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八年間「正気」でいたのは殿下を愛していたからです。婚約破棄されたので、これからは好きなだけ狂わせていただきますわ

作者: uta
掲載日:2026/03/28

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

「セラフィーナ・ヴァレンティーヌ。貴様との婚約を、本日をもって破棄する」


王宮大広間に、エドワード殿下の声が響き渡った。


シャンデリアの輝きの下、数百人の貴族たちが息を呑む。春の夜会──王国最大の社交の場で、私は満座の前に引き据えられていた。


ああ、ついにこの日が来たのね。


八年間、この瞬間を幾度夢見たことか。いいえ、悪夢に見たと言うべきかしら。けれど今、現実となったそれを前にして、私の心は不思議なほど凪いでいた。


「殿下、理由をお聞かせ願えますか」


私の声は、我ながら驚くほど平坦だった。まるで明日の天気を尋ねるような。


「理由だと?」


エドワード殿下が嘲笑う。金髪碧眼の完璧な王族の顔に、醜い歪みが浮かんでいる。その隣では、蜂蜜色の髪をした小柄な令嬢が──リリアーヌ・エストレラが、大きな琥珀色の瞳に涙を湛えて殿下の腕にすがりついていた。


「貴様は心のない女だ。八年間、私の傍にいながら、一度たりとも愛情を示さなかった」


愛情。


その言葉が、錆びた刃のように胸を抉る。


「リリアーヌを見ろ。彼女は私のために泣いてくれる。喜んでくれる。怒ってくれる。それが愛だ。貴様にはそれがない」


……ああ、そう。


殿下にとって、愛とはそういうものなのね。


泣いて縋って、感情を撒き散らすことが「愛情表現」だと。


「セラフィーナ様は私を苛めたのです!」


リリアーヌが甲高い声を上げた。涙が頬を伝い落ちる。計算され尽くした角度で、シャンデリアの光を受けて宝石のように煌めく涙が。


「お茶会に呼んでくださらなかったり、冷たい目で見られたり……私、怖くて怖くて」


嗚咽を漏らしながら殿下の胸に顔を埋める彼女を、殿下は優しく抱き寄せる。


私が主催した茶会に招待状を送ったのに「体調不良」を理由に欠席し、その日のうちに殿下と密会していたことは御存知ないのでしょうね。私の「冷たい目」というのも、あなたが殿下の執務室から出てくるところを見かけた時の、ただの無表情のことでしょう。


言い訳はしない。


この八年間、そうしてきたように。


「セラフィーナ。弁明はないのか」


殿下が勝ち誇ったように問う。


広間のそこかしこで、ひそひそと囁き声が広がっていく。「やはり氷の令嬢」「人形のような女」「感情がないのだ」──聞き慣れた言葉が、さざ波のように押し寄せる。


弁明。


八年間、一度もしなかった弁明を、今更?


「……いいえ、殿下」


私は微笑んだ。いつものように。完璧に。


「殿下のお心のままに」


「ほら見ろ!」


殿下の声が広間に響く。


「この女は何も感じていない! 婚約破棄を告げられてなお、この冷血ぶりだ! 私はこんな女と生涯を共にするところだったのだぞ!」


リリアーヌが「怖い」と呟いて、さらに殿下に身を寄せる。


広間の空気が、私を断罪する方向へと傾いていく。氷の令嬢。感情のない人形。王太子の愛を得られなかった哀れな女。


──ねえ、殿下。


私の中で、何かが軋む音がした。


八年間、張り詰め続けていた糸が、一本、また一本と切れていく感覚。


殿下の執務を代わりに片付けた夜。

外交文書の誤りをそっと直した朝。

領地経営の助言を「自分の案だ」と発表される午後。

リリアーヌとの密会を知りながら、微笑んで送り出した夕暮れ。


毎晩、自室で爪が割れるまで拳を握りしめた。

「正気でいなければ」と千回唱えた。

壊れそうな心を、必死で繋ぎ止めてきた。


私の「正気」は、狂わないための狂気だった。


「殿下」


声が出た。自分でも驚くほど、澄んだ声が。


「一つだけ、よろしいでしょうか」


「何だ。今更命乞いか?」


「いいえ」


私は、笑った。


今までとは違う笑みが、自然と浮かんでいた。作り笑いではない。心からの、本当の笑み。


広間が、しん、と静まり返った。


「私が八年間、正気でいたのは──殿下を愛していたからです」


「何を──」


「狂ってしまわないように、必死で正気を保っていたのです」


一歩、前に出る。


「泣きたい夜も、叫びたい朝も、全てを飲み込んで微笑みました。それが殿下のお役に立てると信じていたから」


リリアーヌが怯えたように後ずさる。殿下の顔から、勝ち誇った笑みが消えていく。


「でも、もういいのですね?」


私は首元に手を伸ばした。八年間、一度も外さなかった婚約の証──王家の紋章が刻まれた首飾り。


留め具を外す。


重い金属の塊が、私の手の中に落ちた。


「八年分の『正気』をお返しします」


床に落とした首飾りが、澄んだ音を立てた。その音が、広間の隅々まで響き渡る。


「これからは──好きなだけ狂わせていただきますわ」


広間が、凍りついた。


誰も、何も言えなかった。


私は殿下に背を向けた。真紅のドレスの裾が、床に落ちた首飾りの上を通り過ぎる。


「待て! セラフィーナ!」


殿下の声が追いかけてくる。けれど私は振り返らなかった。


「何を待つのです、殿下」


足を止めないまま、肩越しに言葉を投げる。


「婚約破棄を宣言されたのですから、私はもう殿下の婚約者ではありません。命令される謂れはございませんわ」


「貴様……!」


「ああ、そうそう」


ようやく、足を止めた。半身だけ振り返る。


「来週の東部領主会議の資料、殿下のお机の右から三番目の引き出しにございます。南部との通商条約の修正案も、同じ場所に。それから、リリアーヌ様のご実家の借金の件ですが──」


「何の話だ」


殿下が眉を顰める。


「おやまあ。ご存知なかったのですか?」


私は、心からの笑みを浮かべた。今度は冷たく、鋭く。


「エストレラ男爵家は半年前から破産寸前です。リリアーヌ様が殿下に近づいた時期と、ちょうど一致しておりますわね」


「嘘よ!」


リリアーヌが叫ぶ。しかし、その顔は蒼白だった。


「私は殿下を愛して──」


「ええ、ええ、愛していらっしゃるのでしょう。その愛が、借金の肩代わりと引き換えではないと証明できれば、の話ですが」


広間がどよめく。


「で、殿下! この女の言うことを信じるのですか!?」


「リリアーヌ、落ち着け」


「私を信じてくださるのでしょう!? 私を愛しているのでしょう!? ねえ、殿下!」


泣き叫びながら殿下に縋りつくリリアーヌ。その姿は、先ほどまでの可憐な悲劇のヒロインとは程遠かった。


「……興醒めですわね」


私は小さく呟いて、再び歩き出した。


「セラフィーナ様」


広間の入り口近く、見慣れた銀灰色の髪が目に入った。兄──ヴィクトル兄様が、わずかに口元を緩めてそこに立っていた。


「帰ろうか」


「ええ、兄様」


私は兄の差し出した腕に手を置いた。


背後では、まだリリアーヌの泣き声と殿下の困惑した声が聞こえている。そして、それを取り巻く貴族たちの囁き声。もはや断罪の対象が誰なのか、彼らにも分からなくなっているようだった。


「ようやくお前らしくなった」


兄が、低い声で呟く。


「八年は長かったな」


「……ごめんなさい、兄様」


「謝る必要はない」


広間を出る直前、私は一度だけ振り返った。


混乱する殿下とリリアーヌ。動揺する貴族たち。そして──


広間の片隅に、漆黒の髪と深い紫紺の瞳を持つ男性が立っていた。隣国の外交使節団の礼装。切れ長の目が、まっすぐに私を見ていた。


その視線には、嘲笑も同情もなかった。


ただ、静かな興味と──何か、理解のようなものが、あった。


「行こう、セラフィーナ」


兄に促されて、私は踵を返した。


外に出れば、春の夜風が優しく頬を撫でた。


不思議だった。八年間、自分を縛り続けてきた鎖が外れたはずなのに、足取りは軽く、心は穏やかで。


──ああ、これが「解放」というものなのね。


私は、八年ぶりに深く息を吸い込んだ。


夜空の星が、滲んで見えた。




◇ ◇ ◇




「お嬢様」


馬車に乗り込んだ途端、マリエッタが私に飛びついてきた。


「マリエッタ、苦しい」


「知りません! 八年です、八年!」


侍女頭の彼女は、私の肩を掴んだまま泣いていた。三十五歳の落ち着いた女性が、子供のように声を上げて。


「毎晩毎晩、お嬢様が拳を握りしめているのを見ていたのです! 爪の痕を手当てするたびに、私がどれほど……!」


「マリエッタ」


「『殿下のお心のままに』ですって? よく言えましたわね、あんな男に! 私は何度殺してやろうかと──」


「マリエッタ」


私は彼女の手を取った。


「ありがとう」


その一言で、マリエッタの言葉が止まった。


「八年間、ずっと傍にいてくれて、ありがとう」


「……お嬢様」


涙が、また彼女の頬を伝う。けれど今度は、違う種類の涙だった。


「ようやく、お嬢様が笑えるようになった」


「そうね」


私は窓の外に目を向けた。王宮の明かりが遠ざかっていく。


「私、狂ったのかしら」


「いいえ」


兄が静かに答えた。馬車の向かい側で、いつもの無表情のまま。


「ようやく正常に戻っただけだ」


「正常、ですか」


「ああ。今まで──」


兄は珍しく言い淀んだ。そして、絞り出すように続けた。


「今まで、お前は異常だった。感情を殺して、全てを飲み込んで。あれが正常なわけがない」


「……八年間、何度も破談を進言してくださったそうですね」


「父が許さなかった。王家との繋がりは、ヴァレンティーヌ家の悲願だと」


兄の声に、抑えきれない苦渋が滲む。


「すまなかった。俺は、お前を守れなかった」


「兄様」


「だから」


兄が私を見た。冬の湖を思わせる青灰色の瞳に、珍しく熱がこもっている。


「これからは、俺が全力でお前を守る。王家が何を言ってこようと、一歩も引かない」


「……ええ」


私は頷いた。


馬車が、ヴァレンティーヌ邸の門をくぐる。見慣れた屋敷が、今日は少しだけ違って見えた。檻ではなく、帰る場所として。


部屋に戻ると、マリエッタが手際よく夜着を用意してくれた。


「今夜はゆっくりお休みくださいませ」


「ええ」


ドレスから着替える。鏡に映る自分の姿──痩せすぎた手首に、薄く残る爪の痕。今まで見ないようにしてきたそれを、初めて正面から見つめた。


「マリエッタ」


「はい」


「私、泣いてもいいかしら」


侍女が息を呑む気配がした。


「八年間、一度も泣かなかったの。泣いたら、壊れてしまいそうで」


「……お嬢様」


「でも、もう我慢しなくていいのでしょう?」


振り返ると、マリエッタが微笑んでいた。涙を浮かべたまま、それでも穏やかに。


「存分にお泣きください。八年分の涙を、全部」


その言葉を聞いた瞬間、何かが決壊した。


「っ……」


涙が溢れ出す。止められない。止める必要もない。


八年間の全てが、堰を切ったように流れ出していく。悔しさも、悲しみも、怒りも。


私は泣いた。声を上げて、子供のように。


マリエッタが、そっと私を抱きしめてくれた。


「よく頑張りましたね、お嬢様」


その温かさが、また涙を誘う。


「八年間、ずっと一人で」


「……マリエッタ、私」


「はい」


「私、殿下を愛していたの。本当に」


だからこそ、壊れそうだった。だからこそ、正気でいようとした。愛する人の隣で、ふさわしい婚約者であろうとした。


それが報われないと分かっていても。


「存じております」


マリエッタが、私の髪を撫でる。


「だからこそ、お嬢様の『狂気』は美しかった」


「狂気?」


「今夜、広間でお嬢様が笑った時──あれは狂気ではありません」


彼女が、私の顔を上げさせた。


「八年ぶりに取り戻した『正常』ですわ」


……ああ、そうか。


私は、ようやく理解した。


世間が「狂気」と呼ぶものの正体を。


感情を取り戻すこと。自分を偽らないこと。不当な扱いに声を上げること。


それは狂気ではない。本来の人間らしさだ。


「明日から、きっと大変ですわね」


マリエッタが、いつもの実務的な口調に戻って言った。


「王家からの圧力、社交界の噂、リリアーヌ様の逆恨み……」


「ええ、そうでしょうね」


私は涙を拭いて、笑った。


今度は、自然に。


「でも、もう偽る必要はないわ」


「お嬢様」


「泣きたい時は泣く。怒りたい時は怒る。言いたいことは言う。それで『狂っている』と言われるなら、喜んで狂ってみせますわ」


マリエッタが、目を細めた。


「それでこそ、私のお嬢様です」


窓の外では、夜が明けようとしていた。


新しい朝だ。八年ぶりの、本当の意味での。


「そうだ、マリエッタ」


「はい?」


「今夜の舞踏会で、見慣れない方がいたわ。漆黒の髪に紫紺の瞳の──」


「ああ、アレクシス・ノヴァルティス公爵子息ですわね」


マリエッタが、意味ありげに微笑んだ。


「隣国の外交使節団の代表として来ておられました。『氷の交渉人』と呼ばれる辣腕家だとか」


「『氷の交渉人』と『氷の令嬢』か」


「ふふ、お似合いかもしれませんわね」


「何を言っているの、マリエッタ」


窘めながらも、私はあの視線を思い出していた。嘲笑でも同情でもない、静かな理解の眼差し。


──まあ、縁があれば、また会うこともあるでしょう。


私は窓辺に立ち、昇り始めた朝日を見つめた。


新しい一日が始まる。


『狂った』セラフィーナの、最初の朝が。




◇ ◇ ◇




婚約破棄から三日後のことだった。


「ヴァレンティーヌ家に、隣国の外交使節団からお客様です」


使用人の報告に、私は首を傾げた。


「使節団? 父に用があるのでは?」


「いいえ、セラフィーナ様をご指名です」


……私?


応接室に向かうと、そこには漆黒の髪を持つ長身の男性が立っていた。深い紫紺の瞳が、私を捉える。


あの夜、舞踏会で見た人だ。


「アレクシス・ノヴァルティスです。突然の訪問をお許しください」


「セラフィーナ・ヴァレンティーヌです。いいえ、構いませんわ」


私は彼に椅子を勧めた。自分も向かいに座る。


「それで、本日はどのようなご用件でしょうか」


「単刀直入に申し上げます」


彼は、真っ直ぐに私を見た。


「先日の舞踏会での貴女に、興味を持ちました」


「……興味、ですか」


「ええ」


彼の表情は変わらない。冷たく見えるが、不思議と不快ではなかった。


「八年間、王太子の婚約者として完璧に振る舞い続けた侯爵令嬢。婚約破棄を告げられてなお冷静に対応し、最後に『狂った』と噂される言動を取った女性」


「私が『狂った』ことに興味がおありで?」


「いいえ」


彼が、わずかに首を振った。


「貴女が『狂っていない』ことに、興味があります」


一瞬、言葉を失った。


「……どういう意味でしょう」


「あの場で貴女がした発言──『正気でいたのは愛していたから』『狂わないように正気を保っていた』。あれは狂人の言葉ではない」


彼の紫紺の瞳が、じっと私を見つめる。


「あれは、正気に戻った人間の言葉です」


私は、息を呑んだ。


「八年間、感情を殺し続けることの方が異常だった。あの夜、貴女はようやく正常に戻った。違いますか?」


「……なぜ、そう思われるのです」


「私も似たようなものだから、です」


彼は、わずかに目を伏せた。


「『氷の交渉人』──それが私の渾名です。感情がない、冷酷だと言われる。しかし実際は、感情がないのではなく、制御しているだけだ」


「制御」


「ええ。感情に振り回されるより、制御する方が有益だから。しかしそれは、感情がないのとは全く違う」


彼が、再び私を見た。


「貴女も同じだったのでしょう。感情を殺していたのではなく、必死で制御していた。壊れないために」


私は、何も言えなかった。


この人は──この人だけは、私を理解している。


「先日の舞踏会で、貴女は『解放』された。長年の抑圧から。それを『狂気』と呼ぶ人間は、単に貴女を理解できないだけです」


「……ノヴァルティス公爵子息」


「アレクシスで結構です」


「では、アレクシス様」


私は、真っ直ぐに彼を見返した。


「なぜ、わざわざそれを私に伝えに?」


「興味深い人物だから、です」


彼の答えは、簡潔だった。


「八年間、愚かな王太子を支え続けた有能な女性。政務処理能力、外交文書の作成、領地経営の助言──陰で王国を回していたのは貴女だと、調べればすぐに分かりました」


「お調べになったのですか」


「ええ。我が国との通商条約の草案を見て確信しました。あの緻密な条文を書いたのは、王太子ではない」


私は、思わず苦笑した。


「まさか、バレているとは思いませんでした」


「王太子殿下は、あの条約が貴女の手によるものだと気づいていないでしょうね」


「おそらく」


「だからこそ、興味深い」


アレクシスが、身を乗り出した。


「有能で、聡明で、それでいて自分を偽って生きてきた女性。今、その仮面が外れた。本当の貴女が現れた。それを見たいと思うのは──不自然でしょうか」


「……見たい、ですか」


「ええ」


彼の言葉に、裏はなかった。計算も、打算も。ただ純粋な興味が、そこにあった。


「本音を語り、不当な扱いには声を上げ、泣きたい時には泣く──そういう貴女を、もっと見たいと思います」


私は、不思議な感覚に襲われていた。


八年間、誰にも理解されなかった。


「冷血」「人形」「感情がない」──そう言われ続けた。


なのにこの人は、わずかな接触で、私の本質を見抜いている。


「アレクシス様」


「はい」


「貴方は、不思議な方ですね」


「よく言われます」


「褒め言葉ですわ」


私は、自然に微笑んでいた。


「私を理解してくださる方が、殿下以外にいるとは思いませんでした」


「王太子殿下は、貴女を理解していたのですか?」


「いいえ」


即答だった。


「一度も」


「では、私が最初ですね」


「……そうなりますわね」


彼が、わずかに口元を緩めた。笑顔、と呼ぶには控えめすぎるが、確かにそれは好意的な表情だった。


「改めて申し上げます、セラフィーナ嬢」


「はい」


「貴女の『狂気』は美しい。いや、これが本当の貴女だろう? 正気という檻に閉じ込められていただけだ」


同じ言葉を、マリエッタが言った。兄が言った。


でも、この人の口から聞くと、なぜか違う響きがあった。


「私は来週、本国に戻ります。しかし、また戻ってくるでしょう。その時──」


「その時?」


「また、話をさせていただければ」


口下手なのだろう。言葉の選び方がぎこちない。けれど、その不器用さが誠実に感じられた。


「ええ、喜んで」


私は頷いた。


「お待ちしておりますわ、アレクシス様」


彼が立ち上がり、帰り支度を始める。


「最後に一つ」


扉の前で、彼が振り返った。


「王太子は必ず後悔します。貴女という存在の大きさに、遅すぎるほど遅れて気づくでしょう」


「そうかもしれませんわね」


「その時、貴女は振り返らないでください」


私は微笑んだ。


「ええ。もう振り返るつもりはありませんわ」


彼が去った後、私は窓辺に立った。


馬車が門を出ていくのを見送りながら、胸に手を当てる。


……不思議な人だった。


「お嬢様」


マリエッタが、にやにやしながら入ってきた。


「随分と長いお話でしたわね」


「……盗み聞きしていたの?」


「いいえ、お茶の用意をしていただけですわ」


絶対に嘘だ。


「『貴女の狂気は美しい』ですって。素敵な口説き文句でしたわねえ」


「口説かれてなどいません」


「お顔が赤いですわよ、お嬢様」


私は、慌てて顔を背けた。


「……うるさいわね」


マリエッタが、声を上げて笑った。


「ようやく、普通の反応をしてくださるようになりましたわね」


「どういう意味よ」


「今までなら『殿下のお心のままに』とか言いそうでしたもの」


……確かに。


「変わりましたわね、お嬢様」


マリエッタが、優しく微笑む。


「良い方向に」


「そうかしら」


「ええ。とても」


私は、再び窓の外を見た。


新しい出会いが、私の人生に入ってきた。


これがどこに繋がるのかは分からない。けれど──


悪くない予感がしていた。




◇ ◇ ◇




婚約破棄から一月。


「陛下、民の不満が高まっております」


王城の謁見の間で、大臣が悲痛な声を上げた。


「東部の飢饉に対する支援が遅れております。本来ならば先月には手配が完了しているはずでしたが……」


「なぜ遅れている」


国王が苛立たしげに問う。その隣で、王太子エドワードが居心地悪そうに視線を逸らした。


「王太子殿下の決裁が……」


「エドワード!」


「父上、少し待ってください。今、リリアーヌの機嫌が悪くて……」


「機嫌だと? 民が飢えている時に、愛人の機嫌を気にしているのか!」


「愛人ではありません! 婚約者です!」


「まだ婚約はしておらん! あの娘との婚約を許可した覚えはない!」


父子の怒号が響く。


大臣たちは、ただ顔を見合わせるしかなかった。


一月前までは、こんなことはなかった。


政務の書類は常に整理され、必要な決裁は滞りなく行われていた。外交文書は完璧に準備され、領地からの陳情には適切な対応が取られていた。


それが全て、たった一人の「影の執政者」によって行われていたことを、今になって皆が思い知っていた。


「セラフィーナ・ヴァレンティーヌ嬢は……」


老大臣が、おずおずと口を開いた。


「あの方がお戻りになれば……」


「あの女が何だというのです!」


エドワードが激昂した。


「あの冷血女がいなくても、私一人で政務はこなせます!」


「しかし殿下、この一月で──」


「黙れ!」


王太子の怒声が、謁見の間に響き渡った。


大臣たちは沈黙した。けれど、その目には明らかな疑念が浮かんでいた。




同じ頃、王宮の一室では──


「なぜ私の言う通りにしてくれないのですか!」


リリアーヌの泣き声が響いていた。


「私は王太子妃になるのです! それなのに、まだ婚約の発表もされていない! 侍女たちの態度も冷たい! みんな私を馬鹿にしているのです!」


「リリアーヌ、落ち着いて……」


「落ち着けませんわ! あなたが私を守ってくれないから!」


エドワードは、疲れた目で愛人を見た。


彼女の泣き顔は、かつて愛おしく思えた。その涙は純粋な愛情の証だと信じていた。


けれど最近、それが──鬱陶しく感じ始めていた。


「セラフィーナ様は、いつも私を苛めるような目で見ていたのです! あの女を追い出したのに、まだ王宮には彼女の味方がいます!」


「リリアーヌ」


「何とかしてください! 私のために!」


また、泣き出す。


彼女は常に泣いていた。要求が通らないと泣き、思い通りにならないと泣き、少しでも不快なことがあると泣いた。


かつてセラフィーナは、一度も泣かなかった。


八年間、どんな状況でも冷静に対処し、静かに問題を解決してくれた。


──あの女は一度も私を愛さなかった。


本当に、そうだったのだろうか。


あの夜、セラフィーナが言った言葉が、ふと脳裏をよぎる。


「私が八年間、正気でいたのは──殿下を愛していたからです」


「狂ってしまわないように、必死で正気を保っていたのです」


……いや、違う。


あれは、私を侮辱するための演技だったはずだ。


そうに違いない。


「エドワード様! 聞いていますの!?」


「ああ……聞いている」


エドワードは、重い溜息をついた。


「リリアーヌ、今日は疲れた。少し休ませてくれ」


「え……?」


琥珀色の瞳が、大きく見開かれる。


「私を置いて行くのですか? 私は寂しいのです! 一人にしないでください!」


「頼むから……少しだけ……」


「嫌です! 嫌です! 私を愛しているなら、一緒にいてください!」


また、泣き出す。


エドワードは、げっそりとした顔で椅子に崩れ落ちた。




「殿下のご様子、かなりお疲れのようですわね」


ヴァレンティーヌ邸で、マリエッタが報告した。


「政務は滞り、民の不満は高まり、貴族たちの間では殿下への不信が広がっております」


「そう」


私は紅茶を一口飲んだ。


「リリアーヌ様との関係も、どうやら上手くいっていないようですわ。毎日のように泣いて縋られて、殿下はすっかり疲弊しているとか」


「まあ」


「侍女仲間からの情報では、『あの冷血女が懐かしい』と殿下が漏らしたとか」


私は、小さく笑った。


「予想通りね」


「お嬢様は、何もなさらなくてよろしいのですか?」


「何もする必要がないわ」


私は窓の外を見た。


「彼らは勝手に崩れていく。私の手を借りるまでもなく」


八年間、私は全てを与えてきた。


政務の能力も、安定も、冷静さも。


それが消えた今、王国は──王太子は──自分たちの足で立つことすらできない。


「因果応報、とでも言うのかしら」


「お嬢様らしくない言葉ですわね」


「そう?」


私は微笑んだ。


「『狂った』私は、思ったことを言うのよ。それが私らしいのだそうですわ」


マリエッタが、嬉しそうに笑った。


「本当に、良いお顔になりましたわね」


その時、使用人が報告に来た。


「お嬢様、隣国からお手紙が届いております」


「隣国?」


「アレクシス・ノヴァルティス公爵子息よりです」


私の心臓が、少しだけ跳ねた。


「……お持ちなさい」


マリエッタのにやにやとした視線を無視して、私は手紙を受け取った。


封を開ける。整った字で、簡潔な文章が綴られていた。


『セラフィーナ嬢


約束通り、また参ります。来週には王都に戻れる見込みです。


お会いできることを楽しみにしております。


アレクシス・ノヴァルティス』


……本当に口下手な人だ。


ビジネス文書のような素っ気なさなのに、なぜか温かさを感じるのは気のせいだろうか。


「お返事、お書きになりますか?」


マリエッタが、相変わらずにやにやしながら尋ねる。


「……ええ、書きますわ」


私は便箋を手に取った。


窓の外では、春の陽射しが眩しく輝いていた。




◇ ◇ ◇




婚約破棄から三月が経った。


王国は、目に見えて傾いていた。


東部の飢饉は悪化し、南部では通商条約の不備が発覚して隣国との関係が冷え込み、北部の領主たちは公然と王家への不満を口にするようになっていた。


「全て、セラフィーナのせいだ」


エドワードは、空虚な目で呟いた。


「あの女が私を裏切ったから、こうなったのだ」


裏切り。


本当にそうだろうか。


最近、エドワードの執務室の片隅から、古い書類の束が見つかった。


東部領主会議の資料。南部との通商条約の修正案。北部の鉱山開発計画。外交文書の草稿。


どれも、完璧に準備されていた。


どれも、エドワードが作成した覚えのないものだった。


「この字は……」


流れるような美しい筆跡。見覚えがあった。


八年間、隣にいた女性の字だ。


セラフィーナが、全て準備してくれていたのだ。


彼女がいなくなってから初めて、エドワードは気づいた。


自分がいかに無能だったか。


セラフィーナがいかに有能だったか。


彼女の「冷血」と呼んだ冷静さが、実際には王国を回す不可欠な歯車だったことを。


「殿下」


リリアーヌが、部屋に入ってきた。


「また書類を見ているのですか? 私と過ごす時間はないのですね!」


「リリアーヌ、今は──」


「いつも『今は』ばかり!」


涙が溢れる。いつものように。


「私を愛していないのでしょう!? セラフィーナ様のことばかり気にして!」


「そんなことは──」


「嘘です! あの女の書類ばかり見て! 私のことは放っておいて!」


「うるさい!」


エドワードは、初めてリリアーヌに怒鳴った。


「少しは黙ってくれ! 私は今、考えなければならないことがあるんだ!」


リリアーヌの泣き声が、ぴたりと止まった。


大きな琥珀色の瞳が、信じられないものを見るようにエドワードを見つめている。


「……殿下が、私に怒鳴った」


「リリアーヌ、私は──」


「ひどい! ひどい! こんな仕打ちを受けるために、私は全てを捨てたのに!」


「全てを捨てた……?」


「実家の借金も、世間の目も、全部我慢して殿下の傍にいたのに!」


……借金。


婚約破棄の夜、セラフィーナが言った言葉を思い出す。


「エストレラ男爵家は半年前から破産寸前です。リリアーヌ様が殿下に近づいた時期と、ちょうど一致しておりますわね」


あれは、本当だったのか。


「リリアーヌ。お前は、私を愛しているのか?」


「は……?」


「私を愛しているから、傍にいるのか? それとも──」


「何を言っているのですか、殿下! 当たり前でしょう!」


リリアーヌが、必死の形相で縋りつく。


「私は殿下を愛しています! 信じてください! あの女の言うことを信じないで!」


「……ああ」


エドワードは、疲れた目で彼女を見た。


「信じたいものだな」




数日後、エドワードはヴァレンティーヌ邸を訪れていた。


「どういう風の吹き回しでしょうか、殿下」


セラフィーナが、冷ややかな目で彼を見つめている。


彼女は──変わっていた。


以前の、感情を押し殺した人形のような様子は消え失せ、穏やかだが芯のある表情を浮かべている。


美しい、と思った。


八年間隣にいて、初めてそう思った。


「セラフィーナ。戻ってきてくれ」


「は?」


彼女の眉が、わずかに上がった。


「戻る、とは?」


「私の……婚約者として」


セラフィーナは、しばらく無言だった。


そして──笑った。


声を上げて、心から楽しそうに。


「ああ、おかしい。本当におかしいわ」


「セラフィーナ……?」


「三月前、満座の前で『心のない冷血女』と罵った方が、今更戻ってきてくれ?」


彼女の青灰色の瞳が、冷たく光る。


「殿下、私を馬鹿にしていらっしゃるの?」


「違う、私は──」


「では何のため? 政務が回らなくなったから? 民の不満が高まったから? それとも──リリアーヌ様にお疲れになったから?」


エドワードは、言葉を失った。


全て、図星だった。


「私はね、殿下」


セラフィーナが、穏やかに微笑んだ。今度は本物の笑顔で。


「八年間、殿下を愛していました。本当に」


「なら──」


「でも、その愛は三月前に終わりました」


彼女は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。


「私はもう、誰かのために正気でいる必要はないのです」


「セラフィーナ」


「帰ってください、殿下」


振り返った彼女の目に、もはや何の感情もなかった。


怒りも、悲しみも、愛情も。


ただ、静かな無関心だけが、そこにあった。


「あなたとリリアーヌ様がどうなろうと、王国がどうなろうと──もう私には関係ありません」


「待ってくれ、セラフィーナ! 私は──」


「お帰りの道は、使用人がご案内いたしますわ」


そう言って、彼女は扉の方を示した。


エドワードは、しばらく呆然と立ち尽くしていた。


やがて、重い足取りで歩き出す。


扉の前で、一度だけ振り返った。


窓辺に立つセラフィーナは、もう彼を見ていなかった。


春の陽射しを浴びて、穏やかな表情で外を眺めている。


八年間見たことのない、自然な笑みを浮かべて。


……失ったのだ、と。


エドワードは、ようやく理解した。


自分が何を失ったのか。


それがいかに取り返しのつかないことなのか。




彼が去った後、セラフィーナは小さく息をついた。


「お疲れ様でした」


マリエッタが、紅茶を持って入ってきた。


「よくお断りになりましたわね」


「当然でしょう」


セラフィーナは紅茶を受け取り、一口飲んだ。


「私はもう、あの人のために何かをする気はないわ」


「アレクシス様が、明後日お見えになるそうですわね」


「ええ」


セラフィーナの頬が、わずかに染まる。


「……また、お話をさせていただくわ」


「お話だけ、ですか?」


「マリエッタ」


「はいはい、存じませんわ」


侍女は、いたずらっぽく笑いながら部屋を出て行った。


セラフィーナは、再び窓の外を見た。


新しい季節が始まろうとしている。


新しい人生が、始まろうとしている。


正気と狂気の境目で、ようやく見つけた『本当の自分』と共に。




◇ ◇ ◇




「セラフィーナ」


アレクシスが、私の名を呼んだ。


ヴァレンティーヌ邸の庭園。春の花が咲き乱れる中、私たちは並んで歩いていた。


「また改まって、何でしょうか」


「……言葉を選んでいる」


「珍しいですわね、氷の交渉人が」


「君の前では、いつも言葉が出てこなくなる」


彼が、困ったように眉を寄せる。その表情が、不覚にも愛おしく思えた。


「私は、口下手だ」


「存じておりますわ」


「だから、回りくどい言い方はしない」


彼が立ち止まった。私も足を止める。


「私と、来てくれないか」


「……どこへ?」


「私の国へ」


紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「私の妻として」


心臓が、大きく跳ねた。


「この数ヶ月、何度も手紙を交わし、何度も話をした。君という人間を知るほど、惹かれていった」


「アレクシス様……」


「君の聡明さも、強さも、時折見せる辛辣なユーモアも。全部、愛おしいと思う」


彼が、私の手を取った。大きく、温かい手のひら。


「私は不器用だ。気の利いた言葉は言えない。君を楽しませる会話も苦手だ」


「そんなことは……」


「でも」


彼の目に、熱がこもる。


「君が泣きたい時には、隣にいる。君が怒りたい時には、一緒に怒る。君が笑う時には、それを見ていたい」


「……」


「君が『狂って』いても、構わない。いや──君が自分らしくいられるなら、何だっていい」


私は、目の奥が熱くなるのを感じた。


八年間、誰にも言ってもらえなかった言葉だ。


ありのままの私を受け入れる、という言葉。


「返事は、今すぐでなくていい。時間をかけて考えて──」


「アレクシス様」


私は彼の言葉を遮った。


「答えは、もう決まっておりますわ」


「……何、だって?」


「私も、貴方と一緒に行きたい」


彼の目が、大きく見開かれた。


「本当か」


「ええ。本当です」


私は微笑んだ。涙が頬を伝う。けれど、それは悲しい涙ではなかった。


「私、八年間泣けなかったの」


「知っている」


「でも、今は泣ける。泣いてもいいと思える」


彼が、そっと私の涙を拭った。


「それは、貴方が私を受け入れてくれるから」


「セラフィーナ」


「私のこの涙は、喜びの涙ですわ」


彼が、不器用に微笑んだ。生真面目な顔が、わずかに崩れる。


「よかった」


「……それだけ?」


「言葉が、出てこない」


「本当に口下手ですわね」


「すまない」


「謝らないで」


私は、彼の頬に手を伸ばした。


「私には、その不器用さが心地いいの」


彼が、私を抱きしめた。強く、けれど優しく。


花の香りと、春の風と、この人の温もり。


──ああ、これが幸せというものなのね。


私は、ようやく理解した。




「お嬢様、ご婚約おめでとうございます」


夕刻、部屋に戻った私を、マリエッタが満面の笑みで迎えた。


「……どこから見ていたの」


「庭園のベンチから」


「全部見てたのね」


「当然ですわ。八年分の恋を見届けなくてどうしますの」


私は、呆れながらも笑った。


「兄様には、私から伝えるわ」


「ヴィクトル様でしたら、アレクシス様のプロポーズを事前にご存知でしたわよ」


「……は?」


「何でも、アレクシス様がお父上と兄上様に正式に申し入れをされたとか。もちろん、お二人とも快諾されました」


「先に父と兄に……」


「律儀な方ですわねえ」


私は、頭を抱えた。


「何もかも、根回しが完璧ですわね……」


「『氷の交渉人』の面目躍如ですわ」


……この人は、本当に不器用なのか、それとも計算高いのか。


「でも」


マリエッタが、優しく微笑んだ。


「良かったですわね、お嬢様」


「……ええ」


窓の外では、夕日が空を赤く染めていた。


「本当に、良かったわ」




◇ ◇ ◇




一ヶ月後。


セラフィーナとアレクシスの婚約が正式に発表された。


社交界は騒然となった。『狂った氷の令嬢』と『氷の交渉人』の婚約。けれど、二人を見た者は皆、口を揃えて言った。


「お似合いだ」と。


同じ頃、王国の状況は悪化の一途を辿っていた。


エドワードとリリアーヌの関係は完全に冷え切り、リリアーヌは実家の借金を清算するために別の貴族との縁談を画策し始めた。それが発覚して大騒動になり、エストレラ男爵家は爵位を剥奪されることとなった。


エドワードは、全てを失った。


愛人も、名声も、そして王太子としての信頼も。


民の反乱が起き、貴族たちは次々と離反した。国王は病に倒れ、王国は崩壊の危機に瀕している。


──因果応報。


セラフィーナは、その知らせを聞いても何も感じなかった。


「行きましょうか、セラフィーナ」


アレクシスが、手を差し出す。


彼女は微笑んで、その手を取った。


隣国へ向かう馬車が、ゆっくりと動き出す。


王宮の塔が、遠ざかっていく。八年間を過ごした場所が、小さくなっていく。


「後悔はないか」


「ありませんわ」


セラフィーナは、窓の外を見つめた。


「私の人生は、今日から始まるのですから」


アレクシスが、彼女の手を握り返した。




正気と狂気の境界線。


その線を踏み越えた時、セラフィーナは本当の自分を取り戻した。


狂気と呼ばれた解放は、八年の沈黙に対する答えだった。


愛されなかったのではない。愛が見えていなかっただけ。


感情がなかったのではない。感情を殺していただけ。


彼女の物語は、悲劇で終わらなかった。


終わりではなく、始まりだったのだから。




──そして、セラフィーナは幸せに暮らした。


「正気」という檻から解き放たれた、本当の自分と共に。


泣いて、笑って、怒って、愛して。


人間らしく生きる自由を、ようやく手に入れて。

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