた。理由がわかるからと言って許せる訳でもない。自分に原因があったなんて思ってもいない。
夫は私がそういう人間であることを納得した上で結婚したはずなのだ。今更、そんな性格が物足りなくなったからと言って妻を裏切っていい理由にはならない。
そんなことを考えている間に車はトンネルを抜けて、畑や山ばかりの景色の中を走っていた。
夫の実家は車で二時間ほど走ったところにある。到着より少し前に電話で連絡を入れておいた。
姑はいつもと同じ穏やかな声で私の名を呼んだ。
「あら、トモコちゃん? 久しぶりねぇ。どうしたの?」
「すみません、突然ですが今から伺ってもいいでしょうか?」
「もちろんよ。どうかしたの?」
「ええ、少し聞いてもらいたい話が……お忙しいようでしたらまた時間があるときでも構いません」
「何言ってるの! 一人暮らしの年寄りにとって息子のお嫁さんが来る以上に大切な用事なんかないのよ。すぐいらっしゃい。食べたいものはある?」
「いえ! ありがとうございます。今向かっているところですから、すぐ着きますので」
現在地を伝え、朗らかに「待ってるね」と言った姑の声を聞いて電話を切った。
まだスーパーも開いてない時間だ。このくらいなら簡単な食事くらいしか作れないだろう。
以前、一週間前に連絡して夫の実家に行ったときは、手の込んだ煮物にとても食べ切れない量のおかず、食後にはデザート、果てには手土産まで用意してくれたことがある。
何度かやめるように言ったのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
「美味しいと思ったら持って帰れるようにしてあるから、遠慮なく言ってね」
聖母のような表情でそう言われてしまっては、こちらも好きなおかずをリクエストするしかない。
あの姑には弱いのだ。強く言えない。
ちなみに店が開いてないことは別として、手土産らしいものの用意はない。
反省前に近所でちょっとしたお菓子の詰め合わせを購入して持って行ったことがある。
「あら、トモコちゃんはセンスがいいわねぇ。近所ではこんなお洒落なもの売ってないし、若い頃にだって食べたことないものばかりよ。嬉しい。ありがとうね」
立て板に水の如く褒め言葉を並べる姑に頬を赤くしていた私は、その後の衝撃に青ざめた。
家に帰って数日が経った頃、何やら荷物が届いた。姑からの荷物で、中にはカニなどの魚介類が入っていたこともあったし、とても近所のスーパーでは見かけないような分厚いステーキが入っていたこともあった。
私の持って行った手土産の三倍はするであろうプレゼントを見て、完全に腰を抜かした。
「何かお返ししなきゃ……」
震えながら電話を手に取る私に夫は冷静に言った。
「電話で礼を言うだけでいい。何か送ると倍になって返ってくるぞ」
その通りである。私は電話を耳に当てたまま何度も何度も頭を下げて礼を言った。
「また遊びに来てね」
そう言われて私は迷わず頷き、それと同時に到着する三十分前くらいの距離で連絡を入れてから夫の実家を訪ねることに決めた。
一時期は本気で付き合いに悩んだこともあったが、歓迎や感謝が行き過ぎているという以外で迷惑をかけられたことはなく、相談すると妬まれるほどよくできた姑である。
夫の実家に到着し、家の裏にある駐車場に車を止める。
「バドルはどうする? 待ってる?」
「いや、一緒に行く」
行くのか。何と紹介すれば良いのだろう。夫と喧嘩して家出した先で偶然出会った天使です。そう言ったところで紹介になるかどうか不安だった。自分の実家でもないのに、友達を連れてきたと説明するのもおかしい気がする。
「天使って姿消したりできないの?」
「馬鹿か。無理に決まってるだろ」
即答だった。しかも馬鹿にされてしまった。その瞬間、バドルの舌打ちと私のため息が同時に出た。
面倒だとは思っているが、行けばどうにかなるのではないかと楽観視している自分もいる。どうせバドルのことだから、私が上手く誤魔化して紹介したところで台無しにしてしまうのではという不安もある。
「余計なことはしないでよ」
「わかってるって。大人しくしてるさ」
疑いの眼差しを向ける私に白々しい微笑みで応じたバドルはさっさと車から降りて行った。私も後を追う。
家の玄関に回り込むと、車の音を聞いて迎えに出てきたのであろう姑の姿があった。
「トモコちゃん、お疲れ様」
「いえ、出迎えありがとうございます、マリさん。すみません、手土産もなくて」
「そんなこと気にしないで。息子のお嫁さんが顔を見せてくれたってだけで十分いいお土産だわ」
ニコニコ微笑むマリさんの目が不意に私の後ろに移った。私がその視線を追いかけるとバドルがマリさんを不躾な視線で眺め、家を眺めていた。
「あー……えっと、こちらは……」
私が何と説明しようか迷っていると、マリさんは微笑みを満面の笑みに変えて言った。
「よく来てくれたわね! 上がって。すぐにお茶を用意するわ。食事もあるの。お腹すいてるでしょう」
慌てて頷き、返事をしようとする私の言葉を遮るようにマリさんが言った。
「だと思って準備しておいたのよ。どうぞ」
機嫌よく家の中へ入っていく後姿を目で追いながら言った。バドルが何か不思議な力で私たちの関係を誤魔化したのだと思った私は小声で囁いた。
「天使らしい魔法も使えるのね」
「そんなもん使えない。あいつ、俺の正体に気付きやがった。これだから年寄りは……」
バドルは文句を言いながら家の中へ入っていった。私も靴を脱いで上がる。
リビングに入るとテーブルの上には出来立ての料理が並んでいた。この短い時間でよく作れたと感心する量だ。流石はベテランのプロ主婦である。
私の好きなこんにゃくと根菜のきんぴらもある。
「そろそろご飯が炊ける頃よ。あ、お味噌汁もいる?」
「ええ、いただきます」
湯気の立つお椀を受け取ると味噌のホッとする香りを思い切り吸い込んだ。急に空腹を覚えて、腹の虫が鳴いた。
よく考えてみれば昨夜から何も食べていない。本来は夫が帰ってから食事をする予定にしていた。だが、あんな話を聞いて食欲が湧くはずもなく、しかも話し終わってすぐに家を出てきてしまった。結局あれから口に入れたのはコーヒーだけだ。
熱々の味噌汁を静かに啜ると、今まで眠っていた食道に血流が戻ったかのような熱さを感じた。
出来立ての温かい食事が喉を通ると、話をするきっかけを探して焦っていた気持ちが自然と落ち着いてきた。
隣に座ったバドルは初め、遠慮がちに箸を伸ばし、皿に盛られた料理を味見した後、気に入ったらしい料理の皿を自分の前に引き寄せて並べ、食べ始めた。
よく食べるバドルを見て上機嫌のマリさんがお茶のおかわりを注ぎに席を立ったとき、こっそり聞いてみた。
「天使は空気を食べて生きてるって言ってなかった?」
「神々がそうであるように人間の食事を趣味として口にする奴もいるんだ。味覚がない訳じゃないから美味いものは美味いし、好みもある。飯くらい食えるさ」
そう言ったバドルはご飯をおかわりし、この細い体のどこにあれだけの量が収まったのか首を傾げたくなるほど食べていた。
食後は縁側に向かい、胡坐をかいて座るとフィルターを吸い始めた。食後のデザートといったところだろうか。
その後姿を眺めながらマリさんが私の顔色を窺っている視線を感じていた。
私はついに口を開いた。
「まだ昨夜聞いたばかりの話で、私自身も気持ちの整理ができてないんですけど」
そう切り出してみると、それまで迷っていたのが嘘だったかのように次々と言葉が零れてくる。自分では止められなくなってしまった言葉をマリさんは黙って頷き、受け入れてくれた。
なるべく感情を込めないように客観的な事実だけを伝えようと思って言葉を選んでいるのに、心はそれに反して目から大粒の涙を溢れさせた。
昨夜聞いた話を全て話し終わるとマリさんは静かに立ち上がって私の横に座り直し、抱きしめるように寄り添って頭を撫でてくれた。
「よく頑張ったわね。辛い話を聞かせてくれてありがとう」
枯れかけていた涙が再びこみあげてきた。鼻の奥が痛くなるくらい泣いて、やっと自分自身が傷付いていると認めることができた。
マリさんは予想した通りの反応をした。夫に腹を立て、私に何度も頭を下げて謝り、電話をかけて叱ろうとしたのでそれを制止した。
「今はいいです。本人もまだ、自分がそこまでのことをしたとは気付いてないようですから。実感がないのでしょう」
「実感がないからって、そのままタケヒコを放っておいていいの?」
言葉の合間に夫の名を遠慮がちに呟き、理解しかねるといった表情をしたマリさんに私は苦笑した。
「タケちゃんのことは放っておいて、私は少し旅に出ます。バドルが……そこの彼が、どこでも連れて行ってくれると約束してくれましたから」
「そう? 家出なら私のところにいてもいいのよ?」
「いえ。彼が独身の頃のように遊んでいたのなら、私も同じことをしたいんです。独身時代みたいに、自分の好きなところへ行って、好きなものを体験して」
「そうね。それもいいよね。もし私にできることがあれば言ってね」
マリさんの小さな手が私の手を力強く握る。私は頷いた。
「タケちゃんに私のことを思い出させてください。余所で探さなくても必要としている家族がいるんだって思い知らせてもらいたいんです。私より、マリさんの方が家族でいる時間は長いですから、適任かと」
「ええ、ええ。勿論よ。妻がどれだけ夫のことを思っているか、家庭を持つということがどれだけ責任重大で大切なことか、あなたが家に帰る気になるまでにじっくりと教えてあげますからね」
鼻息も荒く、マリさんはそう言った。
バドルが退屈そうに欠伸をしながら歩み寄ってきた。
「話は済んだか? そろそろ行こうぜ」
勝手に玄関へ向かっていくバドルを自然と追いかけながら、私はマリさんに頭を下げた。
「すみません、勝手な奴で。それじゃ、タケちゃんのこと……」
「ええ。任せて頂戴。それと……私からも一つ、いいかな?」
マリさんは私の後ろにいるバドルに向かって首を傾げた。バドルは片眉を上げ、胡散臭いものを見るような目でマリさんを見た。
それを許可と受け取ったマリさんは照れたように微笑み、おずおずと聞いた。
「ファニは、元気にしてる?」
バドルの目がほんの僅かだが驚きに見開かれた。すぐに何か思案する表情になり、ふっと優しい顔で笑った。
「ああ、元気にしてる。相変わらずだ」
「そう……よかった。あなたも変わらないね。会えて嬉しかった。またね」
「お前が次に俺に会えるとしたら、死んだ後のことだろうよ」
皮肉のようにも聞こえる嫌味な言い方だったが、嫌悪感はなかった。マリさんも嬉しそうに笑っていた。今の言葉に含まれた本当の意味を感じ取ったのだろう。
それから私とバドルはマリさんが詰めてくれたおかずの容器を両手に抱え、家を後にした。
「知り合いだったの?」
「昔の話だ。会ったときより随分とババアになっていたから気付かなかった」
「マリさんも神様の食事になったことが?」
「ベイヘル様の食事になったのは一枚だけだ。他はほとんどアルセレノス様の好物だった」
一度では聞き取れない名前だったが、それもきっと神様の名前なのだろうと予想しながら私は頷いた。
朝日だったはずの太陽は真昼になろうと明るく青空に輝いていた。




