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第2話

 今朝、早くから休日出勤のために家を出て行ったと思っていた夫が、家に帰るなり玄関に膝をついて頭を下げた。

 呪いのように呟かれる謝罪の言葉。身に覚えのない謝罪に混乱しつつ、場所をリビングに移して話を聞いた。

 要領を得ない夫の話を根気強く聞いた。感情を交えず、話の本筋から逸れないように言葉を選んで質問した。

 ひたすら「ごめん」という言葉で説明から逃れようとする夫を何度も宥めて話を続けさせ、最後まで聞き終わった頃には、それまで必死になって押し殺していた叫び出したくなるような感情は消え、私の中には無が残った。

 夫が携帯電話を流行の機種に変えてからというもの、ネットゲームにハマっていたのは知っていた。

 ハマっていると言っても無料でできる範囲内に留まっていたし、休日は部屋に籠ってそればかりやるというようなことはなかった。食事中や、人と話している時にやるといったこともなかったのであまり気にしていなかった。

 マナーさえ守れているのならいい大人のやることに口を出す必要はない。そう思っていた私にも問題があったのかもしれない。

 夫がやっているゲームの中にはプレイヤー同士で会話ができるタイプのものもあるらしい。

 その中で一人のプレイヤーと仲良くなったそうだ。

 相手は男性キャラクターを使っていて、話し方も男のようだったため、夫は相手が男であると何の疑いも持たなかったらしい。だが、家のことや仕事のことなど個人的な話をするほど仲良くなった頃、実は女であると打ち明けられた。

 しかも想像よりも随分と若く、女子高生だったようだ。

 そこで一線を引けばよかったのだろうが、夫は相変わらずの付き合いを続けた。

 夫は変わらずとも、相手は自分の正体を明かしたことで、これまでより込み入った話をするようになった。

 学校のことや家庭でのこと、友人関係などを相談する彼女に対して夫は大人として真面目に答えていた。

 思春期の女の子が、普段であれば相手にされないような年齢の男性から親切にされて何も思わないはずがない。

 その程度のことは誰にでも想像できるはずなのに、夫は考えもしなかったようだ。それとも気付いていて目を逸らしていたのだろうか。

 ネットゲームの中だけだった関係は現実へと移り、メールで話をするようになった。

 相手は何度も夫に会ってみたいと言っていたそうだ。その度に断っていたと夫は説明していたが、実際は予定が合わなかっただけだろうと私は鼻で笑った。

 思わず指に力が入って、缶が鈍い音を立てて開封された。一口飲んで、小さな唸り声が出た。

 何度目かの誘いを受けて、夫は私に嘘をついて彼女に会ってみることにしたようだ。

 学生の休みは基本的に土日である。夫の休みも同じだが、専業主婦である私が家にいる。

 元々あまり活発に行動する方ではない夫は、私に誘われない限り外出はしない。休日は二人で私が録り溜めしていたドラマを見るか、本を読む私の横で夫がゲームをしているというのが日常の風景だ。珍しく出かけたとしても近所のスーパーで食材を買ってきて、その日の夕食を作ってくれるくらいのものだ。

 しかも嘘がすぐ顔に出るタイプである。

 それが用があるから出かけるとなるとかなりの演技力と言い訳が必要になってくる。

 デートともなればそれなりの服装と髪型をしたい。まして相手は若い女の子だ。近所のスーパーに行く時と同じ格好ではあんまりだろう。

 そこで夫は長い時間をかけて私を騙す準備を始めた。

 仕事の内容について詳しく聞かない私に、仕事が忙しいと言い、帰ってくる時間を少しずつ遅らせる。

 夫の話から察するに、遅く帰ってくるからと言って本当に仕事をしていた訳ではなかったようだ。凡そどこかの駐車場に車を止め、ゲームをして時間を潰していたのだろう。

 そんな中、私が心配していたのは専ら体調のことだった。

 暑い季節に汗をかいて帰ってくる夫が体を冷やさないよう、すぐ風呂に入れるよう準備したり、朝食や夕食のバランスを考え、食事をしに外へ出る暇もないといけないからと昼食に弁当を持たせるようにした。

 夫が無事に仕事を終わらせることだけ考えられるように家事をこなし、コーヒーを淹れたり、疲れた時に食べられる甘い物を買い置きしたりしていた。

 何の疑いも持たない私を見て、頃合いだと思った夫は、休日出勤をすると言って土日も家を出て行くようになった。

 その時、女子高生とデートをしていたらしい。

 それがわかった時、笑顔で見送った自分自身を恨めしく思った。

 初めの数回は食事とデートだけで大人しく帰ってきたようだが、今日はホテルまで行ったと言われた。

 車で駐車場に入った瞬間、口数少なく、緊張した面持ちになった彼女を見て夫は漸く、自分のしていることに気付いたという。

 今、自分は愛情をもって尽くし、寄り添ってきた妻を裏切り、世の中をまだ何も知らない子供を取り返しのつかない世界へ引きずり込もうとしている。

「やっぱりやめようか」

 そう言って再び車を走らせ、ホテルを後にして帰ってきたらしい。

 何もなかった。未遂だから許してくれとリビングの床に再び額を擦りつける夫を見下していたら、可笑しくてたまらなかった。

 だが、笑う気力もなかった。未遂だったとはいえ、夫は私を騙し、裏切ろうとしたのだ。

 未遂だったと言われても夫のことだ。自制したのではなく、相手が自分のしようとしていることへの緊張に震える様子を見ていて臆病風が吹いただけに違いない。

 嘘のつけない、素直で真面目な人だった。少なくとも結婚しようと思った時はそういう人だった。だが、あの頃、信じていた夫はもういないのだ。

 そう思ったらまた涙が溢れてきた。

 涙が頬を伝い、鼻水が垂れてきて私は車に乗り込んだ。ティッシュで顔を拭き、座席の背凭れを少し倒してコーヒーを飲んでいると、コツ、と車に何かが当たる音がした。

 フロントガラスを少しずつ滲ませていく水滴を見て、雨が降ってきていることに気付いた。

 洗濯物を取り込んでいなかったな、と思い出す。

 夫に裏切られ、投げやりな気分なのに思考はいつもと同じ。主婦のままである。

 結婚とはなんてバカバカしいんだろう。

 他人と生活を共にする。それだけのことだと思っていた。面倒や手間は愛情や信頼でカバーできると思い込んで彼のプロポーズを受けた。

 だが、あっけなくそんな感情は消えてしまった。

 二人で作り上げた家族という単位を信じていたかった。だが、それを守ろうとしていたのは私一人だった。

 短くため息をついた時、助手席のドアが勝手に開いた。驚いて視線をやると男が乗り込んできた。

「ちょっと、何……誰よ?」

「俺はバドル。急に降られて困ってんだ。雨宿りさせてくれよ。止んだらすぐ出て行くからさ、いいだろ?」

 そんな訳にはいかない。私が言い返そうとするのを遮るようにその男は言った。

「どうせまだ動くつもりはねぇんだろ?」

 やけに美しい顔が蠱惑的な笑みを浮かべて言った言葉は私の胸の深くに突き刺さり、開いた口から発せられるはずだった言葉を飲み込ませた。

 図星だった。

「雨が止むまでよ……何かしたら警察を呼ぶから」

「何かって何だよ?」

 男は吐き捨てるように笑った。

「お前が心配してるようなことはしねぇよ。ベイヘル様に誓ってな」

「誰よ、それ」

「俺が仕えてる神様の名前。天使をやってる俺にとっては、上司ってとこだな」

 馬鹿にしたような男の物言いに感じた苛立ちや不安。それを振り払うように声を出して笑った。

「はぁ? 天使? 何を言ってるの? 小さい子供がそういうことを言うのはまだかわいいけど、あなたいくつ? そろそろやめないと年取ってから死にたくなるくらい恥ずかしいよ」

「信じないならそれでいい。しかし、あんた不幸そうな顔してるな。いい表情だ」

 そう言ってバドルは手にしていたカメラのシャッターを切った。

「やめて、勝手に撮らないで。何なの?」

「ふん、なかなかいい。見るか?」

 デジカメの画面を私に向けてバドルは微笑む。見たくないと拒否する心は、誘うような笑みと興味に負け、僅かに抵抗した視線が画面をちらりと覗き込んだ。真っ黒な画面の中にぼんやりと光る白い魚の姿があった。

 美しい、という文字が頭の中に浮かんだ。でも、それを口に出すのは憚られ、そう思ったことに罪悪感すら覚えた。

 戸惑い、何と返事をしていいかわからないまま黙り込む私にバドルが言った。

「なかなか鋭い女だ。旦那の浮気に気付かなかった程鈍い女とは思えない」

「待って……何でそれを知ってるの?」

「言ったろ。天使だって」

 バドルは何食わぬ顔で言い、私の手からコーヒーを奪うと一口飲んだ。

 顔を顰めて不味そうに舌を突出し、口直しとばかりにポケットからくしゃくしゃのタバコを取り出した。

「この車は禁煙よ」

「お前らのもんと一緒にするな」

 そう言いつつ火をつけられたタバコは信じられないくらい優しい匂いがした。

 独特の嫌な煙ではない。それどころか深呼吸してたっぷりと味わいたくなる。

 文句を言う気も失せ、シートに体を預けると自分の体が緩んだ感覚があった。驚くほど肩に力が入っていたらしい。

「お前、名前は?」

「トモコ」

 答えてから、しまった、と思った。まぁ、いい。フルネームを名乗った訳ではないし、どこの誰だかなんてわからないだろう。わかったところで、今はどうでもいい気分だ。

 素っ気ない返事をして黙り込む私にバドルはふん、と鼻で相槌を打ち、シートベルトを締めた。

「行こうぜ」

「はぁ? どこに?」

「お前の旦那の浮気相手のところ。言ってやりたいことくらいあるだろ」

「あるけど……こんな時間に?」

「いいじゃねぇか。帰る気もねぇんだろ?」

 言葉に詰まった私を見てバドルは笑った。私は腹いせにエンジンをかけて、車を急発進させた。

 バドルは驚く様子もなく、むしろ楽しそうに笑って窓の外を眺めている。

 車を走らせながら、どうしてバドルを車から追い出さなかったのか疑問に思った。こんな嫌な雰囲気の奴にも関わらず、昔からの知り合いのように感じて、普通に接してしまってるのは何故なんだろう。

 浮かんでくる疑問に答えはなかった。

 走り出したのはいいものの、何処かへ行きたいとも思えず、とりあえず適当に車を走らせて高台へと向かった。

 アクセルをふかして坂道をぐんぐん登っていくと積み上げられた石の壁が見えてくる。ここには大昔、城があったという。

 同じくらいの大きさの石を高く積み上げて作られたそれは、不気味なほどに整っているのに、人の手で作られたものだとは思えない重さを感じさせた。

 真夜中にそこを訪れたのは初めてのことだった。

 夜景の名所でもないその場所は風の音だけを不気味に響かせていて、強く吹く冷たい空気が日常から切り離されたような静けさを保っていた。

 先程まで降っていた雨と夜の冷気が染み込んだ壁にもたれると、体温が奪われていく。

 その冷たさは木に触れたときや、草花の上に寝転んだときに感じる温度とどことなく似ていて、安心できた。

 不意にバドルを見ると、石畳の上に寝転がって目を閉じている。自宅であるかのように寛いだ姿に思わず笑いそうになった。

 石段を登って城壁の上に立った。ポツリ、ポツリと民家と街灯の光が見えるが、夜景というにはあまりに暗く、夜空を見上げた方がまだ明るい。

 その夜空には月が遠くから降るような光を注いでいて、私の足元に影を落とす。

 見上げたまま優しい光に心を奪われているとバドルが大きな舌打ちをした。

「なぁに?」

「いいや」

「なら黙っててよ。今、考え事してるんだから」

「下らねぇ。考えたからって解決する問題じゃねぇだろ」

「解決したいから考えてる訳じゃないのよ。私はどうするべきなのか。それだけ」

 口から発した言葉が心を軽くし、肩に重くのしかかった。

 私は夫と夫婦をやめるつもりがない。

 でも今回のことはこのまま許していい問題ではない。いつもの喧嘩と同じように高価なプレゼントや食事をしたからといって水に流すことはできない。何らかの形で償われるべきだ。

 その償いの方法は私には決められない。夫が自分で見つけてきた方法でなければ意味がない。

 だが、その方法がすぐに見つかるとは限らない。待たされることになるのは確実だ。

 では、夫が正しい方法を見つけるまでの間、私は何をして待てばいい?

 少し夫と距離をおきたい。このままではほとぼりが冷めるまで顔を合わせるたびに機嫌を取ろうと媚びたような態度で接してくるだろう。そんな顔を見ていたら心の底に残った僅かな情まで尽きてしまいそうだ。

 それが例え無視されたのだとしても、何事もなかったかのように振る舞われても同じだろう。

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」

 私はふと思いついた言葉を呟いた。何かのセリフだったはずだけれど、と首を傾げているとバドルが言った。

「ハムレットか」

「え? ああ……そうだったかも……」

「迷っているんだろう。自分を裏切った男なんか捨てて旅にでも出たらどうだ?」

「旅? どこに?」

「どこへでも望むところへ逃げればいい」

「簡単に言わないでよ。お金もないし、着替えも持ってきてないのよ」

「俺が連れて行ってやる。着替えは取りに戻ればいいだろ」

 偉そうに言うバドルの表情を見て、何か企んでいるような気がした。怪しんでじっと見ているとバドルは困惑したように眉を寄せ、首を傾げた。

 私は大きくため息をつき、首を振った。

「とりあえず朝になったら家に戻るよ。旅行はその後でね」

 ずっと先のことはわからないけれど、次にやることは決まった。

 一息ついて肩の力が抜けると急激に眠気が襲ってきた。

 このまま運転するのも危険だと判断し、車の中で仮眠をとることにした。

 座席を倒し、当然のような顔をして助手席に乗り込んできたバドルにおやすみを言うと、その後はスイッチが切れたように眠りに落ちた。

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