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第8話

 朝、鏡の前で髪を結んでいたら、ゴムがぱちんと切れた。わたしの一日の始まりは、たいていちいさな破綻から始まる。髪はばらけ、鏡の中のわたしは、思いがけず自由になった。けれど、自由とは見た目においては、無秩序と紙一重だ。

 仕方なく新しいゴムを引き出しから探し出し、今度はすこしきつめに結び直した。人はいつだって、ほつれと締め直しの繰り返しを経て、ようやく外に出られる。着古した服を直すように、何度も失敗と修復を繰り返して、自分専用の人生という服を仕立て上げるのだ。


 通学路の途中で見かけた猫は、電柱の影に身を潜めていた。わたしが近づくと、猫は一度こちらをちらりと見て、すぐに視線を逸らした。

 その態度はまるで、クラスメイトの一部と、同じだ。興味はあるけれど、関わりすぎたくはない、という距離感。わたしも似たような態度を取ることがあるから、猫を責める筋合いはないし、猫に責められる筋合いもない。

 お互いに知らんぷりしながら、実は気にしている。人間も猫も、孤独を保ちながら、社会的なふりをする生き物だ。


 午前中の美術の時間、石膏デッサンをした。クラスの誰もが白い像を見つめ、鉛筆を走らせていた。けれど、わたしの紙の上には、どうしても顔の中に顔が現れてしまう。陰影をつけると、余分な目や口が浮かび上がってくるのだ。

 先生が、「ユニークですね」と言ったけれど、それは褒め言葉でもあり、呆れでもあった。わたしは、"ユニーク=孤立"の方程式を思い出した。孤立は必ずしも不幸ではないけれど、視線を浴びるたびに、すこし疲れる。そこに、信頼関係などは一切存在せず、ただ一方的に見られるだけというのは、自分の中の何かが消耗される気がするのだ。

 結局、描かれた石膏像は半分人間、半分怪物のようになり、わたしのスケッチブックは異世界の入り口みたいになった。


 昼休み、机に突っ伏していたら、友人が「具合悪いの?」と声をかけてきた。わたしは、「眠いだけ」と返した。

 眠いと言えば、免罪符になる。人間の八割くらいの不調は、眠い、で片づけられる気がする。実際、眠いと嘘をついても、誰も疑わない。扱いやすく、便利な盾だ。眠気というのは、怠惰の仮面をかぶったやさしさで、相手に余計な心配をさせないための魔法でもある。深入りさせず、心配させない、お互いを守れる使い勝手の良い防御魔法。


 午後の理科では、化学反応式が黒板に並んでいた。わたしは反応式を眺めながら、人間関係もきっと似たようなものだと考えた。混ざり合って発熱する組み合わせもあれば、沈殿を生み出す相性もある。

 わたしはどちらかといえば、無反応の部類で、隣の席の誰と組んでも大きな変化は起こさない。それは退屈かもしれないけれど、爆発しないという安心感もあるだろう。

 わたしのような火花を散らさない人間は、火花を散らす人間に嫉妬されることもある。無反応な存在を目の当たりにすることで、彼ら彼女らは、自分自身の感情的な振る舞いを再認識してしまうのかもしれない。そしてそこに潜む、自己矛盾や後悔を刺激されるのだろう。 平凡というのは、実は特殊なのかもしれない。


 放課後、帰り道のコンビニで肉まんを買った。紙袋の底から湯気が立ちのぼり、秋の夕方の冷えた空気に混ざっていった。湯気は一瞬で消えるが、その温度は手のひらに残る。

 わたしの存在も同じように、すぐに消えていくのに、誰かの手のひらにすこしだけ熱を残せたらいい。肉まんをひと口かじったとき、具材よりもその考えのほうが、よほど温かかった。


 夜、自室でノートを広げると、今日のデッサンの絵を思い出した。怪物じみた像の顔を思い浮かべると、なぜかすこし愛おしく感じられる。

 欠陥は、不完全な美の証拠でもある。人は完璧な像に憧れつつ、不完全なものに救われる。そこには、背伸びする必要のない、ありのままの自分を受け入れてもらえる、という安心感があるのだろう。わたしが救われるのも、きっと、そういう不格好な存在だ。

 今日一日の終わりに、わたしは心の中で、「ありがとう、怪物」とつぶやいた。鏡の前で切れたゴムの音までが、すこし優しい思い出になったように感じられた。

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