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 季節は夏。太陽の光が憎らしい。原は昼休みに同僚と共に職場の近くにあるお店で食事をしていた。窓の外を眺めると道行くサラリーマンのスーツに日照りが容赦なくふりかかっていた。額に汗を滲ませながら急ぐように通り過ぎる人たちを、原は人ごとのようにぼんやり眺めていた。自分の部屋にいる姿とは打って変わって、会社の制服に身を包み、化粧もきちんとしている。その姿はいかにも仕事ができそうではあるが、きつめの目つきもあって近寄りにくい感じをさせている。

(ありときりぎりすってどんな話だったっけ?)

 原はまるで関係ないことを連想しながら、目の前で上司の愚痴をこぼしている友人に適当に相づちをしている。どうでもいいと原が思うようなことが、友人にとってはとても重要なようだ。

(私に話したってなにも変わらないのに)

 さめた感情が原を支配する。悪い癖だと思う。直そうと思った時期もあった。もっとハートフルな人間になりたかった。しかし、もう手遅れのようにも感じる。

「原さんって聞き上手だよね。私、ついつい色々喋ってしまう」

 友人の意外な誉め言葉に、原は、はっと、我に返る。

「そんな事ないよ」

 謙遜でなくそう思う。事実、話の内容は詳しく聞いてなかった。しかし大まかな内容は解った。原は彼女にアドバイスでもしようかと、口を開く。

「あなたがそう思う理由も解るけど、課長だって仕事をきちんとやりたいだけなのよ。上から納期を狭められれば課長だってカリカリすると思う。だから今は我慢するしかないよね。今の仕事が一段落すれば、あなたの休暇もとれると思うし、しばらくはね、今のまま頑張るしかないよ」

「うーん」

 納得はしてくれない。原も納得させようとも思わない。この場を終わりにしたかっただけだ。

「そうかもしれないね。原さんに相談するとなんかいつもすっきりする。ありがとね」

 相手の反応が、これまた意外にすんなりとしたもので、少しほっとした。

 日常はありきたりで、毎日が退屈だ。五分後に自分がどこで何をしているのか予想がつく。五分後の世界が今とどう変わっているというのか。原は昔読んだ小説をふと思いだしていた。

(今夜はのぶとゆっくり小説について語り合いたいなぁ)

 原はまた周りの世界をよそに自分の世界に入っていく。いつかは、この目の前の友人も自分の取っつきにくさから離れていってしまうだろうと、原はなんとなく感じていた。

 夏の午後というのはけだるく、時間が経つのが遅い。クーラーのきいた職場でも、うだるような外でもそれは同じなのかもしれない。やっと仕事から開放され家路につく頃には原は疲労を隠すことなく、生気の消えた顔をしていた。職場から家へは、電車で小一時間かかる。毎日の通勤に原はうんざりしていた。原と同じように憔悴しきったサラリーマン達が無言で詰め込まれている。小さい頃こんな大人を見て、そんな風にはなりたくないと思っていた。そんなことを思い出しながら、原は深い溜息をつく。

 家に着くと真っ先に自分の部屋に入る。パソコンの電源を入れ、立ち上がる間にラフな格好に着替えを済ませる。これが原の日課である。先日書き始めた、“書けない”という小説。そのファイルを開き読み返してみる。一度書いた物は日を変えて必ず読み返す。そうしないとなぜか落ち着かないのだ。必ずといっていいほど書き直そうと思う部分が出てくる。描写が稚拙であいまいだったり、表現がうまく作用してなかったり、はたまた文章全部が陳腐で情けなさがこみ上げてきたりと……。たまには(あ、この文章いいじゃん)と思ってみたいものだ。

「はぁ」

 原はいつものように溜息をつく。さっそく変な文を見つけた。

(“火を見るよりも明らか”ってなんか幼稚臭い言い方よね。もっと他の言い回しないかな)

 パソコンの前の椅子に座りながら、後ろへ向かって伸びをする。椅子がぎしっと鈍い悲鳴を上げる。転びそうになる限界でうまくバランスを保つのが、原は好きなのだ。

「んー。はぁ」

 溜息というより深呼吸に近い。原は再びディスプレイと向き合う。そして何気なく近くにある辞書をパラパラとめくる。考え事をするときはいつもこうやって辞書を手にする。考えている事とは全然関係ない文字列を見ながらだと、ふいにいい考えが浮かぶこともある。しかし大概の場合は何か面白い物を見つけてそっちに気が向いてしまう。辞書を出している会社ごとに趣が違ってくるので見比べるのも楽しい。また版ごとにも味が違う。店先で自分が持っていない辞書を見つけるとついつい手を伸ばしてしまう。辞書収集が原の密かな趣味でもあった。新明解国語辞典の版ごとの違いは、その筋では有名な話でもある。と、急にのぶと会話がしたくなった。

(のぶちゃん、いないかなぁ)

 メッセンジャーを立ち上げると、のぶがオンラインになっていた。

(らっき)

 早速メッセージを送る。

「のーぶちゃん。ちわ。早速だけど、私の辞書のウンチク聞いてくれる?」

「なんだ、唐突だな。今日も呑んでいるのか? 酔っぱらいの相手ほど精神を疲弊させるものはないからな」

「まぁまぁ挨拶はいいから――」

 そして、新明解国語辞典第四版から「恋愛」の項目を引用して送った。

 “特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態”

「――合体って! 私、初めて見たとき卒倒しそうなほど笑ったんだけど」

 原は得意そうになってメッセージを立て続けに送った。

「有名な話じゃないか」

 のぶの反応は予想を遙かに上回る冷たさだった。

「それだけじゃないよ。それでね、合体を調べるとね――」

 “1 起源・由来の違うものが新しい理念の下に一体となって何かを運営すること。  2「性交」の、この辞書でのえんきょく表現。”

「――えんきょくしちゃってるの。辞典がそんなことしちゃいけないよね」

「それは知らなかったな。ありがとう。また無駄な事に脳味噌を使ってしまったよ(^^)」

 のぶが顔文字を使うのは珍しかった。それが今回使ってきたというのは、それだけ興味をそそられたという事だろう。原は上機嫌になり、今度は第六版の恋愛の項目を送る。

 “特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。”

「六版になるとなんか普通になっちゃったんだよね。私は四版が一番好きだな。他にも面白いのがたくさんあるから、暇なとき見るのお勧めだよ」

「そうか版ごとにここまで違うのか。全く君はよっぽど暇人か、辞書マニアかどっちかだな」

「実は内緒にしてたけど、私辞書は数十冊は集めてるの。英和とかカタカナ語とか色々含めてね」

 のぶとこんな風にくだらない話をするのは楽しい。なんでだろう。会社の同僚とここまで楽しい気持ちで話した事なんてないのに。

「君にしては意外だな。そんなに語彙に乏しいのに」

「言ったなぁ! とはいえ今も自分の語彙のなさにほとほと情けなくなっていた所なの」

「ほう、どういった事だ?」

「火を見るより明らかって書き方はなんか面白みがないのよね」

「どういった場面なんだ?」

「簡単に予想がつくっていう状態。例えば私がのぶちゃんに、これ面白いよ、って薦めても、冷たい反応が返ってくるのが解る、みたいな」

「それこそ、ご自慢の辞書コレクションをひっくり返して探せばいいものを」

「感性の問題でしょ。明白って書けばシンプルでいいんだけど、もう少し何かのニュアンスを含ませたいって事もあるでしょう?」

「僕は物書きではないからね。思い浮かばないよ。――数十人を惨殺した殺人犯が死刑になる事を予想するよりも易しい――とか?」

「なんかダークだけどユーモアに欠ける」

「君にダメだしされるとはな」

 のぶはどこか陰鬱めいた発想が好きだ。それが原の持っている黒い部分にひんやりと触れ心地よいのかもしれない。

「それだったら――毎日ビールばかり呑んで皮下脂肪が増える事のように自明である――ってのはどう?」

「自嘲かい? 君にしては珍しくちょっとは面白いことを言うじゃないか」

 原はビールの味が恋しくなり、部屋にある冷蔵庫から一つ取り出す。よく冷えた缶を頬にあて、その冷たさを楽しんだ後、プルタブをゆっくりと開ける。炭酸が少し抜ける音と共に白い泡がその姿を表す。わずかに匂ってくる麦の香りに原は思わず喉をならす。身体全体がその中にある液体を欲している。我慢できずに一気に喉に流し込む。毎日続けているが、この瞬間に訪れる恍惚には慣れる事はない。

「――時の流れが常に一定で滞ることのない運命の歯車であるように変えられない普遍の真実であるがごとく――あ〜〜何を言ってるのかさっぱりだ」

 原は思いつくままに書き殴りそのまま送信した。

「変に詩的に表現しようとするから、おかしくなるんだよ。なんだよ、運命の歯車とかって。陳腐すぎ」

「はいはい。のぶちゃんはそういうレスすると思ったよ」

 少し酒が入った原はパソコンの前で一人ニンマリとしていた。

「詩的にいくのなら――暗闇の中誰にも見られることがないが確かに存在する得体の知れない何かを感じ取る時のように、それははっきりとしている――なんてどうだい?」

「それは詩的というよりも、ホラー寄りなだけでしょう」

「そうかい? 普通は不確かなものと思われるものを確実なものに例える趣の深さが君には伝わらなかったようだな」

「そうやって何にでも理屈っぽくこじつける所がのぶちゃんらしい表現なのかもね」

 それから、のぶと色々試行錯誤してみたが“火を見るよりも明らか”を越える表現はできなかった。最後にのぶが、

「先人が考え、そしてここまで普及した言い回しなんだ。今、数十分間考えただけでそれを越えようなんて所詮無理な話なんだよ。いいじゃないか、――火を見るよりも明らか――で。君は自分の作品で色々新しい事を試みようとするけれど、昔からあるものを少し馬鹿にしている風もある。温故知新、これはとても大事なことだよ」

 と言い残して逃げた。


出典――新明解国語辞典第四版(三省堂)

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