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第3話

 夜が明けて朝日が昇ると、カーテンのない車の中は眩しく、自然と目が覚めた。

 夫は仕事に行っただろうか。朝食にできる程度の食材くらいは買い置きしてある。いい大人なのだから、作れなくてもコンビニで買って食べることもできる。心配はない。

 朝日が完全に昇りきるまで降ったり止んだりを繰り返していた雨はすっかり止んで、青い空が雲の名残を残して輝いている。太陽の光で乾きかけのアスファルトはまだら模様になっていた。

 助手席の座席を倒した上に丸くなって眠るバドルは朝日が当たっても目覚める様子はない。

 その穏やかな寝顔は本当に天使のようだ。起きて口を開けば恐ろしいくらいに人を揺さぶり、心を見透かす鋭い目で弱ったところを射抜く悪魔のような奴なのに。

 バドルの言葉は心の奥底へ侵入してきて脳をかき回し、思考をハッキングされたかのように本音が暴露される。

 向き合いたくなくて目を背けていた本心までも目の前に並べられているうちに抵抗する気力が奪われた。こうなったら、この男の言うままになってみようか。だが、それも悔しい。

 旅に出るというバドルの提案は実に魅力的だ。次にどうするべきか、考えがまとまるまで現実を離れ、家を出るというのも悪くない。

 どちらにしても着替えなどの荷物を取りに戻らなければいけない。

 未だに眠り続けるバドルを起こさないように、そっと車を発進させた。今から帰れば、家に着く頃には夫の出勤時間は過ぎている。

 良くて既に家を出ているか、最悪でも入れ違いくらいで、長く顔を合わせる必要はないはずだ。

 そんな期待はいとも簡単に覆された。

 玄関の鍵が開いている。私は昨夜、車で出かけたのだから家を出る夫が閉め出してしまうことを心配して開けたまま出かけたということはないだろう。

 単に閉め忘れたのか。そんなはずはない。家に誰もいないのだから、玄関の扉を閉めたときに戸締りは確認するはずだ。玄関の扉を開け閉めしたとしたら、の話だが。

「おかえり、トモちゃん」

 夫の声がして私は身を強張らせた。その緊張が伝わらないように表情を変えずに言った。

「仕事は?」

「休んだよ。トモちゃんが帰ってきたら話し合おうと思って」

「話し合う? 何を話し合うつもり? あなたは私に嘘をついて騙した。しかも浮気までして裏切った。それで話は終わりでしょう。まさかよく話し合えば自分の裏切りが許されるとでも思ってるの?」

「待ってくれ。トモちゃんは勘違いしてる。体の関係はなかったんだから浮気じゃない。裏切ったなんて大袈裟だよ」

「それでも私に嘘をついた事実は変わらない。それだけでも十分な裏切りだと思わない?」

 目も合わせず、ひたすら平静を保って返事をしていた。いっそヒステリックに大声で詰った方がすっきりできたかもしれないが、こんな男に本心や醜態を見せるのが嫌だった。

「私があなたの体調を気遣い、負担にならないように手を尽くしている間、あなたは私を騙す方法ばかり考えていた。それを怒ってないとでも? 話し合って許せる程度のことだと考えてるの?」

 怒りを込めた目で夫を睨むと、夫は困惑したように視線を逸らして私が何か言い続けるのを待っていたが、やがて動きがないことを覚ると言い訳のようなことを呟いた。

 恐らく、私の怒りがこんなに長く持続するとは思っていなかったのだろう。普段の夫婦喧嘩であれば、私が家を出ることでお互いに一人で過ごし、冷静になる時間を作る。帰ってきた私と家でそれを迎えた彼はお互いの妥協点を探るというのがいつものパターンだ。その話し合いの殆どは外で冷静になって考えてきたことを私が提案し、夫が受け入れるというものが多く、それは二人の意見が対等であるからこそできる話し合いだった。

 今回は彼が一方的に悪く、私には何の落ち度もない。少なくとも私がそう思っている以上、妥協できるところが見つからない。話し合いなど無意味だ。

 小さな声でグズグズ言い続ける夫を無視して寝室に入った。大きめのカバンに数日分の下着や服を詰める。

 ケータイの充電器を取るためにベッドの方を向いて気付いた。整えておいたはずのシーツが乱れている。

 出て行った私を心配して眠れない夜を過ごした訳ではないらしい。ベッドに入っただけで眠ってはいなかったのかもしれないが、少なくとも一晩中電源を入れたままにしていたケータイには着信もなかった。

 そういえば私が帰ってきたときに、どこで夜を明かしたのか気にするような発言もなかった。

 心配なんかされていないんだ。それは私が必要とされていないことを示しているような気がして涙が出そうだった。

「どこかに行くつもりなのか?」

 私が荷造りをしている様子を見ていたのであろう夫が言った。私はカバンの口を閉めて玄関に向かって歩きながら答えた。

「ええ、今度は昨日より遠くへ行くつもり」

「どこへ行くつもりなんだ?」

「決めてないし、答える必要ある?」

 どうせ興味ないくせに、と心の中で悪態をつく。振り返って睨みつけると、一瞬だけ私を咎めるように怒ったような表情を作った夫はすぐに気弱な顔に戻り、背中を丸めて目を逸らした。

 呆れて、情けなくなって立ち尽くしているとシャッターを切る音がした。バドルがいつの間にか玄関に立ち、私と夫に向かってカメラを構えていた。

「遅い。何やってんだ?」

「そんなに待ってないでしょう」

「いいから、さっさと行くぞ」

 バドルが私の手から荷物を奪う。夫は驚いた顔をしていた。当然だろう。私にこんな若い男性の友人がいるなんて聞いたことない。

 それに、性格だけ無視すればバドルはかなりの美男子である。逞しい体つき、背が高くて、顔もすっきりとしたモデルのような美しさだ。

 私に馴れ馴れしく口を利いているのも、親しさからくるものに見えるだろう。

「誰だ、その男」

 夫がやっと絞り出したような声で言った。

「友達よ。一緒に旅行に行くの」

「俺がやったことに対してのあてつけのつもりか?」

「あなたと一緒にしないでよ。私はあなたと違って嘘をついて裏切ってまで出かけるようなことはしない」

 頭の中で自分の声がする。相手にするな。変なことを言うな。黙って出ていけばそれでいい。

 でも止まらなかった。まだ文句ありげな顔をしている夫に私は続けて言った。

「しかもさっき自分で言ってたじゃない。体の関係はないから浮気じゃない。裏切りなんて大袈裟だって。私もこの人と体の関係はないから浮気じゃない。そういうことでしょう?」

 警告を発していた自分が脱力したのを感じる。馬鹿なことを言ってしまったと後悔しながらも、昨夜から興奮状態だった自分自身が一気にクールダウンしていることに気付いた。泡を立てて沸いていた血が一瞬で冷めていく。

 俯いて震えている夫を残酷な気持ちで見つめながら私は小さく言った。

「仕事、今からでも行ったら?」

 夫の唇が僅かに動いて私の名を呼んだ。私はそれを鼻で笑った。

「女にだらしない上、仕事も真面目にできない男なんて夫として何の価値があると思う?」

 バドルの方へ首を傾けると、再びシャッターを切ったバドルは背筋が震えるほど妖しい笑みを浮かべて夫を見つめた。

「さあな? 俺にはわからないが、多分こういう奴を最低って呼ぶんじゃねぇの」

 夫にとってバドルの言葉は昨夜の私が味わった痛み以上に突き刺さるだろう。いい気味だ。

 きっと後悔する。だとしても、何もせずに抱え込んで我慢するよりはこれでいい。やらずに後悔するよりも、やってしまって後悔する方がいい。

 そう自分に言い聞かせ、不安を取り払いながら玄関を通り抜けて車に乗り込んだ。

 バドルが面白そうに笑いながらカメラの画面を覗き込んでいる。

「何なの? また写真?」

「ああ、見るか?」

「見ないよ。運転中だもん」

 そう言いつつ、バドルがこちらに傾けた画面を横目で見る。真っ白な目をした大きな魚が今にも泳ぎだしそうに映っている。

 やはり美しい。吸い込まれそうだ。

「せっかくいい仕事なんだぞ? もう見せてやらねぇ」

「見たいなんて言ってないでしょう。大体、その写真は何なの? 魚しか写ってないし」

「当然だろ。これは感情を写すカメラだ。お前ら夫婦は俺の仕える神、ベイヘル様の食事として選ばれた。感謝しろよ」

 意味が分からない。説明になってない。ここでそう言って詳しく聞くのは癪だが、私がこうやって迷っていることもバドルにはわかっているのだろう。隣でニヤニヤ笑っているのが伝わってくる。

「運転してる間、暇だからそのベイヘル様とかいう神様の話でも聞いてあげる」

 素直に聞くのも悔しくて、そんな返事しかできなかったがバドルは満足したようだ。

「トモコは神が普段、何を召し上がってるか知ってるか?」

「ううん。その前に神様が食事をするの?」

「そりゃあ、するさ。そうじゃなければ何のために供物を奉げる? ま、魚や野菜を口にする神は少ないけどな。趣味で嗜む程度だ」

 酒は別として、とバドルは誰にも聞かせたくないような声で呟いた。ベイヘルとかいう神は酒好きなのだろうか。

 赤ら顔の神様を想像してしまい、笑い声が漏れそうになった。

 バドルが喉を鳴らすように咳払いをした。

「供物を奉げるのは神に対する信仰心や感謝の表れだ。それが金であろうと、物だろうと舞や祝詞だろうと、人間が発する崇敬の念を神々はお召し上がりになる」

 バドルが言葉の端々に挟んでくる柄にもない言葉が気になって、私は間の抜けた相槌を打った。

「でも、最近では儀式が簡略化されたり、継ぐ者がいないとかの都合で守り人がいなくなったりして、神々の食事が不足してきた。神は何も食わなくても死にはしないが、力を失う。そこで俺たち天使の仕事だ。人の世界に降りて、食料を調達する。このカメラは神界のもので、調達班に配属された天使は相棒として一人一台、必ずこういうカメラを受け取ることになってる。こいつは俺の相棒でカノン。人の不幸を深海魚の形で写し取る」

 そこまで聞いて合点がいった。真っ暗な中に光るように浮かぶ魚の姿。真っ白い目。あれは昔、図鑑や教科書で見たその姿と一致する。

「人の不幸を食事にするなんて、ベイヘルっていうのは悪い神様なのね。そうなるとバドルは悪魔ってこと?」

 私が呆れたように口にするとバドルは少し怒ったようだった。

「良いか悪いかはお前らが勝手に決めつけた価値観であって、神々や俺たち天使には関係ない。神界では神に仕えるものは皆、天使だ。本物の悪魔に会ったこともないくせに、お前ら人間は自分の意にそぐわないものを悪と決めつける。お前らなんかベイヘル様に謁見できる部屋の敷居を見ることすら許されない程度の存在なんだ。それほど身分の高いお方に対してお前らごときが存在の善悪を決めていいはずがないだろう」

 早口に捲し立てられ、私は間抜けに口を開けていた。

「……神様ってそんな偉そうな感じ?」

「いいや。ベイヘル様はもちろん、ほとんどの神々は人間に対して親愛の情をお持ちだ。人間が神殿を訪れれば気軽にお声をおかけになる。人間程度が起こせる悪事など、神々にとってはほんの些細なことでしかないから、言葉や態度に失礼があったところでお怒りにならない。ただ、実際に人間と間近で接する役目の天使たちはそうではないから、待遇が冷たくなったりするけどな」

 私は思わず、学生のイジメを想像した。教師に見えないところでわからないように嫌がらせをする。それをこんな美しい天使にやられたとしたら、そのダメージは計り知れない。

 バドルは咳払いをしてカメラを持ち直し、説明を続けた。

「不幸の度合いが高いほど、深いところに住む魚の姿が写し出される。さっきのお前の旦那はかなり深かったな。完全に日の光が届かない深さに住むやつだ」

「詳しいの?」

「いつも見てるから、ある程度は。トモコのはまだ光が届く範囲に住む種類だった。女は強いな」

 そう言われて考えてみると確かにショックを感じていたが、絶望という感触ではなかったような気がする。

 恐らく、夫が私を騙し続けていたことによる怒りの方が大きかっただけだろう。怒りを吐き出した今、バドルといることで気が紛れている。一人だったら、どうなっていたのか。

「それで、不幸を集めてどうするの?」

「ああ、神査管理局に持っていって報酬に替えてもらって俺の仕事は終わり。後は管理局の奴らがベイヘル様のところへそれを持っていってくれることになってる」

「へぇー、お金がもらえるの」

「俺たちの世界でだけ使える金だ。それで生活に必要な物を買う」

「服とか、食べ物とか?」

「そういうことだ。こっちに出てくる天使が稼ぐ理由の殆どはこれのためだな。これが一番金を使うんだ」

そう言ってバドルは昨夜吸っていたタバコを取り出した。

「へぇー、天使ってヘビースモーカーなんだ」

「違ぇよ。これはフィルターっていうんだ。天使は清浄な空気を食うことで生きられる。だが、こっちの世界で清浄な空気なんて殆どない。飯のためにいちいち神界に帰ってたら仕事にならないから、携帯して手軽に摂取できるものが開発された。色々種類はあるが、これが一番安くて簡単だから人気がある」

私は信号待ちでフィルターとやらを見つめた。

「これが天使の食事なの? 美味しいわけ?」

「試すか?」

バドルが一本取り出して私の口に咥えさせた。火を付けると柔らかいオレンジの香りがする。

言われるままに息を吸うと肺にぎっしり空気が詰まった感触があった。

「何これ……」

「ま、そういうもんだ。悪くないだろ?」

私は頷く。怒りと睡眠不足で重かった頭がすっきりした。

「お前ら夫婦のおかげで俺はまたしばらくは食うに困らない生活を送れる。お前も生きてるうちにちゃんとしとけよ。死んでから苦労するぞ」

「どういうこと?」

「こっちの金はあの世までは持って行けないからな。その代わり、こっちの世界で積み重ねてきた行いが神界に行ってからの生活費になる」

「いいことをしておけば、裕福になれるってこと?」

「良くも悪くもやるべきことはやっておけってことだ。いいか。お前ら人間の善悪なんかこっちは知ったこっちゃない。トモコが守ってる法も常識も国や立場が変われば変化するものだからな。だが、自分を育む物の存在を蔑ろにして自ら生を捨てる奴と、土地に憑く物や自分の体に流れる物が何たるかを知り、存分に生を歩んだ奴を平等にできるほど神界は甘くないんだよ」

 要するに神や先祖に感謝して長生きしなさい、ということだと解釈した。葬式くらいしか宗教に関わったことのない私にとって、神様の話など理解できない。

 それよりもバドルが真面目な顔をしてそういう話をすることに驚いた。天使と自ら名乗るだけのことはある。誇りを持っているのが覗えた。

 僅かにだが、本当に天使なのだと認めていいように思えた。不幸のどん底に現れた天使。性格は最悪だけど、悪い奴ではないような気がした。

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