音の向こうへ
夕陽が窓の外を橙色に染め、古びた木製の扉の向こうから、生徒会室特有の紙とインクの匂いが流れ出していた。
「──つまり、事故はあくまで安全管理の不備によるもので、誰か一人を責められるものではなかった、そういうことだな?」
玲於奈会長が、レポートの束を片手にゆっくりと問いかけた。
机の向こう、雷は背筋を伸ばしてうなずいた。
「はい。翔太も、真理も……あのとき、自分を責めていました。
でも、彼らは最後まで仲間を思っていた。だから、俺たちも、彼らを守りたかったんです」
「ふうん。ま、青春だな」
玲於奈は苦笑し、書類をとんとんと整える。
「報告書には全部目を通した。安全対策の提言も、来年度のライブ実行委員会に回しておく。
で──おまえら、反省したか?」
雷は思わず口元をゆるめた。
「……反省、しました。多分、ちょっとだけ」
「ちょっとだけか。ならいい。青春ってのは、半分反省して半分笑うもんだ」
会長は立ち上がり、カーテンを開け放った。
柔らかな光が差し込み、紙束が金色にきらめく。
「それとな。ライブの撤収手伝ってくれた草薙建設の特別班に、あとで礼を言っとけよ。
あの人たち、プロでも怖がる現場を一晩で立て直したんだ。若(登夢)のおかげだな」
雷は深くうなずいた。
「……はい。ほんと、すごい人たちでした」
玲於奈は笑みを深めると、背中を叩いた。
「よし、じゃあ解散! あとは──昇竜軒だ。替え玉は青春の義務だからな」
雷は思わず吹き出した。
「会長、結局それが本題ですよね」
「そうだ。青春には塩とスープが必要なんだよ」
──数日後。
鳳学園近くの小さなラーメン屋〈昇竜軒〉。
湯気とスープの香りの中で、生徒会長の玲於奈がどっかりと腰を下ろし、肩を組んでにやりと笑った。
「お前ら、青春しすぎだ。反省して、ラーメン食え」
雷とシャケは顔を見合わせ、同時に吹き出す。
登夢は無言で箸を取り、冬華は涙を拭いながら笑った。
「青春に、ラーメンって合うのかな……」
「塩分も涙も多めでな」シャケの軽口に、店内が柔らかく笑いに包まれた。
湯気の向こう、翔太と真理の夢はまだ小さい。
けれど、確かに前へ進み始めていた。
雷が箸を置き、静かに言う。
「……守る。もう、誰も泣かせない」
その声は、湯気とともに夜空へ溶けていく。
シャケが窓の外を見ながら呟く。
「さあ、次は――レコーディングだな」
その言葉が、夜の街に小さく溶けていった。
――
店を出ると、夜風が冷たく肩を撫でた。
鳳学園の校門前。銀杏の葉がひらりと舞う。
五人の影が、街灯の下で長く伸びる。
誰かが呟く。
「……次はいよいよ、レコーディングだな」
その言葉を、今度は誰も笑わなかった。
真理は小さく頷き、涙をぬぐった。
「うん。みんなで作る音楽を、ちゃんと形にする」
その声は震えていたけれど、確かな“光”があった。
雷は拳を握り、まっすぐ前を見つめる。
「軽音部も、俺たちも。全力で支える。――誰も失わない」
登夢は短く息を吐き、夜空を見上げる。
「裏で支えるだけじゃない。今度は、正面から立ち会う」
冬華は真理の手を握り、微笑んだ。
「もう隠さなくていい。音も、想いも、全部」
その瞬間、銀杏の葉が風に舞い、街の灯りが揺れた。
――夜が深くなるほど、胸の炎は強く燃えていく。
彼らの決意は、確かにここにあった。
これから始まるのは、音を“形”にする戦い。
光と影、汗と涙、そして音楽のすべてを賭ける時間。
鳳学園の屋上で誓った“守る”という想いが、
今、音の世界へと動き出す。
―― レコーディング編、始動。
鳳学園養護日誌 観察記録第37号
――記録者:今沢 緑(養護教諭)
保存区分:校内限定・関係職員閲覧可
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【記録日:文化祭明け/午後】
午前中、翔太の退院報告を受けた。
包帯の下の傷はまだ完全ではない。
けれど彼の表情は、痛みよりも“安堵”に近いものだった。
ベッド脇で微笑む真理の姿。
その瞳には、泣き疲れた跡と、新しい決意が同居していた。
人は時々、取り返しのつかないことをしてしまう。
けれど“赦し”というものは、誰かに与えられるものではなく、
自分で見つけ出すものなのだろう。
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【観察:雷・登夢・シャケ・冬華】
雷――
冷静さの裏に、仲間を守る強い意志。
彼の目は時折、教師よりも大人びて見える。
「うやむやでいいんです」と言いながら、
本当は誰よりも真実の重さを知っている子。
登夢――
優しさと、危ういほどの正義感。
言葉を選ぶときの沈黙が長いのは、
その奥に“誰かの心を壊したくない”思いがあるからだろう。
シャケ――
感情を表に出さないが、心は誰よりも熱い。
あの夜、保健室の前で一人泣いていたのを見てしまった。
彼が泣くとき、それは他人の痛みのためだ。
冬華――
事実を記録しようとしながら、“友”として揺れていた。
友情と感情の狭間で迷う姿は、
私自身が若い頃に失った理想を思い出させた。
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【観察:谷神静耶】
静耶は、双子の妹でありながら冬華とはまるで違う。
冷静で、観察者の距離を崩さない。
けれど彼女の記事の最後の一行――
「沈黙の奥で守られた真実」
あの言葉を書いたとき、彼女もまた涙を流したことを、
職員室の誰も知らない。
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【観察:真理と翔太】
真理の耳は、医師の診断では一部回復の兆し。
けれど彼女自身は「聞こえるようになった」としか言わなかった。
その言葉の裏には、
“もう恐れたくない”という意思があったのだろう。
翔太は、罪悪感を抱えながらも、
「守りたい」という想いを最後まで曲げなかった。
彼の選択が正しかったかどうかは、誰にも断定できない。
だが確かに、彼の行動が“誰かの未来”をつないだ。
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【職員備考】
事故の直接原因は、舞台設備の素人設置による安全管理不足。
しかし、それを“事件”と断ずるにはあまりにも脆く、
また“奇跡”と呼ぶには痛みが深すぎた。
校長には報告済み。
生徒会長・玲於奈の指示で、
この件は文化祭事故報告として処理される予定。
公には語られないだろう。
だが、私は知っている。
この出来事は、生徒たちの成長の節目であり、
彼らが“音”を超えて“祈り”を奏でた日だったことを。
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【最後の記述】
放課後、夕焼けのグラウンドで翔太と真理が並んで歩いていた。
言葉は交わしていない。
それでも二人の影は、確かに重なっていた。
あの影がまた離れる日が来ても、
彼らの中には「Let It Be」が残るだろう。
あるがままでいい。
その言葉を信じて歩き出すことが、
人が“成長する”ということなのだ。
――今沢 緑 記




