19 越える
19 越える
どうしてだろうと思ってた。
アルデアに庇われていたにしても、クルースなら簡単に先代を殺せたのに。どうして誰も、はっきりと彼を疑わなかったんだろう。
でも、解った。
みんな、まさかって思ってたんだ。まさかここまで、って。
そう信じた。――俺を含めて。
アレナモスカ。
猛毒。
空気やばい。
話を聞いていた俺の頭にこの三つがピコーンと浮かんで、とっさにトランクから飛び離れる。慌てた足が何かを踏んで、つまづき、倒れ込んだ先は木枠でできた窓だった。
ちなみに、って話だけど。この屋敷は基本的に二階建てだが、この屋根裏だけはちょっと高くなっている。吹き抜けになった、玄関ホールの真上に当たるためだろう。
そこから、落ちた。窓を突き破り、ほとんど三階の高さから真っ逆さまだ。
妙にゆっくり落ちながら、まさかと思う。
まさかここまで、憎まれているとは思わなかった。
あとのことは解らない。がんがんと全身でぶつかって、何かを感じて理解する前に気絶してしまった。
ああ、痛い。
やっとそう思ったのは、目覚め掛けた時だ。
ぼうっとする。自分が何を考えているのか、それもよく解らない。そのくせ、体中が痛いのははっきりしていた。痛いせいで、頭がぼうっとしているのかも知れない。
ぱたぱたと、何かが落ちる。
ぎゅっと握った手を濡らすのは、あたたかな涙だろうか。
アルデアだと、瞼を開く前から解った。
「コルウス! 解る?」
枕の上でうなづいただけなのに、胸の奥に針で刺したような痛みを覚えた。アルデアが慌てて首を振る。
「むりをしないで」
それから強く握った俺の手を離し、頬をぬぐいながら戸口へ向かう。
「オクルス! アウリス! 目を覚ましたわ。お医者を呼んで!」
その声が、すうっと遠くなるのを感じた。
眠ったのだろう。しかし自分では、時間が飛んだような感覚だった。次に聞いたのは、深刻そうな医者の声だ。
「即死だった方が、本人には良かったかも知れません」
意識がないと思っているのか、年配の医者がぼそぼそと言った。
俺の状態は、余りかんばしくないようだ。
いや、それにしてもちょっと待て。生きてる患者を前に、何てことを言うんだ。それでも医者か、このヤブ。
と、言い返す力のない俺に代わって、話を聞いていたアルデアが枕元の水差しを手に取った。それを医者に勢いよくぶちまけて、空になった入れ物をメイドに渡す。
「おかえりよ。お送りして」
そう言うところ、今だけは頼もしいぞ。
しかし、医者がこう言いたくなるのも無理のない話だった。
今の俺は軽くうなづいたり、手をちょっと動かすだけでギブアップだ。手足の骨がぼきぼき折れて、息もうまくできないから胸の辺りも多分無事ではないだろう。
俺が助かったのは、玄関側ではなく裏のほうへ落ちたからだと言われた。
屋敷の前庭は、ほとんど石のタイルが敷き詰められている。そこへ落ちれば、即死だった。しかし裏には木々があり、土もある。それがクッションになり、命だけは助かったらしい。
それに、考えたわけじゃないが窓から飛び出したお陰で虫の毒から逃れられた。あの場に留まったり、階段から下りるなんて悠長なことをしていたらやられていたそうだ。
あれ、あの虫何て言ったっけ。ぼうっとした頭で思いながら、気になったことを問う。
「あの、虫……」
どうなった? そう問いたいのを察し、ウメルスがうなづく。
「大丈夫だ。お前が、毒だの虫だの呻いてたからな。屋根裏は封じて、誰も死んでない」
アレナモスカは暑い砂漠の虫だから、ほかの土地では長く生きない。砂から出したら数分とせずに死んでしまう。このまま誰も部屋に出入りさせず、毒が消えるのを待つそうだ。
ああ、よかった。誰か死んでたら、どうしよかと思った。
ほっとしたのか、またすうと意識が遠のくのを感じた。
どれくらい経ったのか、途切れ途切れに聞こえる声が耳に届いた。
「このままでは……もたないそうよ」
「……術が進んでいると、以前話を」
「なら、手段はもう……」
目を開く。するとグリーンとオレンジがうずを巻く、ちょっと酔いそうな柄が視界いっぱいに広がった。
「目が覚めたかい?」
ケロリンが俺の顔を覗き込んだ。視界を染めたのは、彼のスーツの柄だった。ファッションセンスは今日も絶好調らしい。
「皇帝陛下と、殿下方からのお見舞いを届けに来たよ」
言ってつつく俺の腕に、黒味を帯びた銀色のチェーンが巻き付いていた。
手首を一周する鎖は、その一部分がプレートに切り換わっていた。そこに埋め込まれた宝石が、美しく輝く。褐色の、アルデアの瞳によく似ていた。
ケロリンが、俺の額に軽く触れる。
「アリーのために生きられるキミが、羨ましかった。これからもキミは、彼女のために生きなくてはいけないよ」
……解らない。
どうして、そんなことを言うんだろう。
にこりと笑って離れて行ったケロリンの代わりに、ウメルスがそばに寄る。
「お嬢さんのために、力を尽くすよ」
俺を見下ろすその顔に、憂いが滲む。
それで気付いた。これは、別れだ。
俺は多分、死ぬんだろう。
だとしたら、ウメルス。アルデアを守ってやってくれ。
クルースを庇うために、彼女は屋敷の人間を敵にした。
屋敷の人達も、そんな主を拒絶したままだ。ウメさんだって、最初はそうだっただろ?
アルデアは疑う姿勢だけだったけど、彼等の疑いと敵意は本物だ。だから彼女は、余計に距離を置かなくてはいけなかったんだ。
これからも、関係は難しいだろう。そこを、うまくやってくれよな。
ウメルスが場所を譲ると、アルデアがベッドにもたれて手をついた。そのまま顔を近付けて、唇を落とす。一緒に、あたたかな涙が肌の上にぱたぱたと降った。
薄紅の唇が、息の触れる距離でそっと囁く。
「コルウス、不思議なの。わたくしは、恐ろしいわ。あなたを死なせてしまうことが、自分が死ぬことよりも恐ろしいの」
その瞬間、泣きたくなった。
ごめん、アルデア。
ごめん、そばにいれなくて。
なのに、俺は喜んでる。アルデアが俺のために泣いてくれることに、心のどこかが満たされる。ごめん。それに、ありがとう。
俺はもう、これでいい。
アルデアの後ろに、双子のメイドが控えていた。二人には、心配ばかり掛けた気がする。
その一人が、アルデアに何かを手渡した。
「ここでは駄目なの。だから、あなたを手放すわ」
何を言ってる?
「あなたの世界の医術なら、きっと助かる。……そうよね……?」
「……待て」
淡く光って透き通る石の中、額の紋章と同じものが輝いている。アルデアの手にあるのは、ゲムマだった。
「きっと、生きていてね」
ゆらゆら輝く赤い石が、アルデアの柔らかな手からこぼれ落ちる。割れて弾けたその音を、俺は多分聞いたのだろう。
気が付くと、一面の闇。一面の星。足の下にも、その輝きが瞬いている。
ああ……これを、知っていた。
宇宙の中心みたいな、全部が溶けて行くような場所。その真ん中にぼんやり浮かんで、それとも猛スピードで落下し続け、ふと俺は気が付いた。
そうか。これは、世界の輝き。一つ一つの光が全て、どこかの世界に繋がっている。
例えばそれはアルデアの。
例えば俺が生まれた世界。
闇の中、ぐいっと何かが俺を引っ張る。それは強く、逆らえない力だ。わけも解らない内に、俺は光の一つに吸い込まれた。
――闇だった。
俺を包むのは暗い夜と、冷たい雨だ。
横たわる自分の体が、温度を失って行くのが解る。ざあざあと打ち付ける雨音で、世界は耳からも閉ざされていた。
雨の温度に、秋を感じる。あちらは夏の始まりだと、アルデアが言っていた。
季節を越えて、自分が戻ったことを知る。戻ってきた。戻ってしまった。
ずっといると言ったのに。そばにいると言ったのに。それでよかった。そうしたかった。
失うのが恐ろしいと、泣いてくれる彼女のそばで死にたかった。
雨か涙か解らない。
星も見えない闇の中、俺は自分の喉を引き裂くように声を上げた。