07 侍する
07 侍する
すぐ横で、耳を刺すような鋭く高い音がする。
剣と剣がぶつかる響きだと、すぐには理解できなかった。
「下がってないと、危ないですよ」
傘を差してのんびりと、言ったのはルプス皇子の連れだった。
彼は空いた手で俺を掴むと、剣先の届かない庭の端に避難する。そこから見物することに決めたらしい。重そうな剣を振り回す二人を、笑みさえ浮かべて見つめていた。
何だその、無駄な余裕。
だってしとしとと降る雨の中、剣戟を介して向き合うのはウメルスとルプスだ。俺の連れとアンタの連れが、意味不明に戦っている。
「あの、止めなくていいんですか」
て言うか、止めてくれ。のニュアンスで言うと、男は声をこぼして少し笑った。
「ちょっと、無理かな。ウメルスは特に、殿下のお気に入りですからね」
「お気に入り?」
「顔を合わせると、いつもこうです。ルプス殿下と同年で、あれほど出来る男そうはいないから」
ふと、気付いた。彼の腰には剣がある。しかしそれは、さっき片手に持っていたものとは違っていた。鞘が庭に敷かれたタイルにて落ち、中身はルプスの手の中にある。
そうか、あれは、彼のための剣だったのか。余裕なはずだ。こうなると解ってて、この男が剣を渡したんだから。
まだ双方無傷だが、打ち込みは激しい。ルプスの腰に巻いた布が取れないか、別の意味でハラハラした。そしてやはり、正しい意味でもハラハラする。
やっぱり俺が止めなくちゃいけなかったのかー、とか。もしこれで何かあったら、アルデアも責任取らされるのかー、とか。
ぐるぐる考えていると、見透かしたように横から言われる。
「そんなに心配しなくて大丈夫。ドゥクス=イーグニスが咎められる事はない。先に仕掛けたのは、殿下ですからね。保障します」
あの時、俺は皇子に背を向ける形でウメルスを見ていた。だから解らなかったが、先にルプスが剣を抜き、ウルメスも仕方なく応戦したと言うことらしい。
それなら、まあ。と納得し掛けたが、やっぱり全然よくない気がする。
目の前で起こっていることなのに、フィクションみたいだ。
本物の剣を手に切り合っている。もしも剣が皮膚を裂いたら、血があふれ出る。へたすれば死ぬ。それは知ってる。でも、知ってるってことと、本当に解ってるってことは違うんだろう。
俺が今持ってるのは恐いって言う感情じゃなく、マズイって考えだけだったから。
皇子だぞ、皇子。例えどんなにふざけた人間だとしても、そんな相手とやり合っちゃ駄目だろ。
しかし本物の剣、およびそれを使って戦う人間と無縁の人生を歩んできた俺。現代的もやしっ子に、ヤツ等が止められるわけはない。
ふははははは! と、剣戟の合い間に悪役めいた高笑いが響く。
「腕を上げたな、ウメルス!」
「いや、変わんないですよ。殿下が弱くなったんじゃないですか」
「なに? 言ってくれる。善いだろう、眼に物見せてくれ……」
「喧しい!」
女の人の声だった。
ピシャリと叱り付けるそれと同時に、稲妻のような鋭さで白いものが皇子の頭へぶち当たった。完全に狙い澄ました一撃だ。
高い所から放たれて、ルプスの頭にぶつかって跳ねる。速度を落として空中を舞う、その物体は俺の探す牛の大腿骨にとてもよく似ていた。
ポーン、と。妙にゆっくりさらに下へと落ちて消える骨を見送り、目を戻す。
一階分高くなった上の庭に、数人の供を連れた女がいる。そこから見下ろす彼女の姿に、思わず目を奪われた。
金の糸で縁取りされた白いドレス。宝石がちりばめられた、黄金のアクセサリー。黒味を帯びる銀色の髪に飾られて、その顔は美人だけど不敵そうだ。
完全に、某皇子との血縁を感じさせる。
おや。と言うふうにやはりどこかのんびりと、ルプスの連れが声を上げた。
「おいででしたか、陛下」
「ルプスの面倒が見られないならそう言え、ペクトゥス」
「いえ。久々の手合わせに殿下がお喜びでしたので、つい」
「侍従の意味がないな。霊廟にでも縛り付けておくほうが、余程ましと言うものだ」
「母上!」
抗議するルプスの声に彼女は眉を寄せ、耳をふさいで顔を背ける。ひでえ。いや、それはいい。それより俺は、驚くことに忙しい。
「陛下? 母上?」
「ティグリス陛下は、ルプス殿下の母君だ」
剣を収め、隣に立ったウメルスが言う。
女帝か。そうか、それもありだよな。そう思うのに、やっぱり俺は驚いたままだ。だって、若過ぎる。
そこをこっそりウメルスに問うが、答えたのはいつの間にか耳を寄せたペクトゥスだ。
「皇帝陛下は三十四ですよ。十五でルプス殿下をお産みになったから、こんなもんです」
「当人の前で歳の話とは良い度胸だ」
上のほうから、威圧的な声が降る。聞こえたらしい。
「いやー、お若いんでびっくりって話を……」
「おまえ、その印」
言い訳しようと見上げた顔に、ティグリスがわずかに目をみはった。自分の背後で控えた男に何ごとか囁き、その黒いローブに包まれた腕が腰に回るのを許す。
何かエロい。と、俺の中の思春期が騒いだのも一瞬のことで、驚きと好奇心がすぐにそれを超えた。
何しろその男は、女一人を抱えて空中を歩いたのだ。
正確には、下りた。階段を下るように。
ローブに隠れた足を空に出すと、靴の下に水の固まりが現れる。それを踏み少し低く次の位置に足を下ろすと、今までの固まりはバシャリと砕けて消えてしまう。それを何度かくり返し、二人は俺達と同じ高さに下りた。
――魔術師だ。
その考えが瞬くと、言葉が口を突いて出た。
「アンタが、俺をこっちに呼んだのか?」
「いいえ、――コルウス殿」
目深にかぶったフードのせいで、表情がよく解らない。けれども少し、笑った気がした。
「お目に掛かるのは初めてです」
アルデアが付けた名前まで知っていて、それはないだろう。名前を聞いていたとしてもだ、どうして俺がコルウスだと解るんだよ。
納得行かない俺の様子に、魔術師はうなづいて答える。
「ゲムマをお作りしましたから」
それは誰かを召喚するために不可欠な、そして唯一使う道具だと言う。
召喚主の血を混ぜて作るため、同じものは二つとない。ゲムマと召喚された者には同じ印が刻まれて、一対のものとすぐ解る。
「へー……」
ペットって言うより、焼印を押された家畜みたいだ。複雑な気分で額をこすると、絶対におもしろがっているだけのティグリスがずいっと顔を近付けた。
「おまえがアルデアのペットねえ」
「何ですか」
「ペットとは、最も魂の近しい者だ。あれを、支えておやり」
皇帝と呼ばれる人はみんな、こう言うものなのだろうか。
高圧的で偉そうで、ふざけた空気を出しながら急にひそめて囁く声。妙にドキリとさせられた。
これはずるい。心に焼き付くに決まってる。どう言う意味か、解らなくてもだ。
俺が問い返す前に、彼女はくるりと背中を向けた。
「おばあさま!」
そう言って、幼い声が呼んだせいだ。
五歳くらいの女の子だった。やはり黒っぽく光る銀色の髪を持ち、金で縁取られた白い服に身を包む。
幼い足は廊下を駆ける勢いのまま、追いすがる侍女が止めるのも構わず雨の庭に飛び出した。ティグリスの腕に飛び込むと、柔らかな頬を赤く染めて抗議する。
「ずるい! リュンクスだっておりたかったのに、さきにいっちゃだめ」
上の庭で一緒にいたのに、置いて行かれたことを怒っているらしい。
「ああ、悪かった。遠回りさせたね。アルデアのペットを見たら、すぐ戻るつもりだった」
「アルデアの?」
ティグリスの言葉を受けて、ぽっかりと開いた目が俺を見る。
「ペットなの?」
「まあ、そうだよ」
かわいいなー。成長したら、飛びっ切りの美少女になるに違いない。――しかし。
「ほしい!」
皇帝の孫娘は目を輝かせ、ビシリと俺を指さすとコレ欲しい! と主張した。
……そうか。解った。アルデアのこともある。飛びっ切りの美少女はその美貌と引き換えに、人として何かがが足りないことになってるんだな。
特に、人権にまつわる倫理観の欠乏は深刻だ。国を挙げての早急な対策が望まれる。