風が止む夜、声が届くとき
―風が止むとき、人の声が聞こえる―
セダンが山崎総合病院の裏口へ滑り込む。
雨が車体を叩き、赤い警告灯の光が滲んだ。
篠塚玄馬が素早く降り、後部ドアを開ける。
「若、搬入します!」
登夢は頷き、翔太を抱えたまま外へ出た。
夜風が肌を刺す。汗で濡れたシャツが冷たく張りつく。
それでも――腕の中の温もりだけは、絶対に離せなかった。
「急げ。ここからは我々の領分だ」
低い声が響く。
その声の主が、白衣の裾を揺らしながら現れた。
「……母さん」
雷の喉が震える。
凛とした横顔。灰青の瞳――自分と同じ色。
雷の母、雷 環。
山崎総合病院・外科部長。
“氷の執刀医”と呼ばれる女医だ。
「状況は?」
「腹部刺創、止血は一時的。意識反応あり、血圧ギリギリです!」
「確認するわ。手術室の準備を」
「はい!」
スタッフが一斉に動き出す。
その中で、雷だけが動けずにいた。
「……母さん、俺、止血した。けど――」
「わかってるわ」
環は短く頷き、息子をまっすぐ見た。
「あなたの判断は正しかった。もう、“子ども”じゃないのね」
その口元に、わずかな笑み。
彼女は翔太の額に触れ、やさしく髪を払った。
「この子、よく頑張ったわ。すぐ始める」
ストレッチャーが光の奥へと消えていく。
手術室の扉が閉まる音が、雷の胸に小さく響いた。
◆ 待合室
時計の針が静かに進む。
登夢は壁に背を預け、腕を組んだまま目を閉じていた。
雷は椅子に腰を下ろし、両手を握りしめている。
「母さん、怒ってたかな」
「いや。怒るならその場だ。あの人はそういう人だ」
「登夢、知ってるのか?」
「ああ。草薙明と古い仲だ。俺が小さい頃、道場の救護講習で世話になった」
「……あの頃からか」
雷は天井を見上げた。
「母さん、昔から“人を助けること”しか考えてないんだ。
俺がケンカして帰るたび、何も言わずに処置してくれた。
でも――あの手の震えだけは、いつも覚えてる」
登夢は目を閉じたまま呟く。
「……優しさだ。強い奴ほど、怖がるんだ」
静寂。
モニターの点滅だけが、夜の色を切り裂いていた。
そのとき、ドアが開く。
「雷君」
白衣姿の今沢緑が立っていた。
穏やかな笑みを浮かべて。
「校長代理として来ました。病院に報告が入ってね」
「……今沢先生」
「環先生から伝言。“息子さんたちが守った命は、ちゃんと息をしてる”って」
雷の瞳が見開かれる。
「……助かったのか」
「ええ。手術は成功よ。もう少し時間はかかるけど、意識は戻るはず」
登夢が深く息を吐いた。
雷は小さく呟く。
「……よかった。本当に……よかった」
今沢は二人を見つめ、やわらかく言う。
「雷君。あなたのお母さんは、あなたを誇りに思ってる。
でも――“医療と仲間の線”の難しさも、きっと伝えたいのよ」
「線……?」
「ええ。助けることと、背負うこと。その間にある細い線。
それをどう越えるかは、あなた次第」
雷は小さく頷いた。
◆ 深夜、病室
手術が終わり、夜が更けていく。
窓の外では、雨が静かに降り続けていた。
環はカルテにペンを走らせ、疲れた肩を落とす。
その手がかすかに震えている。
「……やっぱり、まだ母親なんだな」
杖をついた男――草薙明が立っていた。
「理事長……!」
「この病院に来るのは久しぶりだな。君は何も変わらん」
明は翔太の寝顔を見つめる。
「生徒を守る。それは立派なことだ。だが――“秘密”も守るということでもある」
環の瞳がわずかに鋭くなる。
「……あの夜のことは、どこにも出ません。学校も、私も」
「そうだろう。登夢も雷も――命に触れた。もう元には戻れぬ」
明は小さく笑った。
「だからこそ、彼らは次の世代を変える。君もそう願っているのではないか?」
環は静かに頷いた。
「ええ。あの子たちが、自分で選べる未来を――」
そのとき、ノックもなく扉が開く。
「母さん!」
滅菌区域に雷が駆け込んだ。
「入っちゃダメでしょ」
「ごめん。でも……翔太の顔、見たくて」
「少しだけよ」
雷はベッドに近づき、息を呑む。
翔太の顔色はまだ青白いが、確かに息をしている。
その呼吸に合わせるように、雷のまなざしが柔らかくなった。
「……またバカなこと言って、笑うんだろうな」
「ええ。生きてるからこそ、言えるのよ」
環の声が少しだけ震えた。
「伴隆」
「なに」
「ありがとう。仲間を信じたあなたの判断、私は嬉しかった」
雷は息を整え、ほんの少し笑った。
「……俺も、母さんの背中を見てたから」
◆ エピローグ 屋上にて
夜明け前。
登夢と草薙明が屋上で風を受けていた。
街の灯りが滲み、遠くのサイレンが消えていく。
「……これが始まりだな」登夢が呟く。
「焦るな」明は穏やかに言う。
「守ることと暴くこと――その順番を間違えるな。雷も、お前も、もう渦の中だ」
登夢は拳を握った。
「……覚悟してます」
「ならば――あの子らを導け。“風”の吹く方へな」
夜の風が、鳳学園の塔の方角から吹き抜ける。
手すりが、風に鳴った。
まるで――夜明けの鐘みたいに。




